幽霊と一途な恋物語
夜の教室には、僕と彼女の二人きりだった。
室内は薄暗く、窓から漏れてくる月明かりと廊下からの非常灯の明かりがうっすらと俺たちを照らしている。彼女は窓際に立って、まっすぐに僕を見て、そして聞いてきた。
「……正気?」
正気だ。そして、本気だ。
僕は少しも間を置かず首を縦に振った。僕は本気で、彼女を愛している。
「僕と付き合ってください」
もう一度、僕は言った。この教室に入ってから真っ先に口にしたことを。
彼女は僅かに顔を紅潮させたように見えた。そして小さな声で「ありがとう」と言うのが聞こえた。
「けど、ごめん。君の気持ちには応えられない。だって、私は……」
その先を紡ぐ事を、彼女は躊躇った。
けれど僕は、彼女が何を言いたいのかを理解していた。彼女と僕では住む世界が違う。見えるはずのない彼女の背後の校庭は月明かりに照らされてはっきりと見えていた。彼女は透けていた。
彼女は幽霊だった。けれど、それが一体何だというのか。
彼女と出会ったのは、一週間前の同じ時間だった。忘れ物を取りに教室に戻ると、窓際の席に座る小さな背中を見つけた。
こっちに気付いた彼女が立ち上がる。僕は腰を抜かしそうになった。彼女の体は透けていて、彼女が遮って見えないはずの黒板の文字が見えた。前後不覚に陥った脳みそは逃げることを選択し、忘れ物が何だったのかも忘れて一目散に廊下に飛び出した。誰かの机を蹴り飛ばした気がしたが、そんなのに構っている余裕はなかった。
廊下を走り抜けて、階段を駆け下りて一階の踊り場に飛び出たあたりで、ふと僕は冷静さを取り戻したのだった。そして彼女の顔を思いだした。教室でぼんやりと見えた彼女の顔に浮かんでいたのは、驚きと動揺、僅かばかりの拒絶だった。自分を受け入れられる存在がこの世にいるはずがない。そんな彼女の声を聞いた気がした。
気がつくと自分の足は、再び教室に向かって歩き出していた。開けっ放しの扉をくぐると彼女はまた、さっきと同じように窓際の席に着いていた。再び僕を目にしたその表情にあったのは、とまどいだった。
「忘れ物したんだ、いいかな?」
一応許可を求めた。教室は学校の物だが、その時だけは彼女の所有物のような気がしていた。
僕の席は、彼女の座っている席のちょうど隣だった。机の中から数学のノートを取り出す。数学は明日の一時限目なので、学校に来てから課題をやる余裕があるとは思えなかった。
「私が怖くないの?」
彼女がそう聞いてきた。いつの間にか、彼女はこっちを見ていた。首だけを動かして僕を見ているその様子は幽霊然としていて、ほどよく不気味だ。
僕は、そんな心中を顔に出さない努力をした。出せばきっと、彼女は僕の前から消えてしまう。彼女はその存在と同様、心の在り方も儚げに見えたからだ。
「怖いよ」
正直に答えた。笑いながら。彼女のつられて、その頬を緩ませた。
「面白い人ね」
そう言って笑った彼女は、この世で見たどんなアイドルの笑顔よりも、可愛かった。
それから一週間、僕は夜になると、教室に通うことにしていた。決まって彼女はそこにいた。そこでいろいろな話をした。最近の学校の様子や、先生のこと。彼女が幽霊になったのは近年のようで、お互いに知っている先生も何人かいた。
そして彼女は、なんでここにいるのかを話してくれた。失恋して自殺してしまったらしい。相手はクラスメイトだったから、彼女はこの教室にいるんだと僕に語った。ここは以前、彼女の教室でもあったようだ。彼女が好きだった生徒の名前を聞いたけれど知らなかった。とっくに卒業してしまったのだろう。
その失恋が未練で、彼女はここに留まり続けているのだという。その話をする彼女は、決して笑わなかった。
一方で、僕の中の彼女に対する思いはどんどん膨れていった。出会ってから一週間経った今日、それは自分の中でもう抑えきれないくらいに大きくなり、そして今に至る。
僕は彼女に打ち明けた。彼女の事が好きだと。もはや彼女は、僕が僕自身を構成する上で重要な欠片になっていた。
「ごめん。君の気持ちには、やっぱり応えられない」
しばらくして、再び彼女は言った。予想通りの返事だった。
彼女が手を伸ばしてくる。その手を掴もうと僕も手を伸ばした。けれどお互いの手が触れるところまで来ても、結局彼女には触れられなかった。彼女は透けている。ただ、本来なら触れているであろう部分がヒンヤリとした感触に包まれただけだった。
予想していた事とはいえ、自分の気持ちが沈んでいくのを実感した。グラスの中に静かに投下された石ころに似ていて、底に着いたところで僅かに音を立てた。
やっぱりダメか。そう思った。彼女と僕は触れられるほど近い位置にいるのに、心の距離は文字通りこの世とあの世くらいある。
「でも、ありがとう。正直嬉しかった」
彼女は鼻をすすった。目には涙を浮かべ、それを手で拭っていた。わなわなと震える口元を反対の手で押さえている。
その仕草は、心の底に沈んだ気持ちを、再び浮上させるのに十分な威力があった。
「関係ない」
僕はきっぱりと言った。
「君が幽霊だろうと、関係ない。大切なのはお互いの気持ちだ」
ありったけの勇気を振り絞った。そうしないと、すぐにでも逃げ出しそうになる。
「これからは僕が君を大切にする。そんな失恋、忘れるぐらい大切にする。だから……」
僕と付き合って欲しい。
三度目の正直。これでダメなら諦めるべきか。
いや、受け入れてもらえるまで何度だって言ってやる。好きだ。幽霊だとか、そんなのは関係ない。ただ触れないだけじゃないか。それが何だっていうんだ。
僕は、彼女を抱きしめた。もちろん触れない。だけど、そんなの関係ない。
彼女の重心が傾いている気がした。こっちに寄りかかっているのだ。僕は彼女を抱きしめた姿勢のまま、静かに彼女の言葉を待った。月明かりに照らされた彼女の涙は、光っているように見えた。
「ありがとう」
そして、彼女は小さく頷いた。小さく、何度も頷いた。
僕はその場で踊り出したくなった。
やった! 心の中で何度も叫んだ。
そんな僕を見て、彼女は悲しげに微笑んだ。そして、言った。
「君のことは、ずっと忘れない」
やはり泣きそうな顔で。僕はその真意が分からずに、僅かに混乱する。
その時だった。
彼女の体が、まばゆいばかりの光に包まれた。月明かりではない。彼女の体自体が発光しているのだ。あまりのまぶしさに、僕は目を閉じた。
光が薄くなり、僕はゆっくりと目を開けた。そこにあったのは静寂と暗闇だけで、彼女の姿はどこにもなかった。
教室中を探し回った。教室だけじゃなく、学校中を走り回った。体育館も裏庭も。夜の学校がこんなに広いとは思わなかった。けれど彼女は、どこにもいなかった。
最後にまた教室に戻ってきた。けれど彼女はいない。どうしていいのか分からなかった。なぜこうなってしまったのか考えに考えた末、僕は気付いた。
「あ……、ああ」
世界の終わりを目にしたかのような絶望の声が自分の喉から漏れた。
成仏したのだ。
彼女は言っていた。失恋の未練が自分をこの世に留めているのだと。
なら、もう一度誰かと恋愛が成就してしまった場合、彼女はどうなってしまうのかは、自明だった。
自然に涙が溢れた。唇を噛み締めた。失恋にではなく、告白された彼女がなぜ涙を流したのかを理解したからだ。僕はちょうど、その時の彼女と同じ気持ちを味わっているのだろう。
相手が幽霊だろうがそんなのは関係ない。その気持ちは変わらない。僕が彼女を好きだという気持ちに、偽りはなかったのだから。
僕も、忘れない。
窓際に立って、ぽっかりと浮かぶ月を眺めながら、僕は静かに黙祷を捧げた。