第三百四十五話 権中将 その2
権中将マグヌス・トリシヌスは磐森への誘いを快諾してくれた。
誘い、なのだ。呼び出しなどできるものではない。中将と権中将――つい最近までの言い方ならば中隊長と叩き上げ小隊長だが――の関係は、なかなか微妙なものがあるから。
俺があしらいに苦労している検非違使大尉ティムル・ベンサムやフィリップ・ヴァロワと言った三十代中堅にして、マグヌスにはなかなか頭が上がらないと言えば理解していただけようか。
「中将殿に指導など、とてもとても。近衛府武術師範の仕事を奪うわけにもいきません」
気さくな笑顔を浮かべつつ、そんな皮肉を口にする。
身分に差のあるシンノスケやカルヴィンに対して行う、心穏やかな指導とは違う。俺を相手にするならば意地の張り合い、「あげくぶちのめして恥をかかせるわけにも参りません」と言わんばかり。
こちらに何か含むところ無きにしも非ずと、任官以来そう思わされてきたけれど。
人事は公正を旨とすべし……実績年功、初代の権中将を任せるならばこの男だと思ったから抜擢した。
ひと汗かいて館に戻り小宴を開いても、老練のマグヌスはゲストにふさわしい如才なさを見せていた。
霊能に虎退治と聞かれ慣れた話を年少者に披露しつつ、反応が微妙と見るや、もう少し「大きな」話――一昨年秋の南嶺の寇(侵略行為)に対する、昨春の反攻作戦――に切り替える。聞き手がチェン家の御曹司とあれば、それがふさわしかろうと気を回す。
「あの戦、我ら近衛の担当は助攻でした」
そのくせこの老将(王国基準)は真っ先駆けての突撃を見せたと、そのことちょっとした語り草になっていた。
さぞ面白い話を聞かせるだろうと思いきや、それきり口を噤む。館の主に目を注ぐや、ただひと言。
「私の領地はご存じかと」
采邑では無い、純然たる領地。たとえ小さな集落に過ぎなくとも、「近衛小隊長の家柄」ならば必ず与えられている。
だが王国成立以前からの旧領を安堵されていたトリシヌス家の領地は名目に過ぎない。所在が旧都近郊……紛争地そのものであるがゆえに。
「ついでに見てきました」
装われたさりげなさに、シンノスケとカルヴィンが視線を交わす。もう遅いからと年少者を促して場を後にする。
ひとり動こうとせぬスゥツ・チェンに浮かせた腰を再び沈めようとした同級のユウには、俺から小さくかぶりを振っておいた。
悔しさを隠そうともせず怒らせたその肩に、背中に、粘つく物を乗せたくは無かったから。
その景色に、こういうところですかと小さく呟いたマグヌス。
かくん、と杯を傾けて口を開いていた。
「……年来の領民も、陛下の御料地に引き取られて数百年。かの地にいま暮らしているのは流民・野盗の類いであると、『手の者』から。だがそれさえも消えていた。連れ去られたか、逃げ散ったか」
俺が任官する前あたりから、南嶺の侵攻は活発化していて。
国境近くに領地を持つ貴族たちの負担と不満は、ここ数年の政治問題ではあった。
「まあ良いかとも思っているんです。代々伝えられてきた姿を目にすることができた。主無き土地には野の花が咲き乱れ……ええ、荒蕪地ですよ」
千年の昔。旧都が平和な大都市であった頃の話。
トリシヌス家はその近郊に領地を持つ、有力貴族の一角で。
いわゆる郊外型農村地帯、切り花の名産地であったと伝承に。
「なぜこんなことに? 中隊長を輩出するお家柄、建国に功績があったことは確かだ。契機ニコラス、弟分リーモン、初の協力者カレワラ、身代わりに散ったオーウェル。引き比べて我がトリシヌス、その功は決して誇れるものではない。だが最後まで協力しなかったヴァロワ、気骨を売り払って命拾いしたヴァロワすら領村を持ち……三男は今や敵国の婿となっているのに。なぜトリシヌスだけが」
英雄王と「皇帝」・旧都勢力が対立した最終局面。トリシヌス家は、旧都をこじ開ける鍵となった……要は最初の裏切り者。
対して、節を曲げることなく最後まで抗ったのがヴァロワ家で。建国黎明期にはひどく肩身が狭かったらしい。
だがその名誉はすぐに回復された。揺り戻しに苦しむ新王朝が臣下に求めるものとは軍才よりも智謀よりも、忠誠だから。
「国王陛下のご勘気を被り断絶してなお、元の地位を賜ったカレワラ家。我らと、何が違うのか」
子供たちを返してから、マグヌスは立て続けに杯をあおっていたけれど。
据わった眼差しはしかし、充血の色を見せていなくて。
酔った、ふり。
――抜擢したからには、私に何か求めているのだろう? 何を寄越してくれる?――
信頼関係を築けぬまま抜擢を受けたからこそ。いつか一度、腹を割る必要があって。
だが男どうしとは、なぜかこの形でないと、なかなか素直になれなくて。
視線を重ねたところに水を差したのは、傍らに座す鬚面だった。
「やめようや、マグヌスさん。いえ、失礼をいたしました、トリシヌス権中将さま?」
ちうへい・エイヴォン、皮肉に唇を歪めていた。
「五十男が、そんな湿った理由で動くかよ。……麗しきお題目だよな、『我が武威の元、失われた故地を回復せん』。一族の求心力を高め、身内の政敵を叩くには最高だ。ウチでも三代似たようなテを使ってきたからよく分かる」
同じ匂いのする者はすぐに分かる、だったか。
「が、そいつは内輪の理屈だ。よそ様に聞かせるものじゃない。『領地の村が欲しい、できれば王都近郊に。ヴァロワ並みの待遇を』。突き詰めちまえばそういうことだろ?」
こういうところか、と。
何を意味しているのやら、そこは突き詰めても仕方無いようにも思われる言葉を再び呟いて。
「話が早いな、エイヴォンの。だが領地を得るのは簡単なことじゃない。皆が納得する功績を示す必要がある。例えば……」
ぐびりとチェイサーに喉を潤していた。
「酔ったふり」をかなぐり捨てる合図代わりに。
「大戦前年、後背地ファンゾ島への外征を指揮。新都にあって防諜活動また治安維持に貢献。大戦に臨んで監軍校尉を務め十万の士気を維持し、戦後軍事法廷に提訴された紛争はわずか十三件。盟友リーモンと肩を並べ方面軍の防衛に協力し、三万を率いる将を手ずから生け捕りに。以て王長子殿下の戦勝に貢献する……ぐらいの功績を挙げられればな」
急な抜擢が不気味で仕方無い。だから調べる。非礼のあとにはフォローを入れる。
その細心さ、霊能そのもので。あるいは人柄が現れるものかと……脳裡をかすめた小さな疑問は、いま追いかけてもしかたない。
「南嶺侵攻、大義名分は立つが」
ここ数年の攻勢に対する対抗措置。
しかし近衛中隊長レベルで動かせる話でないことも、誰しも理解しているところ。
「そもそも今年は凶作、戦争など論外です。他の筋書きは……外が無理なら内に求めよ、咎めを受けた貴族の領地を削る、ですか? 外征して土地を得るよりよほど容易だ」
若々しく、それでいて冷静な声。
兵站財政、目算を立てられてこそトワ系名門、その御曹司スゥツ・チェン。
「彼の寄親、ノーフォーク公爵家にも協力を仰げば」
政局への目配りも欠かさないこの少年に、俺から学ぶべきものなどあるのだろうか。
ロシウは何を考えているのか……コブをほうって商都で羽を伸ばすつもりでもあるまいが。
ともかく。クリスチアン・ノーフォークが近衛府入りした際、チューターを務めたのがマグヌスである。南嶺戦役でも少年の意をよく体して軍を動かしていた。
武名高き将校、経験豊富なベテラン、積年の功績に華やかな容姿、古き家柄。全て嘘ではないが……近衛府であれ何であれ、メル系インディーズの俺が筆頭で、キュビとデクスターが幹部を務めておいて、同期のノーフォークに配慮せぬわけにはいかない。
「人事は公正を旨とすべし」、王国中央政府における「良識」とはそういうもの。
良識ある年長者として、スゥツに笑顔を向けその見識に賛辞を贈り。
再びベテラン軍人に向き直る。良識ある若手上流貴族として。
「だが領地を返上させるほどの咎めとは……何があったかな?」
この秋。ひとつだけ、手柄のタネが生まれていたけれど。
我から口にすることは避けた。
「向ヶ丘南北両村の件、ぜひ私に任せていただきたく」
言わせた案件、向ヶ丘。王都の南西にある山を挟んだ両村。
領主は近衛小隊長の家柄、それも有力な部類であった。しかし先代は小隊長に就けず、当代はいまだ若年で。その他もろもろ、以前より評判が芳しくなかったことも確かだが。凶作に対応を誤ったため、ついに反乱を起こされた。
鎮圧に他者の手を借りればはっきり不名誉で、一村を「取り上げ」か「預かり」、それは十分ありうる話で。駐留から既成事実化を推し進めてしまえば。
「王都近郊の治安維持、近衛府が出張る名分はあるか。よし、予算また人手、必ず協力しよう」
……物事が裏目裏目に出る、そういう時期は確かにある。
だが挽回のため、領主はよりにもよってスレイマン殿下を頼っていたから。
(王室の大物を頼るのが「裏目」って、ちょっとヒロ君)
(えらそうだぞヒロ)
(おだまりピンク、ヴァガン! そうよ、「よりにもよって俺様が近衛中隊長に就任したこの時に」って、見せしめに踏み潰すぐらいでちょうど良い!)
(で? そこに美意識はあるのか?)
「だから決定までは、私の言動に目をつぶってもらえるかなマグヌス」
弱っている敵は徹底的に叩く、べきかもしれないが。
簡単に許可を出しては、継承レース絡みと誤解される……いや、正解か。
だが正面切ってのヘイトを部下の近衛兵から、常に中隊長に注目している貴族たちから買いたくは無かった。
「難しい案件だ。老練の驍将……兵部卿宮さまからもその功を大いに表彰されたマグヌス・トリシヌスを措いて任せられる男など他にいない」
近衛府に誘いの腕を伸ばしているのは、スレイマン殿下だけではない。
アリエルの言葉ではないけれど、力を見せることも必要で。
「長年の功績、初代権中将にふさわしいと思ったから指名した。協力してもらいたい」
だがネヴィルが言及した「美意識」に類する思いもあった。情実や政局的意図などを一切排除したとしても、マグヌス・トリシヌスが叩き上げの第一人者であることは確かだったから。
長年の蓄積――権中将の制度が定着すれば、その家柄も大きな意味を持つということ――を匂わせたことも、また確かであったけれど。
「カレワラの復権も、私ひとりの手柄では無い。分家のエイヴォンが三代にわたり、身上を傾ける勢いで尽力してくれたおかげだ」
「知ってるだろう? カレワラ家の次期当主。ウチのお頭は必ず応えてくれる」
鬚づらのダメ押しに、ようやく老人が頭を垂れた。
何を思ってかは、知る由も無いけれど。
 




