第三百十六話 月の光 その1
「穏やかに収まってくれるなら、それが一番だよ。……誰かひとりを泣き寝入りさせるので無い限り」
政治とはつまるところ利害調整、あるいは利益の再分配だと思う。
誰かから財(効用)を奪い、別の誰かに配る作用だ。
どれほど穏やかに見えても、そこには必ず損をする者が出る。
しかし立花は一方的な収奪を、切り捨てを許そうとはしない。
「双方とも余裕があり、苦境に立つことはありません。互いに一歩引いての和解、筋も通っています」
それが経済官僚・デクスター家の理屈であるが。
オサムさんには苦笑を向けられてしまう。
「君達はいつもそれだ。答えになっていないんだよなあ。それでいて私に仕事をさせぬ」
腕の良いトワ系は、みなそうだ。
利害調整においては、言わば「最大多数の最大幸福」……非効率を排する。
法制論では筋を通す。
感情論には触れようとしない。
触れぬまま、しかしオサムさんを激怒させるような無配慮ということも無い。
納得がゆく範囲に収めるなり、小さなフォローを入れるなり。
発言を強いようものならば偽悪を口にする。
「感情的な反発が強ければ潤滑に回らない。非効率だろう?」と。
だが俺は、なぜかもう一歩だけ踏み込んでしまいたくなる。
好奇心の女神の影響によるものか、それがカレワラの流儀なのか。
(あたしの薫陶か……いえ、それがヒロの性格なのかもしれないわね)
「立花伯爵閣下には、仕事をしていただきたく」
高級ではあるが、色気の無い……公文書に使われる紙でできた短冊を手渡せば。
「そのお歌を陛下に? ああ、承った」
笑顔を見せるオサムさん。
酔眼が心地良げにほどけていて。
「おかしなものだねえ。尚侍側の立会人がヒロ君で、陛下側の立会人がイーサン君だったのだろう?」
交渉の時間は短かったけれど、なぜか。いや、立場からすれば当然か。
「国家」のうち「国」を重んずるトワ系同士と、「家」に忠誠を誓う家同士と。
交渉後の人間関係は錯綜していて。
解任された、陛下御料地・桂園の管理人。
うず高く積まれた引継ぎの書類には、粉飾も申告漏れも無くて。
後任には懇切丁寧な状況説明を施していた。
全てを終えて肩の荷が下りたか、ほっと笑顔を見せて。
しかし自分は能力不足で解任されたのであったと、恐縮の顔色を作り直して。
その様子を見ると、ひと声かけずにはいられなくなった。
「陛下に何かお言伝は?」
驚いて目を丸くした男。
頭を抱えて唸り出した。「やりとり」、あまり得意ではないらしい。
それでも、上長に……公達に手間を取らせてはいけないと思ったか。
ひさかたの 月の桂も 秋はなほ もみぢすればや 照りまさるらむ
月にあるとされる桂の樹、それも秋になると紅葉するものでしょうか。おかげで(地上から眺めていても)月光がひときわ明るく輝いているように思われます。
不調法な自分が詠むよりは、有名な歌人の一首をそのまま用いるほうが良いと思ったものであろうか。
角張った手蹟には、小さな震えも見受けられて。
勢力の小さな親王であった陛下――いや、当時は親王皆さま勢力が小さかったと言うべきか。いずれにせよ――そのスタッフは質・量ともに乏しくて。
太子宣下を受けて間もなく先帝が亡くなられたため、人員を増やす暇もなく。
気の利く男ふたりを伴って王宮入り。
バカ真面目だけが取り柄と言われた男が、ひとり残された。
商人や貴族たちに控え目にでも口利きすれば良いものを、それができぬ男。
ならば私有地の管理人……事実上の領主を任せても不正はせぬ男だ、余禄も得られようと。その思し召しから御料地に派遣されたものが。
温厚で堅物。陛下の民を愛惜するがゆえに、その放縦を押さえることができず。
はるか地上から、月の都を眺め。
別れた時に比べ、ずっと力強さを増したご威光を寿いで。
二日後のこと。
立花伯爵に呼ばれ、陛下の前に参上すれば。
「あれに歌を詠ませるとは、な。大儀であった。これを……」
陛下のお歌を載せるにしては、質素な短冊。
肩肘を張る必要の無い相手であると。その間柄が窺えるようで。
ひさかたの なかにおひたる さとなれば もみぢのひかり こひしかるらむ
(お前が今あるところこそ)月の中にあるとされる、桂の里ではないか。桂樹の紅葉が輝くさまは、さぞ慕わしいものだろうね。
陛下からは「堅物ゆえ」のひと言と、小さな笑顔。
「意味を間違わぬよう、きっちり伝達してくるように」とのご内意であった。
――桂園にある桂の紅葉を手に、「王宮に参上しなさい」――
改めて、男は滝口衛士に採用された。
いわゆるお庭番。陛下のボディーガードにして、また諜報要員でもあるけれど。
その男に限っては、語義通り。庭師として勤めることとなった。
吏才は不要、まめまめしく陛下のお側に立ち回る仕事。
……と、それは後日の話であって。
境界紛争を終え、立花邸にお邪魔したその夜は。
「おかしなことは続くものだ。我が家には、滅多にない客人が詰め掛けている」
オサムさんは上機嫌であった。
珍客を紹介した俺とイーサンと、胸を撫で下ろす。
「遠慮なくいただいております、伯爵閣下」
月明かりに赤毛を浮かび上がらせつつ、エドワードが目を細めた。
シメイに付き合うことはあってもオサムさんの客になることは珍しいのだが。
ま、こいつは良いのだ。
陽気な酒。どこの客になっても不愉快は感じさせない。
そして本命へと目を転ずるオサムさん。
「お二方は初めてであったね?」
伯爵閣下の前とて、端正な佇まいを見せているユースフ・ヘクマチアル。
この男は本当に読めない。いきなり飛躍するような危なっかしさがあるけれど。
この晩は礼儀正しく下座に着いていた。
立花伯爵との間に、俺とエドワードを挟むべく。
「万一があっても、これなら安心だろう?」と言わんばかり。
そうした弁え、あるいは計算を立てられるのがこの男。
「お招きに預かり光栄に存じます、立花伯爵閣下」
どこまでも折り目正しき、中流貴族の最高格。
(黙ってりゃヒロ君なんかよりずっと高貴なのに、もったいない)
(確かにヒロはカッコ悪いな。だから俺はヒロと組む気になったのか)
ピンクもネヴィルも自分をユースフと比べる気はないらしい。
それはさておいて。
「そう構えることはないよ、ユースフ君。街では世話をかけた、違うかね? 正直に言いたまえよ」
オサムさん、右京でも遠慮なく飲み歩いていたらしい。
「正直申し上げれば迷惑でした。閣下の御身に間違いがあっては大変ですから」
その身辺に危険が無いよう配慮していたと。
立花だけは敵に回してはならぬ、対処法の分からぬソフトパワーの持ち主ほど厄介なものは無い。
それを理解しているヘクマチアル党は、やはり間違いなく貴族社会の一員で。
「その優しさを他の連中にも多少は向けてやれぬものかね?」
無言。
月の光を浴びて蒼白に輝く相貌は、どこまでも冷たくて。
そのままユースフは固い微笑を見せ、一礼を立花伯爵に返していた。
そしてもうひとり、こちらも厄介な男。
相対するに苦笑いを浮かべるほか、どうせよと言うのか。
国王の私有地「桂園」は、太秦、嵐山、桂のあたりをモデルとしております。




