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キリコとアレイニとクーガ②

 腰掛けていたベッドに、仰向けになる。

 そうして、アレイニは、剥き出しの背中を跳ねさせた。


 シーツはわずかに温もりと湿り気があった。アレイニとは違う、他人のにおいがする。


 キリコのベッド。


(……甘いにおいがする)


  それは心地よいにおいではなかった。キリコの物ではない、と、アレイニは本能的に察した。

 男のものとも、女のものとも判別のできない、甘い香り。

 香水や化粧の類ではない。

 子供の肌のにおい。


 ――その主に気がつき、アレイニは飛び起きた。


 ガチャリとドアノブの回る音、バスルームから、人間の足音が近づいてくる。


 アレイニは脱ぎ散らかしていた衣服をかき集めた。でたらめに羽織るだけ身につけて、寝室を飛び出す。途中の景色など目に入れないように、アレイニは全力で走った。


 そのまま真っ直ぐに走っていく。

 裸足のままだというのは、小石で爪を割ったときに初めて気がついた。

 それでも走った。

 中庭を突っ切って、進路を遮る建物にへばりついた。思い切り額を打ち付ける。

 そのまま、アレイニは何度も、額を当てた。


 天を仰ぎ、喉が裂けるほどの大声で、叫ぶ――


「馬鹿野郎!」


 石壁がアレイニの皮膚を裂き、血がにじむ。さらに打ち付ける。


「馬鹿野郎! ――くそったれ。馬鹿。阿呆。死ね。みんな死ね! 嫌い。滅びろ。焼け落ちてしまえ。死ねばいいのよ。嫌い。みんなみんな大嫌い。

 ブス。デブ。ペチャパイ。ゲジ眉毛。下手くそ、不潔、教養なし貧乏人馬鹿馬鹿馬鹿――みんな嫌い。死ね。嫌い。大嫌い! 大嫌い!!」


 鮮血が滴り、頬を伝って、合流した涙によって水かさを増して、顎から落ちる。


「女なんて。女なんて――」


 アア。アア。アアアアアア。


 声を上げて泣きじゃくる。


 静まりかえった兵舎から、心配して顔をのぞかせてくれるひとなど誰もいない。

 少年兵の宿舎であるのに、あまりにもヒトの気配が無さ過ぎる。

 総勢で、遠方に演習にでも出ているのだろうか。

 誰もそこにいない。

 星明かりが陰るたび、背中に誰かいるかと振り返る。


 風に梢が揺れるたび、優しい人の声を幻聴する。

 しかしそれらはすべて裏切られ、アレイニは一人で泣き続けるしかなかった。


「テオ……テオ」


 アレイニは呻きながら、窓枠に縋った。


「テオ……私、泣いてる。泣いているの。だから、お願い、テオ……」


 キャンディをちょうだい。


 その声は確かに、アレイニの口から吐き出された。

 しかしそれを聞く者は誰もおらず、赤い髪をした少年もまた、アレイニを笑顔にさせてはくれなかった。




 ラトキアの大脳と呼ばれた科学者キリコが、そのラボを追われたのは、それから二週間後のことだった。


 ――開発途中の経口避妊薬を、眠剤とともに未成年の被検体に服用させ淫行に及ぼうとした容疑により、以後、その少女との接触を禁ずる――


 その言葉は、ラトキア将軍にして星帝皇后であるオストワルド女史が直参して通告された。

 突然研究室に乗り込みそう述べられたキリコは、眉を半分上げただけだった。


 胸まである水色の髪は、今日は後頭部でまとめられバレッタで飾られていた。白衣の下に、鮮やかな緑色のシャツ。いつもより少しだけ華やかな衣裳で、平常と対して変わりない笑みを浮かべて見せる。少しだけ皮肉げにして。


「それだけの大罪で、逮捕でも追放でもなく、被害者との接触禁止というだけかね?」


 美形とまでは言えない。だが、妖艶な美女である。

 彼女はたおやかな指をアゴにあて、そう、雑談のように聞いた。


 オストワルドは、彼女よりもよほど苦い顔をしていた。通告書を掲げたまま、低い声で返答する。


「……この、匿名の内部告発が、真実であるかどうか疑わしいからな。……いや、きっと真実ではないだろう。……だがそれは関係ない。事実、疑わしい要素と、将来これが現実になるであろう予測がたつ現状を、これ以上、容認するわけにはいかない」


 チェアに背を預け、キリコは思考する。

 小さなホクロのついた口元を指先で撫で、フムと小さく相槌を打った。


「……それは、誤解だとどれだけ弁解しても意味がない――どうであれクゥには触れなくなると、そういうこと?」

「……そうだ」


 あっそう、と、キリコは唇をとがらせた。


「まあ、仕方ないか。否定できないところもあるしねえ」


「キリコ。これはずっと前から思っていた、ちょうどいい機会の、異動というだけなんだ」


 オストワルドはそう言って、キリコのご機嫌をうかがうように、妙に卑屈な声を出す。


「一度断られたから、再度打診するのにタイミングをうかがっていた……」

「なあに、それって脅迫」

「違う。つけこむわけではないのだが――前回よりも、ずっといい条件を提示できる。話を聞いてくれ」


 オストワルド将軍は、キリコを見下しはしなかった。だが決して近づきはせず、のけぞるほどに背筋を伸ばしたまま、告げていく。


「前から、話をしていたと思うが……この狭い研究室を出て、特別講師ではなく正式に学院の主となってほしいのだ。そして多くの若人の前で教鞭を取り、お前の後継者を育てるんだ。

 今、このラトキアはお前に多くのものを背負わせすぎている。その重荷を分担して、少しは身軽になるといい。騎士たち以上の屋敷を与えるし――」

「要らない」

「ゆくゆくは、将軍として――」

「要らないって言ってるだろう」


 キリコは立ち上がると、白衣を脱ぎ始めた。ロッカーに放り込み、代わりに私服のジャケットを羽織る。出張用の大きなカバンに、デスク周りの私物をどんどん放り込んでいく。


 オストワルドが声を上げた。


「どうした、キリコ。……どこへ行く!」

「出ていく。このラトキア軍の研究所から」

「――はぁっ!?」


 悲鳴は、オストワルドと、そしてアレイニが上げた。彼は二人の女を一瞥もせず、あっという間に身支度を整えると、研究室を出て歩き出す。


 すぐにオストワルドが駆け寄る。アレイニもまた、その後ろに続いた。


「ちょっ――待ちなさい! 待って、キリコ。なんだって? 出ていく? 辞める? 研究者をか!?」

「軍人を辞める。部屋のほうは月末まで契約が残っているはずだから、もう少し荷物は置かせてもらうよ。まあ明日には引き取り業者を向かわせるけど」


 歩みを止めずに、キリコ。

 オストワルドも横に並び、ヒールを鳴らして追いすがった。


「ふざけるな、お前、仕事をなんだと思ってる。この住み慣れたラボをそんなあっさり離れようなんて」

「離そうとしたのは貴様だろう。来年かそれとも今すぐか、タイミングが変わっただけの話」

「許さんぞ。お前はラトキア軍にとって、どれだけ重要な情報をその脳に入れたままだと思ってるんだ。無責任が過ぎる!」

「情報なら、すべて記録に残しているよ」


 キリコはそこでやっと、アレイニを振り向いた。


「それと、そこの『肉辞典』。このキリコのレコーダーとしては極めて優秀だ。私に聞きたいことがあれば、あれに聞くとよろしい」


 ふと視線を這わせる。


「……はて、名前は何と言ったかな。……まあいいか」


 そしてまた背を向けた。


 オストワルドはしばらく呆然と、キリコ、アレイニ両者を見まわす。そしてすぐにキリコを追った。


「……それで、お前はどうする気なんだ。明日からどうやって過ごす。仕事は、住処は?」

「アテくらいあるさ。あーもううるさいねえ、お前は母親かオストワルド。お前のデカいケツから生まれた覚えはないよ」

「ちょっ――待てって! ひとの話を――いいから一回ちょっと足止めなさいってばもぉおおおっ」

「クゥに触れないなら、ここに未練は何もない」


「待ってください、キリコ博士」


 アレイニは回り込み、両手を広げた。


「……『光の塔』には、化学実験が出来る設備があります。私の部屋に……住んでいたころに作ったものです」


 キリコは目を細めた。


「……そこに、クーガは居るかい?」


 アレイニは首を振る。

 それで、キリコはもう何も言わなかった。

 研究所を出て、中庭を突っ切る。どうやら本当に、そのまま、帝都からも出ていくつもりらしい。

 バスターミナルに続く、正門――

 二人の女に追いかけられながらも、キリコはそこへたどり着いた。


 と。彼女の足が止まった。


「……クゥ」


 そこに、黒髪の少年がいた。



 遠征からの帰還に、ちょうど重なった、ただそれだけの偶然だった。

 だが、それは運命的な邂逅であった。クーガ以外の三人がそう思った。


 キリコは手荷物を地に落とし、歩み寄る。

 雄体化し、己よりも長身になった少年に向けて、手を伸ばす。


 指先が少年の胸に触れる。


「……キリコ?」


 その様子に、クーガもまた、何かを感じ取ったらしい。追いすがる二人の女と大量の荷物、そしてキリコ――


  その、かすかに濡れた水色の瞳。

 雌体化し、己よりも小柄になった女に向けて、クーガは眉をひそめた。


 二週間前、アレイニが目撃した時とは性別が入れ替わった二人。彼らは見つめ合い、そのまましばらく、立ち尽くしていた。

 キリコが指を這わせ、クーガの肩へ、手のひらを張り付ける。女の手が、少年の背に回った。


「……クゥ。私と一緒においで……」


 クーガはただ無表情で、キリコを抱き寄せる。

 二人はしばらく、そうして抱き合っていた。


 キリコは、大きな男ではなかった。

 それが雌体化すると、なお華奢な女になる。白衣という仕事着を脱ぎ、ラトキアの民族服を帯で縛った腰はいかにも細かった。

 十六歳の少年は、キリコの肩を抱き、背を撫で、腰までを抱きすくめる。

 アレイニが血相を変えて飛び出そうとしたとき。


 クーガは身を離した。



「……無理。さようならキリコ。忘れない。元気でいてくれ」



 キリコが目を見開き、わずかに身を震わせた。


 アレイニは絶句していた。少年の、あまりにも冷酷な口ぶりに愕然として。

 オストワルドもまた口をつぐみ、憐れむような目をキリコへ向ける。


 キリコは――俯いて、笑った。


「……そう。それは、とても残念……」


 キリコの細い指がクーガから離れ、ポケットに差し込まれる。


 彼女はそこから、小さな包みの束を取り出した。粉末の薬品――その中身に気が付いたクーガが、手を伸ばす。

 だが目の前で、キリコは包みを破った。白い粉が空中に広がり、風にあおられて霧散する。

 クーガの手が宙を掻く。


 キリコは笑った。


 高らかな笑いが響き、三人は後ずさった。キリコの笑い声は、これまでになく長く、禍々しく、地に沁み天に広がっていく。

 やがて、彼は笑い声を低く、収めて行った。



「これで、お前はもう眠れない」



 呪いの言葉を吐き捨てて――


 天才科学者キリコは、永遠に、ラトキア軍に戻ることはなかった。


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