地球を発つ日
テオが目を覚ましたとき――
ちょうど、看護見張りのバンドラゴラに用があって、クーガは病室を訪ねた。そこにはリハビリ中のヴァルクスもおり、話し中に、シェノクが合流してきた。
いつになく賑わった病室。
そこで、騎士達は何度となく、ティオドールの名前を口にした。
――何度も、名を呼ぶ。
それが、ティオドールの目を覚まさせたのではないかと医者は言った。
そういうことがあるとは、クーガも聞いたことがあった。なるほどと思った。
病室のベッドで眠る、少年の白い顔。
クーガはそのすぐそばに腰かけて覗き込む。
そして、囁いた。
「リタ。……リタ。リタ……」
何度も、呼び続ける。
「リタ……起きて……」
騎士団長は忙しい。
事件の後処理、日常の業務、そして自身の治療で、多くの時間を取られてしまう。
だがそれ以外の時間はすべて、彼はリタのそばにいた。
いままで黙って座っていたのを、この日からは名を呼ぶことにする。それだけの作業を追加して、彼は愚直に、少年の名を呼び続けていた。
病院は、経営がオーリオウル人である以外、地球の病院と違いはない。壁に置かれたカレンダーが、一枚破られて、十一月のものに取り変わる。
その日、騎士団が、そのロビーに集まっていた。
騎士団長クーガを囲んでねぎらう。
ラトキア本国から帰還命令が出て、騎士たちは今日、この星を出立することになったのだ。
「……まだ、時間があるな。各自、自由に過ごしてくれて構わない。家族への土産を買うのでも、あるいは土産話作りに観光するのでも」
クーガの言葉に、一番うれしそうな顔をしたのはバンドラゴラだった。
「やった。商店街に、ラトキアでも着れそうな着物屋があったんだ。面白い帯や飾りを嫁さんに買ってやりたいな」
「自分は酒を持ち帰りたい。日本の地酒には興味がある」
「いいね。アレイニはどうする? おれと一緒に来るかい」
と、言ってすぐ、バンドラゴラは肩をすくめた。
「いや、ティオドールがまだ、退院したてで本調子じゃないな。アレイニ、一緒にいてやってくれよ」
テオが眉をはねあげる。彼が何か言う前に、アレイニはハイと頷いた。もとより、そのつもりだったのだ。
シェノクは宇宙船の準備にかかるといい、そこで各々解散となった。
「団長はどうしますか?」
シェノクの問いに、クーガは目を細める。
「……少し、遅れていく」
それだけ言って、病院のほうへ踵を返していった。
その後姿を見送って。
「さて。どうしましょうか? なにか買いに行きます?私、荷物持ちしますよっ」
と、言いはしたが、その助力が必要でないことは承知していた。
ティオドールが目覚めて三日。少年の回復力はすばらしく、初めはぎこちなく立ち上がるのがやっとだったのも、翌日にはふつうに歩けるまでに復活した。
右手が麻痺していたヴァルクスも、もう以前の握力に戻ったというから、抜けやすい特性の毒だったのかもしれない。
「それとも、何か食べに行きましょうか。病院食にはすっかり飽きたでしょ? 快気祝いに私がオゴりますよ」
「……別に、不味いもんじゃなかったぜ」
テオの言葉は、予想に反してひどく味気なかった。なんとなく違和感は覚えながらも、アレイニはさらに提案する。
「じゃあ、マンガを買いに。私も本屋さんは興味があるし」
テオは返事をしなかった。
うつむいたままのティオドール。どうも元気がないらしい。まだ毒の後遺症があるのだろうか、顔色を見ようとしたアレイニから、テオは視線を背ける。
「……テオ?」
首を傾げるアレイニ。目を背けたまま、テオは低い声でつぶやいた。
「……リタの『正体』のこと、シェノクに聞いた」
「ああ……元、凶悪犯罪の容疑者。テオのカンは当たっていましたね」
「当たってねえよ、大はずれだ」
吐き捨てる少年。
その声には罪悪感と自己嫌悪という、苦いものがたっぷりと含まれている。
それがくすぶっていたのかと、アレイニは納得した。
だがしかし、こうして誤解が解けたのだからいいではないか。いつまでも引きずる意味が分からない。疑われるだけの要素はあったのだし、テオが悪びれる必要はないだろう。
そう言って慰めたが、彼は聞く耳をもたなかった。
「……友達に、なっておけばよかった。ちくしょう。あいつ、あのまま死んだりしねえよな……」
その言葉で――
アレイニは初めて、目の前の病院に、クリバヤシリタが眠っていると思い出したのだった。
騎士達も、オストワルドもいなくなって。
クーガに残された時間はあとわずかだった。
「……リタ……」
今日も、変わらず眠り続けている少年。
吐息が聞こえるほど近づいて、その呼吸の音を聞く。
健全な睡眠中にしか見えない、穏やかな呼吸と、やすらかな寝顔。長くはないが密度のある睫が、まれにぴくりと揺れている。それでも、その瞼が開いてくれることはない。丸みのある目もとでくるくるとよく動く琥珀色の瞳。それが、クーガの姿を映すことを期待していても、青白い皮膚の閉ざされた瞼がそこにあるだけである。
手を伸ばし、彼の頬に触れてみる。
頬を引っ張る。耳を指でつたう。うなじに手を回し、後ろ髪を梳いて、顎を薬指でなでていく。
少し上を向いた小さくて丸い鼻。ぷくんとすねたように膨らんだ唇。
口を開けばああも賢く、面白い。だがこうして静かに眠っていれば、その造作はいかにも幼かった。
自分なんかより、よっぽど少女のような面差し。
可愛い。柔らかい。可愛らしい。
愛おしい、彼の造形ひとつひとつを愛撫しおえて、クーガは、シーツの端を強く握りしめた。
「リタ。りーた。りたー……」
この数日間、繰り返してきたことを、同じように口にする。
「リタ。起きて。リタ――」
目を閉じたままの少年を、揺さぶる白い女の手。
そう変化した己の手。
「……リタ…………」
それでも少年は目覚めない。
服の下、内ポケットで『オットー』が振動した。オストワルドからの催促だった。
もう行かなくてはいけない。
それが自分の仕事だった。リタの看護をしていられない。いつまでもそばにいるわけにはいかなかった。
さようならリタ。
いつか、また。いつか必ず――
そう呟いた言葉は、声にならなかった。立ち去ろうと腰を上げる。ふと、胸元のボタンが開いたままなのに気が付いた。すぐに閉めようと手で触れて――
クーガは、シーツの中に手を入れた。そして脱力した少年の手を掴んだ。




