第三百三十一話 三角形
「典侍・イオ様だが、ふたご……男のお子と女のお子がお生まれでね。ご本人にも大事無いとのこと。いや、めでたい」
ロシウ・チェンと並んで奥に伺候しようかというところ。
蔵人所に引きずりこまれて聞かされた話は、実は既に知るところであった。
「秋に刑部卿宮さまから申し出があった、恩赦の件だがね? この慶事をもって施行される」
閣僚・立花伯爵閣下は昨秋時点でそこまで見通して、調整に入っていたらしい。
だがこの時気になっていたのは、情報の俺に対する伝わり方で。
慶事について最初に馬を走らせてきたのは、現在イオ様邸の警備隊長を務めているアベルであった。
次に蔵人頭のエルンスト・セシルからプライベートで耳打ちされ、続いて後宮大夫のロシウ・チェンから業務連絡があり。
最後に伝えてきたのが、目の前の立花伯爵。
なにやらいつもと違う。
情報と言えば上から降って来るものであったのだが。
目の前の立花伯爵がどうにも気まずげな顔をしていることから見るに。
前式部卿宮……臣籍降下していまやその姓をタヒールと名乗るワーリー氏から、俺には伝達せぬよう頼まれていたものかと思われる。
王室、立花、カレワラ。文雅を重視するという点では連帯感も強いけれど。
互いの関係がもたらす微妙なあれやこれやは、やはり存在していて。
「陛下は早くお顔を見たいと仰せで、迎えを遣わすべしとのことだが……」
どこまでも歯切れが悪い。こちらから視線を背けている。
そんなオサムさんとは対照的に、蔵人頭・エルンストの言葉は明瞭であった。
「時まさに、征南大将軍殿下も王都に還御されるところ。キュビ侯爵家のエドワードがお出迎えに当たっています」
エドワード不在の現状、するとイオ様をお迎えにあがるべきは残った権中将――対外的にはあくまで「先任小隊長」だが――俺かイーサンということになる。
そしてスジ論から言えば、王宮内外の往来を担当するのは「衛門」担当、すなわち俺だが。
なるほどね。
早く伝わってしまうと、カレワラめが立候補のうえ、近衛府内での調整に励む恐れがあると。
どうやらワーリー・タヒール氏はイーサン・デクスター氏のお出迎えを願っているものらしい。
だが面倒なのはその配下にあたるアベルが――真っ先に俺にご注進したことを見るに――カレワラ氏による出迎えを期待しているということ。
さっそく綱引きが始まったかと。
ため息のひとつもつこうとしたその間隙に。
きゅっ、と。
小さな衣擦れの音。
「産後の安静・休養。疎かにしてはなりません」
長い指。目を向けたときには、すでに開かれていたけれど。
二藍の直衣には皺が寄っていた。
「頼めるか、ロシウ君。きみから陛下に直接の言上を」
その言葉は、他の誰が口にするよりも重いから。
優しく悲しげな目を見せた立花伯爵に笑顔を返したロシウであったが。
一転こちらを見やる瞳の色は常と変わるところもない。鎮まれる深海のごとし。
どつきあいして俺を見極めて以来、「要求」が口にされることもなく日が過ぎていたが……どうやら、この件がひと段落した後でというつもりらしい。
時間稼ぎのアイディアですか?
はいはい、どうせ自分でも思いついてるくせに。
そもそも不要でしょ。あなたが陛下に言上すれば、即座に延期と決まるはず。
「もうひと月程度で良いのですよね? ならば後宮側の出迎え体制を理由にするのはいかがでしょう。『万全を期すべく、各お局に再点検をお願いする』という名目では?」
ロシウ、エルンスト、オサムさん。三人揃って笑顔を見せる。
蔵人頭のエルンストは後宮に直接タッチしていない。
オサムさんに実務をやらせて回るわけがない。
ロシウほどの大物が後宮大夫なる閑職に置かれている理由は、「休暇だと思いたまえ」という意味だ。
つまり働くのは俺なのである。
王后陛下の局には、毎度話を通しやすいこと。
そもそも本命なのだから、焦る必要など皆無。
政治的な「正解」を――王室の「栄え(子孫繁栄)」を笑顔で歓迎すべきことを――皆様わきまえてくださっているので、話が早い。
王妃殿下の局には、毎度必死の工作である。
「ここで攻撃的な態度を見せては、陛下のご機嫌を損ねること甚だしいものがあります。ぜひともご自重を」
その旨、窓口にあたるお色気過多の次席掌侍におかれては当然ご理解いただけているものの。
「それを王妃殿下に、また周囲にどうお伝えすれば良いか。……ちょうどご長男の征南大将軍殿下がご帰還とあって、お心強さを覚えておいでですから」
こちらに流し目を……そう、据えていた。
工作資金を提供されたし、ですか?
「困るのはそちらの皆様で、私では無いのですけれど?」
「心細き身の上……他におすがりできる人など、思いもよりませんの」
よう言うわと思ったけれど。
こちらも彼女以外に窓口が無いのだから仕方無い。
その点、尚侍・典侍相手なら。
後継者争いには無縁ゆえ、気楽なものだと。
思っていたのが甘かった。いえ、仕事は楽だったんですけどね?
唐突だが、「3」という数字にはなかなかの魅力を感じることがある。
「1」では独裁、独占、また孤独。
「2」では鋭い対立が生じてしまう。愛憎、そのいずれかに振れるほかない。
だが「3」からは、三つ巴、鼎立の持つバランスの良さが感じられてならない。
「奥」のあるじが王后で、対立軸が王妃ならば、三本目の軸は尚侍である。
またこの尚侍は、事務官として筆頭典侍クレシダ、末席典侍レイナと鼎立し。
陛下の愛人として次席典侍カリンサ、三席イオと三つ巴を織り成している。
その構造自体は間違っていない。
奥という変数を観測する際には、尚侍を定点に据えるのが安全確実なのである。
だがそれは、外から奥に関わる男の視点であって。
当事者にはまたそれぞれの立ち位置が、主観がある。
例えば「奥の母ちゃん」などと呼ばれる次席典侍カリンサ様。
ケンカ相手は陛下の寵愛を争う尚侍とイオ様であろうと。
単純にそう考えてしまうと、時に過ちの種となる。
カリンサ様もまた、非常に魅力的な女性であって。
タイプで言うなら、カレワラ家のヴェロニカに近いところがある。
ぶっちゃけよう。面倒見の良い、セクシーな……そう、「ヤンママ」だ。
いや、失礼ながらお年を考慮に入れて「元ヤンのマダム」としておこう。
だから例えば、侠気溢れる尚侍や、歯に衣着せぬレイナのことは嫌っていない。
「正直で良い」と、そう思っているようなところがある。
逆に彼女が深いところで嫌悪を抱いているのが筆頭典侍クレシダと三席イオ。
ひどく類型化してしまえば、イオは「あざといお嬢さま」であり、クレシダは「ガリ勉」だから。
「いま奥にある王子さま姫君さまがたの安全、また待遇と併せ論じられるべきお話ではありませんこと? 予算の用いられ方に一考の余地があると思いますの」
ご寵愛深きイオ様とそのお子が大切にされる、分かりますけれど?
事務方のクレシダ様に言って、予算を捻り出させてはもらえませんこと?
……正論である。
「筆頭のお局に持ち上げます。また雅院より、奥の栄えを寿ぎましてお祝いを……」
祝い金をメル家から出させますとも。公爵閣下の髯を毟ってでも。
引きずり回すってそういうこと。でしょう、ロシウパイセン?
そういうわけで、筆頭典侍・クレシダだが。
中高の細面、眼鏡の奥に潤むまなざし。彼女もまた例に漏れず美人である。
タイトなスーツの上に白衣など着せたらその、たぶんかなりヤバイ。
……ともかく。
後宮入りするにあたっては、一族みな「そちら」を期待していた。
陛下も「そういうお気持ち」になったことが無かったとは言えないらしい。
が、お局に足を踏み入れて目尻を下げられたのだとか。
「こちらが後宮入りしてくれたおかげで、奥の事務は遺漏無く回るようになりそうだね」と。
お優しきお声がかりにより、彼女の立場――「色ナシ事務官」の最高峰という地位――が確立された。
陛下が目にされたのは、見上げんばかりの書棚が並ぶお局の壁面であったと。
また補佐の女房たちが紙束を前にそろばんを弾いていたと噂されている。
そんなクレシダだが、彼女もまた典侍扱いで後宮入りしている。つまり血統にも申し分が無い。
その祖父母は……バルベルク家、クロイツ家、セシル家、そしてなんとデクスター家の出であった。
「いかが思われます?」
局の中年女性……もとは「乳母」ででもあったろうか、腹心の女官が笑顔を見せる。
家柄自慢など、もう何とも思わなくなった。そもそも他愛無きあるじ自慢が大好きな人々だもの。
したがってここは慎ましくお返事しておく。
「やんごとなき姫君でおわしたものかと」
いや待て、陛下のお手つきも無ければ、生まれてこの方恋人の噂も無いお方。
過去形にしてはいけなかったか?
受けて女官殿、含み笑い。始終目にする光景なのだろう。
困惑させまいとしてか、すぐに話を継いできた。
「顕官の家柄は他にもあります。王室ご出身の方もいらっしゃいますし」
言われて頭を絞りつつ選んだ言葉が、冴えぬもの。
「政務に明るい、王国が誇る実力派のお血筋かと」
王国女性に対する褒め言葉になっているものか、どうか。
だが女官どのの笑顔を見るに、どうやら正解には近づいたものらしい。
「4つのお家、その得意分野は宮殿建築、利水開墾、港湾建設、財務税務……と申し上げれば、あるじの趣味をご理解いただけましょうか」
「物理と数学……ですか」
そろばんを弾いていたのは、後宮の予算とかそちらの話ではなかった。
数学者クレシダの補助計算に回っていたもよう。
しかし文系学生であった身からすると、もうそれだけで……。
「殿方は皆さま、顔にそのお言葉を浮かべられます。『うへえ』」
それでもさすがはベテラン女官。
「うへえ」の意味にもいろいろあることをよくご存知で。
恐怖や嫌悪の感情がそこにないと見切るや即、腰を浮かせていた。
「この季節、我らが局では東の庭に植えた海棠が自慢なのです。茶菓を用意しましたので、ぜひ……」
その奥に局の主、筆頭典侍クレシダが座していると。
以前から顔は合わせていたけれど、これが正式のお招きというわけですか。
淡紅色の花を眺めつつ、口に広がる控え目な甘さを楽しむ。
お茶もやや薄味で、爽やかな風韻を残していくけれど。
「わが主には、長年取り組んでいる課題があるのです」
「課題」と来るあたりが、もうね?
ふつうの局とはだいぶ違うと思うのですよ。
ともかく。
クレシダ様、みょうちきりんな形をしたものの面積・体積を知りたいと。
「お祖父さまお祖母さまから話を聞くうちに、主の身の内には何か湧き上がるものがあったらしく。以来、小刀を持ち出してはお野菜をスライスし始めて」
……それ、積分ですよね。
好奇心の女神の眷属たる者、もういけない。
積分の仕組みが解明されつつあるリアルタイムに居合わせたとあっては。
滅多に無い体験に心は震え、しかし頭も脳震盪状態。
これより後、俺はちょいちょいクレシダの局に顔を出しては分かりもしない話を鸚鵡返しに鵜呑みしたあげく、三歩足を動かしては忘れる鶏の如き日々を過ごしたものであったが、その話は措くとして。
「『出会って』しまわれたのですね、筆頭典侍様は」
(でもどうなのよ、それ。クレシダは……悪く言えば奥に寄生してんじゃない。後宮入りと聞いて、これで嫁に出なくて良い、自由に金が使える、最高の研究環境を入手できると踏んだわけでしょ?)
業を背負わぬ者に学者など務まるわけがないのである。
いいじゃないの、数学は金のかからぬ学問の筆頭なんだし。
だいたい、クレシダが業務をサボっているというわけでもない。
むしろ余暇に全力を割くべく、局における業務は徹底的に効率化されていて。
事務を捌かせれば他のどこよりも速く正確、私心も無い。さすがは筆頭典侍と、誰からも一目置かれる存在なのであった。
また「風流」を一切意識する必要が無い彼女の局には、公達連中が気さくに立ち寄る。それゆえ情報収集能力や政治力も馬鹿にならない。
「技芸教養もまた、奥の『華』でありましょう」
それは半ばアリエルに対する反論のつもりであったが。
「『出会う』。そのお言葉の響き、おくゆかしく思われます」
御簾の向こうから聞こえて来た声は、その内容とは異なり高く忙しげであった。
事務のやり取りをしている時の、ゆったりと落ち着いた声色とは違っていて。
そう、どこか情熱的な。
この反応、覚えがあった。
あれは確か……友人の友人で、古代南インド哲学を専攻しているヤツに会った時。ウクライナ研究にはまり込んだヤツが抱えていた50もの弦を持つ楽器に目を向けてしまった時。
(一般社会の中に理解者を見つけた時の私達にありがちな反応だあ……なつかれたね、ヒロ君)
(無用心なヤツだ)
え、ちょっと。恋の予感ですか?
(お台所に余裕があって、つましい趣味なのよね? なら金を毟られはしないだろうけど)
(ぐいぐい踏み込んでくるよ? こっちの事情お構いなしに、めんどうな仕事を投げてくる)
……ともかく。
クレシダが取り組む数学だが。我々の生活とは切っても切れぬ関係にある。
とりわけ「3」という数字には意味がある。
対立の尖鋭化を妨げ、安定をもたらす。
そして数学、また理系人間という存在は、文系に生きる者に敬意とコンプレックスと……小さな反発を覚えさせずにはおかぬのである。
そう、立花伯爵家のレイナ嬢また然り。
「最近、クレシダ様のお局で点数稼いでるらしいじゃん。そういやヒロ、学園にいた頃から数学は得意だったよね。あたし相手じゃ面白い話にならないって?」
レイナはイオ様のことは嫌っていない。カリンサ様とも関係は悪くない。
だが権道を生きる尚侍様と数学に生きるクレシダ様を苦手としている。
ここにも三角形が発生していて。
ことさらに時間稼ぎなどする必要は無かった。
案件をひとつ上げれば、三角形が織り成す均衡と睨み合いが必然的に発生する。
奥も近衛府も蔵人所も……およそ人が集まるところ、そこに大差はないらしい。
王后:国王の第一夫人
王妃:同・第二夫人
尚侍:ないしのかみ。後宮、その「奥」の事務局長。国王の愛人でもある。
典侍:ないしのすけ。「奥」の最高幹部級事務官。現在、その定員は4人。次席のカリンサと三席のイオは国王の愛人でもある。筆頭のクレシダと末席のレイナは純然たる事務官。
掌侍:ないしのじょう。「奥」の高級女性官僚。現在の定員は8人。次席掌侍は王妃の懐刀。




