第三百三十二話 あしもとの影 その5
「ご無事の還御おめでとうございます、征南大将軍殿下」
「和子様誕生を共に祝う機会をいただき、雅院には感謝の言葉もありません」
挨拶は万雷の拍手もて迎えられた。
絵になる会話、胃の痛いやり取り。
ここは雅院、フィリアを中心にメル家全面バックアップのもとセッティングされた宴ゆえ、大きな問題など存在せぬ、はずだが。
現場の運営は――ふたりが交わす杯の支度をするのも――俺の担当だから。
「無事で何よりだ、スレイマン」
「兄上こそご健勝のご様子。安心いたしました」
引き続いて、くだけた挨拶。
兄弟のほほえましいひとコマ……と、素直に見て良いものか。
何せ周囲の視線が、妙な熱を帯びているものだから。
21歳のスレイマン殿下は、これと言った特徴を見出しづらい人物であった。
その容姿を形容するにぴったりの言葉がある。こちらに来てからしばしば耳にするようになった不思議な表現……そう、「人並みの美貌」なる一語。
身長も王国の平均に比すれば高いが、近衛府の人々に比べればやや低くて。
要するに、「標準的な貴族」という言葉がぴったりあてはまる。
それでもはっきり聖上の御子であることは、その温和な容貌に見て取れた。
三兄弟(いまや四兄弟であるが)の中では最も陛下に似ている。
容貌体格ばかりではない。
挙措や言葉づかい、それどころか声の質に至るまで、まるく穏やかで。
やはり特徴というものが感じられない。
例に従い、身分高き人々――我らよりひと回りふた回り年上の中堅どころ――から順に挨拶に伺う。
聞き耳を立てても、そのやり取りはどこまでも「普通」。
何を話せば良いものかと思いつつ。
挨拶前に身だしなみを整えておくかと廊下に出た、その帰り道のこと。
長雨の季節も近づく宵の湿気に、あるいは酒の入った男達の人いきれに、酔いでも覚えられたものか。
スレイマン殿下は御簾の外にそっと身をせり出していた。
ただようかすかな香り。
雲に覆われた月影の下、闇中に存在を主張するその花に目を落とされた殿下、思わずといった様子で声を発していた。
「『けふもけふ あやめもあやめ』……か」
(去年、率府にあった頃と今日の日付けは変わっていない。菖蒲も菖蒲のままだ。……「しかし我が境遇の、この変わりよう」)
何を嘆く?
率府からの還御は都人にとって慶事のはずだが。
いやあるいは、率府との比較ではなくて……かつて西下した時と今の都とを比べている?
人柄を知るきっかけにできるかと、そう思った。
……あやめ草ならほととぎす。
「『ふるさとにしも 鳴きて来つらむ』などとも聞き及びます。それもふるさとに帰り着いたればこそ。ご還御、まことにおめでとうございます」
(「昔を恋うたほととぎすが、故郷に帰りついて鳴いている」なる歌がありますが。およそほととぎすとはかなわぬ帰郷を嘆き叫ぶもの。……「帰京して嘆くことができる、めでたきことではありませんか」)
不意を打った、はずであった。
しかしスレイマン殿下の表情には一片の動揺すら現れぬ。
これもどう捉えれば良いものか。
「なるほど、あやめ(道理)である。私は都に帰ってきたのであった」
にこやかな笑顔。
父聖上陛下にますます似ていた。
が、果たして。このお方は、何をどう考えておいでなのか。
「『心まどはす さ夜のひと声』と申します、殿下」
(ほととぎすの声はひとを惑わせるもの……「耳を貸すことはありません」)
随身――個人的なスタッフ、取巻き――が、物陰よりすいと現れた。
弟君の取巻きよりは、いろいろな意味で「できる」。
「かまわぬ。せっかく良き言葉を聞かせてくれたのだ。何か取らせよう……飾り紐が良いか、珠が良いか」
仄暗がりも悪くない。
思わず細めた目を……警戒を、窺われずに済む。
「私は飾り紐をいただきました」
またひとり、取巻きの声が上がる。
薄闇の中、それでもこちらに横顔を見せていた。
はっきりとした、示唆。
飾り紐とは纓、あるいは緌。官位の象徴。
珠とは財産の象徴、この世界であればそれは「領地・采邑」で。
いきなり切り込むか?
親しく接しているアスラーン殿下ですら、5年待って見極めた話題に?
酒杯を周旋している俺が誰かは知っているはずだが?
後継者レースには積極的でないと聞いていたが?
「傍らの者によれば、我が義父はほととぎすなのでしょう? ならば望みをかなえてはなりますまい」
(ほととぎすの望みは帰郷……つまり致仕。あなたが王になろうものなら、この男は退職することでしょう)
意外な声に、思わず振り向いた。
いや、それぐらいのセリフを叩き付ける能があることは承知していたけれど。
その姿もやはり薄暗がりの中、表情は読み取れなくて。
「通う妻があるとの噂はまことであったか、バヤジット」
背中から聞こえた声は少年の正体を示した後、含み笑いを漏らしていた。
「やはり、あやめもあやめ……あやめも分かぬ闇の中か。いや、今日は宴であったな。けふはけふ、いつまでも席を外すわけにもいくまい」
さらにいくつかの気配を引き連れ、再び御簾のうちに座を移すスレイマン殿下。
アスラーン殿下に、バヤジットに見せた態度。ふたりが見せた態度。
兄弟は他人などとも聞くけれど……何がどこまで本音であるか。
(いま考えてもしかたないんじゃない?)
内なる声にまたも励まされ。振り仰ぎ俯けば。
あしもとには月影。そして闇。
10/13 前征南大将軍の名前をアブドゥラからスレイマンに訂正いたしました。
不覚庵さま、ご指摘ありがとうございます。




