第三百二十三話 演者
どんよりと曇った空の下、雪が薄く積もった磐森は薄明の白に覆われていて。
掃き清められた街道の敷石、その濡れ濡れとした黒さだけが行先を示していた。
雪かきに携わった磐森の領民を左右に見下ろすようにして。
美々しき隊列を組んだカレワラ一党が北へと行進する。
日ごろ着馴れた飾り気ない詰襟には、過剰なまでの装飾が載せられていた。
いつもは側近くにあるユル・ライネンはこの日、なぜか遠くにあった。
いや、ランツがユルを引き剥がすようにして後列に下げていた。
馬の背に揺られることしばし。不意にその理由が降りてきた。
ユル・ライネン。カレワラの盾。
だがいまや磐森各村落の世話役を、また民兵の統括を任せている。
彼もまたその任に応えようと、領内を足繁く訪れていた。
領民が日ごろ見かける「磐森のお館」。その看板、いや顔はユルなのだ。
きらきらとつぶらな瞳の瞬きも、領民にすれば威光の輝きで。
そのユルはただでさえ雄偉な体格、体重を支えるため輓馬に跨れば、カレワラ一党の誰よりも高く大きく見えてしまう。
「お館様」以上に目立ってはいけない、不興と不和の種になる。
真っ先にその事実に気づいたランツは、さすがは元トワ系内政官。
それは良いとして。堂々と口にすれば良いものを、なぜこそこそと。
小さな疑念と不快は、すぐに晴れた。
消えていた姿が、再び視界……その下方を遮ったから。
ユル・ライネン、馬を捨て徒歩で付いてきた。
理解できても、理解したくないらしい。
重職を任されていようが、自分はあくまでも俺の「盾」だと。
馬を下りさえすれば格の違いを明らかにできるから良いだろうと。
所在の無さに馬の轡を取ろうとして、小柄な我が従僕に睨まれていた。
ピーターにはピーターの主張がある。
その後ユルはじっと背を丸め、顔を上げようとしなかった。足を引きずるようにして歩んでいた。
言い含められたものであろうか。
不快を覚えた己の心、その不愉快さを飲み下すべく、改めて前を向けば。
視線の置き所も無い、一面の薄明。
馬の歩みに意識を預ければ、再び想念が降りてくる。
政治の本質とは、演劇に類するものかもしれない。
眺めることで――いや、おそらく古代では全員が参加することで――氏族や共同体の記録を、美化された記憶を共有し、互いの絆を確かめあう。
社会が大きくなり、統治者と被治者が分離しても。
参加者は、みなそれぞれ役割を演ずることが求められる。
現代でもそれは変わらない。
「劇場型政治」などと揶揄されるが、それこそがおそらく政治の本質で。
問題は、誰が演出するか……では、なかろうか。
劇場型政治なる言葉、それは政治家に演出を主導されてしまうことの危険を高らかに知らしめる木鐸の響きか。あるいは情報媒体を名乗り国民の扇動者いや先導者たることを自任する者の負け惜しみか。
いま、俺もまた演じている。
行き先の見定めもつかぬ薄明にあって先頭を切り、背筋を伸ばし前を見据えるリーダーを。
若くとも(王国では、その言葉は未熟以外の意味を持たない)厳正格励なる有能な軍人貴族を。
民衆に見せるべきはその姿だと。
指導したのは、仮面の男ヴェネットであった。
ファシル州。メル家の圧力を受ける小豪族たちがしのぎを削った土地。
政治の風には鋭敏にならざるを得なかった彼らが実権を手放した後、生活を託したのは仮面劇であった。
そしてランツ。貴族達の……舞台上の演出を知る男。
演出家。俳優に先生と呼ばれ、上位にある存在。
だが俺は彼らにその称号を許して良い立場では無い。
自己演出の手綱を取り続けなければ、家臣たちの傀儡に堕する。
……いちど、釘を刺しておく必要があるか。
(黙って担がれてくれるボスのほうが、俺ら中流貴族としてはラクなんだがな)
(アスラーン殿下はどうなのかしらね)
(ヒロ君が演出家? プロット読むとか、山場を彩るとか、できるわけ?)
……ああ、そうか。その文脈で理解すれば良いのか。
オサムさんに、閣僚連中に咎められていたのは、政治なる舞台上の……言ってみれば、演出の拙さだったのだ。
誰が演出するか、それと同じく。いかに演出するかが問われるのも当然で。
昨春、バヤジットを担いで兵部卿宮を牽制した……ことは、気づかれなかった。
いや、「若手」閣僚のキュビ侯爵が気づいたのだ。看破した高官も多かったはず。演者に選んだイーサンとアルバートには、デクスター家とセシル家にはそもそも筒抜けでもあったのだから。
だがあれは、脚本から主演俳優まで務めた兵部卿宮の演出がヘボだった。キュビ侯爵含め、閣僚たちには負い目もあった。
何より、バヤジットとアスラーン殿下が主演の器だった。
難しい問題があっても、そこはご兄弟であると。
俺の演出は、だからこそ。みなに笑顔をもたらすことができた。
昨秋、按察使閣下を担いだ俺のやり口は、しかし。
兵部卿宮と変わらぬド三流であると。
ひねりも無ければ華も無い。演じたのは軍人貴族の若者たちで、つまり政治の「芸」も無い。
ただただ軍人の主張を押し立てる、泥臭いばかりの威迫行為。
関係各所から俳優を広く集め、花を持たせなければいけなかったのに。
「私に任せてくれれば」と、そのオサムさんの言葉。
後宮司での勤めは、芸の幅を磨く……とか、そちらの文脈を意識すべきところかもしれない。
先達ロシウ・チェンの後ろにつき、頭を垂れて。
だが今日のところは、領民相手の演劇だ。
俺は看板俳優、二枚目役者なのだから。
演技は過剰に、ダイコンぐらいでちょうど良い。
ロレーヌ十字に似る磐森街道、北の交差点を左折すれば。
ここから先の俺は……半ば詐欺師だ。
台本は完成させてある。
目的地は聖神教磐森聖堂。
昨年完成した小会堂、「コンスタンティア会堂」の落成式……については、特段述べるべきこともない。ごく少数の人々と、慎ましく、ひそやかに。
終えて後、附属病院への見舞いに立った。
郎党衆の中でも、容姿優れたる者を中心に引き連れて。
案の定、とは言わないけれど。
結果から眺めれば、「そういうことにもなるか」と。
説法師の娘に恵まれたため陰陽寮とトラブルになった母親。
その入院は、前もって知らされていた。
「育児ノイローゼ」と称してしまえば良いのだろうか。
誰も彼もが娘を狙っている、自分から引き離そうとしていると。
その思いに囚われて、周囲に怪我をさせた。
娘と引き離された今もなお――頭では、自分にも非があると理解できてはいるものの、心情では納得しきれずにいて――不意に娘のことを思い出しては、取り乱すのだと。そう聞かされていた。
心地良き低音を発する郎党、見た目温厚なる家臣たちが語りかける。
「我が主君・男爵閣下におかれては、そなたら母子を憐れみ、ここ磐森郷に匿うとおおせである」
「以前の裁判、陰陽寮との和解は我が主君の口添えによるもの」
「ご息女は類希なる才に恵まれた。その行く末を思うのであれば、教育には慎重を期すべきでありましょう? 親の偏愛はかえって子を損なうものであること、古き家の生まれなら家伝に聞かされておいでのはず」
そして盛装した男爵閣下が、微笑を浮かべる。
なぜ詐欺師が整った身なりで笑顔を浮かべるのか、その理由を痛感しつつ。
「よせ。母の愛とは尊いものだ。……領内に匿い、確かなところに養育を任せる。成人の後は再びふたりで暮らせるよう、取り計らう旨約束する。信用ならぬか? こちらにはいま、枢機卿猊下がおいでだ。立会いの元、ここに誓約する」
羊皮紙に、最高級のペンでサインして、印鑑を捺して。
母親に預ければ。
幼き女説法師の雇い入れ、いや囲い込みの完了である。
「ヒロさん」
終えて後、ピウツスキ枢機卿猊下がこちらに向き直った。
たびたび経験した、力強き「なにものか」の放射。
恥じることなく受けることができる。
子供を無碍に扱うつもりはない。母親にも自分を取り戻してもらいたい。
思ってもみなかった事態に突然襲われた、そのことに罪があってたまるものか。
ひとつ頷いた枢機卿猊下、しかしなお。ひと言を付け加える。
付け加えなくてはいけないのが、彼の役割。
「早くから大人になることを求められた方は、顔の使い分けを覚えることに困難を感じません。しかしその場その場で必死に相応しき姿を演ずるうちに、己を見失いがちになるもの。やがて大きな悲劇を迎えることも多いのです。迷った時に帰る足場を、自らが拠って立つべき定見をお持ちになること、強くお勧めいたします」
早くに両親を亡くした「ことになっている」俺。
その実は、社会に馴染むべく立ち回る転生者。
振舞いには似たところがあるらしい。
ピウツスキ枢機卿は、若き日に大変な苦労をされたとか。
だが家の再興への思いと、それ以上に。信仰によって自らの針路を保ち続けた。
一方で、付き添いに立つカルヴィン・ディートリヒ。
子供のように……とは言わないが、純粋な男。
「上」を目指すには顔の使い分けを覚える必要がある、けれど……。
「ヒロ君の周りには幽霊が纏わり付いておりますゆえ、の。自らを見失う前に助言が得られる。何体も、何種も憑いておることこそが救いかと存じますがのー」
定見に頼る生き方は、堅いが脆い……か。
この後は天真会を訪問する予定であった。
平等に扱う姿を見せる。お約束でも、その演出は欠かせない。21世紀に至っても、席次だの「不快の表情」だのが要求されるぐらいだもの。
だから落成式にお招きした李老師。
彼にも演ずべき役割があって、そして。ピウツスキ枢機卿と睨み合い。
「こうして磐森にお二人をお招きできること、幸いに存じます」
ご領主も、あるべき姿を演じるのだ。




