第三百十六話 月の光 その2
タキシードに仮面の男が、月の光に導……もとい、照らされて。
ミカエル・シャガールの扮装たるや、お仕置きものいや伝説級のバカであった。
いちおう、理由は分からぬでもない。
ひとしきり哄笑を飛ばしたオサムさんも理解していた。
真正面から月の光を受け、包むことなく我らに向いたその目。笑っていなかった。
「取り調べなら、初めからそう言いたまえよ」
そう。仮面で目を隠す理由は、心を読まれぬため。
王国では主に黒眼鏡が用いられるところだ。裁判官によって。
例の判決文偽造事件。
ミカエルはふざけた推論を導き出していた。
この前日。
境界紛争を片付け蔵人所にて報告を終えた初秋の昼下がりのことであった。
後宮の南門を出て近衛府へ向かおうとしたところに、柱の影から鬢の白い男がすいと立ち現れたのは。
「『文体・字体から、私ミカエル・シャガールではありえない』と伺いましたもので。まずはそれを手がかりに調べてみれば……どなたかに似ているとは思いませんか?」
改めて眺めるも、分からない。
宮中でよく見かける文体のようにしか思われず、首をかしげれば。
「およそ難題に取り組むならば、先入観は仇となるばかり。平らかな目で、とらわれぬ発想を……雑務に追われることのない公達の皆さまが得意とされていることでは?」
絡んでいる。言外に。
日々雑務に追われる我ら中流貴族とは違って、皆さんはお暇でしょう?と。
即座に言い返したのは、このテの文官ノリに付き合う趣味を持たぬ男。
「良いから言えよミカエル。そういうところがお前はうるさいんだって」
無作法にも笏で赤毛を……後れ毛を掻き上げながら催促する。
「では申し上げます。簡潔にして直截な論理立て。必要以上に難解な語彙を用いず、さりとて平易を衒うものでもない。……そう申し上げればお分かりいただけるかと」
邪慳に突き放すエドワードの言葉など、どこ吹く風の婉曲表現。
だがまあ、確かに。言われてみれば。
「立花伯爵閣下だと?」
「さすがはカレワラ閣下。まさに『文の立花』、文章にこだわりのある方なればこそ。他人任せにせず自ら筆を執り、完成した書類の混入だけを蔵人に任せた……ありえないとは言えますまい?」
しばし、言葉を失う。
間を探るために歩を進めるも……日が傾く気配とて無く、強い照り返しにうんざりさせられるばかり。
考えを纏めるに適した状況とは言い難いが、口を開かざるを得なかった。
いくら何でも、そこまでお粗末な推理には乗れないから。
「OK、予断排除は捜査の大原則だ。仮説は常に疑ってかかる必要がある」
でも正直めんどくさいので。
どこがどうお粗末なのかは……王国を代表する頭脳に説明させるべく、隣に顔をふり向ける。
「だね、ヒロ君。一発で覆る推論だ。……立花家当主の文体、字体。一世の文人がみな仰ぐところだろう? 争ってその揮毫を、詩歌散文を求め、そして子弟に真似させる」
おかげで当のご本人は、書付けを酒代がわりに飲み歩き。
意識高き左利き文官貴族がその後を慕う。
「あちらの酒舗には立花閣下の色紙が掲げてある。ぜひ学び取りに行かねば」と。
勉強の結果、口が滑らかになって高歌放吟。次世代に伝うるべき文雅の花が開くのである。
……ともかく。
「いまの20代・30代の文官で気の利いた者ならば、誰であれ。立花閣下の字体・文体の模写ぐらいしてのけるさ」
イーサンの言うとおり。分かったかミカエル。
(ヒロ君、あのさあ)
(蔵人所に顔出す頃になると覚えるのよ。面倒を他人に投げることをね?)
(俺が会った時にはすでに横着者だった。王都に来る前は可愛げがあったのか?)
「これは、私としたことが……しかしその反論、立花伯爵閣下を容疑者から外す帰結をもたらすものではありません」
なるほど確かに。
「誰もが怪しい」という、結論にもならぬ結論が生まれるだけのこと。
いや、ベテラン勢、閣僚・次官級・局長級が「直接犯」である可能性はぐっと小さくなった。
彼らが若い頃に真似たのは先代・先々代の立花伯爵であろうから。
そもそも閣僚級の家ならば、「立花を真似るようでどうする。真似られるような詩文を、文字を書け」という教育を受けていたことであろう。
ならば、やはり。
直接の犯人も蔵人と思われるが……それでも三十人以上いるんだよなあ。
「おいミカエル、何考えてる? そのしゃあしゃあとしたツラ見れば俺でも分かるぜ。お前、最初っからオサムさんを疑ってなかっただろ。なら何だって……」
教えてやるさ、エドワード。
このクソ暑い中、分かってて面倒な手間かけさせるようなヤツの思惑に乗ってたまるかよ。
「おお、何と大胆なー! 蔵人頭どのどころか、閣僚・立花閣下まで貶めようとはー。逆鱗に触れては皆が迷惑します、このこと我らで内密にー」
「宮仕えのつらさは我らもよく存じておりますー。さすが職務のためなら上長をも遠慮なく批判するミカエル君、これは我らが守らねばー。伯爵閣下には告げずにおいて差し上げましょうー」
「カレワラ閣下! デクスター閣下まで……殺生な!」
鼻で笑ったエドワード、すぐと顔を改める。
これは悪かったと言わんばかりに、眉根を寄せた思案顔。
「ミカエルお前、立花閣下のコネが欲しいのか」
「つっかけることで売り込む」、その気持ち自体は理解できるのだ。
軍人もよくやることだから。鍛錬場において。
そしてミカエルも共感に紳士的な微笑を返す……ような男では無いのであって。
「コネなどと。先日の昇進でもお世話になりましたし、いちどお会いして是非にもお礼を申し上げねばと」
そこからこじ開けるんですね分かります。
「ともかくですね、容疑が皆無でない以上はお話を伺いに参らねばなりますまい? 皆さまにはぜひ、紹介の労を取っていただけぬものかと」
そして立花邸に現れたのが、月光に輝く仮面の男であった。
白々しくもミカエル・シャガール、なお疑う「体」を装っていたのである。
非礼は百も承知の上で、なお悪名は無名に勝る、印象を植え付けた者勝ちであると。
オサムさんが怒り出したら、紹介した俺やイーサンがフォローに回らざるを得ないと知っていて。
「諸君も私を疑っているのかな?」
そもそもおバカな振舞いを見れば、怒るよりも遊びたくなるのだ。
立花伯爵閣下、オサムさんという方は。
「カレワラ閣下は、『絶対にありえぬ』と……先ほど、典侍さまのお局にて」
夜に立花邸を訪れる前、勤務時間中のこと。
文書のやり取りのため、レイナの局を訪問していたのだが。
「似ておりますわね。しかしありえません。判決とは、法律に詳しくなくてはものせぬところ。我ら立花、細かなところを知る由もありませぬゆえ」
(ウチの仕事は概略の判断! こまごました知識なんてものはあんたたち下僚の職務!)
ご父君を疑われたレイナ嬢、よそ行きの口調で猛毒を吹き付けてくるものだから。
いたたまれなくなって口添えする。
「だから言っただろ、ミカエル。判決なんて色気の無いもの、書き終える前に飽きるのが立花閣下だ。……翻るにこの判決、最後まで手抜きの跡が見えない」
「まあ! さすがはカレワラ学士殿、大胆にして率直な弁護、心に響きました」
(良い度胸ねヒロ? すこしは立花の体裁を飾ったらどうなのよ!)
「息ピッタリですね。私の文にお返事が無いのもむべなるかな」
だからお前はどうしていつもそう絡むんだよ、ミカエル!
「何のお話か、私には分かりませんけれど……」
レイナもレイナで白々しいこと。
まあねえ、女官の駆け引き、恋の駆け引きとはそういうものだけれど。
「わざわざお越しいただきましたからには、お話など」
あれ? ミカエルは「ない」ってこの間……。
「おお! お声をかける機会をお許しいただくとは! このミカエル・シャガール、いまは軽輩といえど、十年二十年の後には必ず出世し、典侍さまに相応しき地位に……」
「まあ。これは頼もしい。いずれの尚書を目指していらっしゃるのですか?」
……そういうことか、レイナ。
「いずれの省にてもあれ、尚書、いえ閣僚を。典侍さまに恥ずかしからぬ地位を……はい?……蔵人所より、帰るよう命が下った模様。名残惜しくはありますが……ぜひこのミカエル・シャガールを御心にとどめていただけますよう」
「さすがは覚え目出度き新進の蔵人どの。存分にお仕事にお励みくださいませ」
あくまでもさらりと、キレイに、つれない素振りで。
男をあしらう模範解答を提示して見せたレイナ。
ミカエル・シャガールが去るや一転、地声でつぶやいていた。
「やっぱりダメねアイツ」
出世を目標としているようではダメだ、何かを見失う。そして足を掬われる。
それがレイナの……あるいは立花家の見解で。
「でもヒロはミカエルを買っているんでしょう? 聖上も……親父も。男と女って、やっぱり見るところが違うのかな」
「能吏であることは間違いないんだ。堅牢な政策立案、法の整合性を保ちながらの通達作成、省庁間の利害調整、落としどころを探り取るセンス。雅文も瞬く間に組み上げる。秘書集団である蔵人所には欠かせぬ人材だと思う」
「……さっきの話。仮にイーサンだったら、何て言ったと思う?」
「聞くまでも無いことを。『閣僚になった暁には、財政健全化を目指します』だろ? もしその目標が就任前に果たされていたならば……どうだろう。『税の効率的な運用』とか、そういうことを言いそうだね」
無言。言葉を継ごうとしない。
聞くまでも無いはずだが。聞きたいのか、レイナ?
「俺なら……遠い先のことは分からないけど。当座は『王位継承問題で悲劇――いや、悲劇はどうしても起こるよな、それは覚悟している――惨劇、それだけは見たくない』。それが目標だよ。これから10年、あるいは5年無いかもしれないけど。そのために必要な地位には上がらなくちゃいけないと思ってる」
「そういうところよ。力を求める男は魅力的だけど。権力そのものを目的にしてる男の言葉は、立花には……いえ、あたしには響かない」
「胸に秘める者も多い。あえて道化を装う者も。大業を成す男ほどそういうものだとも言わないか?」
「アレがそういうヤツに見えるの? 聖上陛下が、親父……立花伯爵が。ミカエルをそれほどの男と見ていると言うの?」
そのように思えなくもない、けれど。
俺の目は力を失っているのだろうか。
ミカエルの輝かしき吏才、その眩しさに。
「でもレイナ。ミカエルを評価しない理由も分からない。立花は……いや、オサムさんは。そしてレイナ、君もだけど。身分や地位で人格を否定することはないだろう?」
「そうね。……まだまだ『第一印象』か。上っ面しか知らないんだものね」
「いや、俺の理解も浅いものさ。『暑苦しくてうるさくてあざとい男だが、職務には熱心』。それだけのことしか見えていない」
そんなミカエル・シャガールを、オサムさん……立花伯爵閣下は、上機嫌で迎えていた。
酒が入っているにも関わらず崩れが見えぬのは、やはり初対面とて節度を守っているゆえか。
青白い月の光に照らされたその横顔、さすが王国貴族筆頭と称されるだけのことはあった。
均整の取れた細面。彫りの深さがもたらす鋭角の陰翳に覆われていて。
その暗さの中にあって、知性を映す瞳だけが怜悧な輝きを放っていた。




