第三百三十二話 あしもとの影 その1
三席典侍イオ様のご実家は王宮の東方、直線距離にして10kmほど。
王室居住地のほぼ中央、大通りから離れた閑静な佇まいの中にある。
ハサン殿下やナシメント氏のお邸にもほど近く、俺も折に触れ通り掛かっていた馴染みの地。
言葉を飾るのが、もはや癖になってしまった。
……要するに、好立地とは言い難い地区である。
各省の卿を務める宮さまなど、有力な王族は目抜き通り沿いに居を構えているところ。
しかしイオ様のご実家は……大通りから離れていて(交通の便が悪く)、閑静で(猟官のためご機嫌伺いに訪う人の影も無く)、ご近所さんが存在する(狭い敷地どうしでひしめいている)区画であり。それゆえ近衛の小隊長や検非違使が巡回コースにしている地域。
さすがにスラムとは趣が異なるけれど……大不況の折には盗賊も現れた。現在でも築地塀の崩落や火災の発生には重々気を使わねばならぬ界隈である。
しかしイオ様が典侍として入内され陛下のご寵愛深きいまや、ご実家の舎人は増員されていた。
お宿下がりともなれば近衛小隊長(侍従)が遣わされるほどで。
近辺の区画をお求めになり、慎ましくも広がりを見せるようになった敷地の庭には躑躅が咲き誇っていて。庭師……と言う雰囲気では無いな、あの姿は。「造園」という芸術を担う専門家という体でアルバイトしている貴族でもあろうか。そうした人々が出入りする境遇。
蝶が舞っていた。陽気は徐々に伸びている。
イオ様の体力も順調に回復されているとのこと。
「『五月(旧暦。梅雨どき)の悪天候を迎える前に参内いたします』と、大姫さまからは」
口にされたイオ様の父君は、見るからにのどやかなお人柄で。
「年に一度の祭礼、久しぶりに親子で見に行けるかと期待しておりましたけれど。そうですわね、お局を預かる典侍さまですもの。赤さんまでお生まれになり。子供だとばかり思っていた私が浅はかでした」
御簾の向こうから聞こえる母君のお声も、ゆったりと伸びやかなものであった。
なんだろうなあ、この景色。
俺が王室に惹かれているのは、結局のところ郷愁……どこか日本の故郷を思い出させるからとか?
「いくつになってもお子はお子、ありがたきは親心ですね。しかし典侍さまは陛下のご寵愛もご信任も深きお方。お帰りを心待ちにされているとあれば、これもまたありがたきお話でしょう」
その言葉を口にされたナシメント氏の紹介で、俺はこの場に居合わせている。
……それはつまり。
カレワラめに足を踏み入れさせまいとした前式部卿宮ワーリー・タヒール氏の思惑は、いとも簡単に踏み潰されてしまったと。そうした次第を示しているわけで。
俺の政治力(笑)によるものではない。
陛下や閣僚のお声がかりによるわけでもない。
話が持ち込まれた時には、正直。
「そっちかー。見落としてたわー」と天を仰ぎつつも。
大事になるまで気づかず足元を掬われる前にその「勢力」の存在を意識することができて良かったと、胸を撫で下ろしたものであった。
「男の人は話の分からぬもの。母も子もゆったり過ごさねばならぬと言うのに、やれ顔を見せろ子を抱かせろと。やつれた顔を見せたくない女心も分からねば、赤さんの体の弱さも知らぬのです」
そういうものかもしれませんね。
だから、千早も……と、しんみりする間もあらばこそ。
「ですから、私どもが会いに行こうと思い立ちました」
いや、それが分からないのです。
安静第一なら、気の張るお客様の訪問はいかがなものかと。
「『十日後に友人がお祝いに来てくださるとのこと。会わぬわけにはいかぬお方で』。そう申し上げれば、無理に後宮へ戻る必要もなくなりましょう? もちろんそれは言い訳。気のおけぬ友人たちで、肩肘張らぬお見舞いに伺うのです」
んー? 理屈が通っているのかなー?
でもその話を聞かされる理由を考えると、少しずつ不安になるんですよねー。
「では、ご夫婦で伺われるのですか?」
ため息が返って来た。
問いが間抜けであるゆえか、真実を突いたがゆえか。
それは知る由も無いけれど。
「夫はアスラーン殿下の後見人ですし、何よりあの顔、あの体格。赤さんに何かするつもりではないかと、イオ様がご心痛を覚えましょう? 男の方は何かあるとすぐ敵対して顔も合わせなくなりますし、女子供にも容赦が無いのが困りどころ! だからこそ私たち奥向きでお付き合いを続けるのです」
なるほど、男の出番では無いと。
では私の出番もありませんね。これは朗報、いえ残念な……。
「ですからヒロさんに、ご同道をお願い致したくお呼びしたわけです」
私は男の数に入っていないのですね、分かります。
そりゃまあ、アラフォーの公爵夫人から見ればね?
20歳をようやく過ぎたばかりの近衛小隊長など……。
ロシウ・チェン先輩の言葉を思い出す。
同僚を、上長を引きずり回せ!……と、あらば。
「王都に上ってより日も浅い爵子アルノルト・ヴァルメル君には、王室の皆さまと顔を合わせる貴重な機会となりましょう。ここはお譲り申し上げ……」
「ええ、アルノルトさんもご一緒ならば心強いですね」
フィリアー!
横目で睨むも、こちらを見ない。
悠然とお茶を啜りつつ小さく上がった口角が告げていた。「逃がさん」と。
そう、フィリアも雅院から呼び戻されていた。
「アスラーン殿下からも、内々なるお祝いのお使者です」と。王室ご出身の母君と並んでのご挨拶ならば――むくつけき、もとい威厳あふれる軍部の雄・メル公爵を意識させることもなく――角が立たぬと言うわけで。
つまり俺が見落としていたのは、後宮(奥)とはまた別の女性政界。
社交界、またあるいは奥様ご令嬢のネットワーク。
お茶会に音楽会、家に帰ればお文のやり取りと。
精力的に連絡を取り合っては情報交換に励んでいる人々の存在であった。
「そう言えばヒロさん! 千早さんがご領地にお帰りだからと言って、後宮に入り浸りであるとか。ことに王妃殿下のもとに伺候されている女官の皆さまは、それは魅力的だと伺っておりますけれど……」
職務でありますから! 疚しいところはありませんから!
出入りしているお局をひとつひとつ指摘なさらずとも!
奥様がたのネットワークの恐ろしさは分かりましたから、どうかその辺で!
「諦めてください、ヒロさん。母を止められる人間などおりません」
そのアエミリア様に引きずられながらも、こちらを巻き込みにかかる。
かくてこそ上流貴族、いやフィリア……すら閉口せざるを得ない存在が、さらに活性化してゆく。
「あのご令嬢もお呼びしなくては。イオ様の従兄弟の姉君の嫁ぎ先でしたでしょう? そうそう、あちらの男爵夫人は……」
負けるものか。
上を目指すのであれば、他人に尻を持ち込むことを覚えねばならぬ!
それより何より、男ひとりふたりで令嬢令夫人のお相手は厳しすぎる!
「ご近所でもありますし、ナシメント様のエスコートにシメイ君もお呼びいたしましょう」
きっと喜んでくれるに違いあるまいて。
そして近くを通りかかったからには、伺候せねばならぬ存在がある。
「近年は賑わいがあって良い……が、少々威を張り過ぎじゃ。巻き込まれる側はどうなる!」
ハサン殿下、90と……何歳でいらしたか。構うまい、誤差の範囲だ。
老いてなお、ご近所が見せた「(語源通りの)縄張り拡大」に対抗意識を燃やすほどには意気盛んであった。
イオ様が典侍として入内されたことも忘れていらっしゃるようなので、さりげなく記憶を喚起しつつ新情報を付け加えれば。
「お子がお生まれとな? 栄えがあってよろしい! これはお祝いに伺わねば……」
この厄介な問題に対しては、わが忠良なる従僕・ピーターより想定問答集を授けられているのである。
「産後は安静が必要なところ。また風雅を知るハサン殿下が訪問されたと知れては、陛下のお心も安からぬものがありましょう」
殿下の体調が心配です……などと言おうものなら、無理にも伺おうとするから。
長生きする老人の根性とはそういうものと決まっている。
「む、ご寵愛深き典侍さまとあれば。これは軽率であった」
ハサン殿下、まだまだ男のつもりであった。
これはもうしばらく、お付き合いを期待できそうである。
(お迎えが来た後でも付き合えるでしょ、ヒロなら。あたしの顔見たら何て言うか楽しみね)
毎度笑えぬ幽霊ジョークはさておいて。
イサベル・ナシメント嬢のエスコートを務めている割に、シメイ・ド・オラニエ氏の顔は曇っていた。
「イオ様に含むところは無いさ。が、なんだあのお邸は。ご両親が健在だと言うのに、後見人だと? それも我が物顔に取り仕切って」
微妙に隔意ある対応をされたことにおかんむりのご様子。
俺と一緒に訪問したせいだと思うと、悪いことをした気にならなくもない。
「ヒロ君、君にも言いたいことはある! 敵地に乗り込むなら、日ごろ忌々しきその面の皮、より一層厚くして然るべきではないか」
正直は美徳である。
日ごろ君が、いや近衛府の連中が俺のことをどう思っているか伝えてくれたこと、感謝申し上げる。
……などとふざけたひと言を放り込める雰囲気ではなくなっていた。
「わが従姉妹、立花宗家の跡取りレイナを殺そうとした男だぞ!? 恋人だった君が、いや、父親のオサム伯父などなおひどい。どうしてワーリーさんと、そう良好な付き合いを続けているのかが分からない」
いろいろあるんだよ……と。
その苦き思いは、恋多き風流公子シメイ・ド・オラニエ氏においてよく知るところゆえ。
執拗なる追及を受けることはなかったけれど。
その気分は、フィリアも共有していた。
イオ様には含むところを持たぬし、ふたごが生まれたからと言って義兄アスラーン殿下の脅威になるとは思ってもいないけれど。
(大戦で一族郎党を仕切り回すわ、南嶺相手に騎兵を駆るわ……そんなタマなら、「確実で効率的な手段」に飛びつくほうが自然だぜ?)
乱暴者の騎兵であっても、トワ系から見たメル家令嬢とは鬼か悪魔の如きものらしい。
いや、実際ソフィア様ならあるいは……と思わなくもないが。
(ソフィア様そっくりのフィリアちゃんもやりかねないって言うの?)
いや、それは無い。
メル家は「アスラーン殿下がないがしろにされることだけは許さぬ」というスタンスだ。
王位継承レースに本気で肩入れする意思は持っていない。
それをやればキュビも力を入れざるを得なくなるのが勢いというもので、双方にとって無駄な消耗だからと。
(そうだったのか。だからヒロが代わりに頑張るんだな?)
ヴァガンのひと言は、時に朝倉の切っ先と変わらぬ冷えを帯びている。
けれども……この冷えばかりは覚悟の上。
ともかくフィリアも、イオ様母子には含むところが無い。
けれど、ワーリー・タヒール氏に対しては。
「レイナさんを殺そうとしたのですよ? 本人に悪意が無かったとしても、家中の統制を取れていなかったことは事実です」
つい最近統制ミスをやらかした俺も耳が痛いんだよな、それ。
「その脇の甘さが変わらぬのであれば、今度はイオ様を、幼子ふたりを巻き込みかねません……が」
言葉を切ったフィリア、表情を変えぬこちらに眉を動かして見せる。
相変わらずよくお分かりで。
「選択の幅を広げたければ、強くあれ。優しくありたければ、悪意に対して鋭敏であれ」
塚原先生から、ファンゾの大山一家を通じて学んだ教訓。
フィリアと千早から、レベッカ・アーグを通じて得た教訓。
「ワーリーさんはともかく。人形事件、当たりがついたような気がする」
かいつまんで説明する間、フィリアはじっと俯いていた。
大して難しい話でもないはず……と、あれば。
「なるほど。その解決をもう一歩進めましょう。考えてみれば、あちらの脇の甘さは、こちらにとっては幸いですもの」
ゼロからの開発は、あまり得意としていないフィリア。
そのゆえに「才が無い」などと謙遜もするけれど。
1を提示されれば、それを2どころか10にまで組み上げてしまう。
それも才……あるいは実力だと思うんですけどね、俺は。




