第三百十話 誤用
後日、立花伯爵がつぶやいていた言葉。
「言葉は移ろいゆくものだからねえ」
そのとおりだとは思う。
「確信犯」とか「敷居が高い」とか、どちらもありだと。
だがそれは、後日だから思えることであって。
紗幕の向こうから投げられた言葉を聞いた時には。
「空白の一瞬」・「エアポケット」って、本当にあるんだなと。
「蔵人頭殿の発言は国益を損なうもの、その罪は万死に値します」
何を言っているのか、理解できなかった。
俺だけではなく、おそらくその場にいた全員が。
流れる沈黙、横たわる虚ろな間隙。
切り裂くかのごとく、ミカエル・シャガールが言葉を連ねてゆく。
「昨秋より、二度の戦役。いずれも勝利を収めております。よろしくさらに勢威を示すべし……」
一部の蔵人達がようやく動き始め……いや、動揺し始めた。
応じて近衛小隊長が、エドワードとヴァスコが、心持ち重心を沈める。
その気配のおかげで、ようやく俺も重心が据わる。
情け無いようにも思われるが、それが軍人と文官との違いだ。
意識の向けどころは自ずから異なってくる。
ともかくミカエルの論旨は……そこは特に新奇でもないな。
強硬策を採用すべきだと。近衛府の主張よりも兵部省の主張のほうが正しいと。
論旨は分かる。分かるけれど。
なぜ冒頭、そこから入る?
「罪、万死に値する」という語。
「値」の代わりに「抵」や「当」を使うこともあるが、それはともかく。
ごくごく限られた意味合いしか持たない。
①上奏の場面で、②自分(「我が罪」)について使う、③謙譲語である。
その意味は、2つのうちどちらか。
「陛下のお考えに反対意見を述べることをお許しください」
「重責を任されているのに果たせぬことをお詫びします(が、ひと言)」
……ではあるものの、本当のところは。
「発言を求める私の罪は万死に値しますが(値するとは言ってない)」である。
様式美、あるいは上長に心の準備をさせる言葉なのだ。
感覚的には「つまらないものですが」なる言葉と非常によく似ている。
「ごく限られた(贈物をするという)場面以外では使わない」というあたりが。
そして「自分について使う言葉で」、意味は謙遜というところが。
しかし、困った。
これが全く違う場面で使われたならばまだ良いのだ。
しばしば見かける「殺意を抱くだけでも貴様の(あいつの)罪は万死に値する!」等の用法……「貴様(あいつ)は許せん!」の意味合いであれば。
「本来の意味じゃないけど、直訳的に使ってるのね?」
「言葉は移ろいゆくものだし」
そういうことで、受け容れる気持ちになれぬこともない。
しかし今回のケース、何が厄介と言って。
「上奏の場面」という条件ばかりを、中途半端に満たしている。
そして発言者がミカエル・シャガールであるがゆえに――その家格としては異例の若さで文章博士に、そして六位蔵人に就任している男であるがゆえに――本来の用法を「知らないはずが無い」という事情がある。
つまりミカエルのこの発言、単純な誤用ではない。
意図的に誤用したものか……それならある意味まだマシだ。
あるいは誤用ではなく、「王国1000年の歴史において、ミカエルの発言と同様の用い方をした先例がある」かも知れない。それが分からない。
蔵人たちの視線が、俺の隣に集中した。
文章博士、その首座たる老碩学に。
こういう時のために在席を許されている、文字通りの「生き字引き」。
他の誰が逃げようとも、彼だけは「答えられぬことがあってはならない」。
王国1000年の公文書、歴史書、思想書、文学書。
必死に記憶を反芻する老人。眼球が細かく動いている。顔色が青褪めてゆく。
結論など出るわけが無い。
全てを浚うなど人間業ではないが――いや、この世界には人間離れしたヤツがそこかしこにいるけれど――全ての語句を脳内でチェックし、そうした先例が無いと確信できたとしても。
それは「では、『あえての誤用』にどう対処すべきか」の答えにはならない。
答えが出せなければ、これはひとり老碩学ではなく翰林学士の連帯責任である。
紗幕の向こうがざわつき始め、人の気配がふたつみっつ、じりじりと遠ざかる。
書庫へと、調べ物に向かったのであろう。
やがて視線がこちらへ……若き翰林学士へと流れてきた。
公達は浅学でも良い。だが管理職を、取り纏めを果たせぬようでは失格である。
ミカエルめ!
そういうことなら、こちらとて。
「書庫に紙筆を置き忘れておりました。……先生、お願いできますか?」
まずは老碩学に席を外させ、余裕を取り戻してもらうとして。
調べ物や検討の時間を稼いでと。
あらためて蔵人たちを眺め回せば、みな固まっているか落着きを失っているか。
これはどうやら、「先例があったとしても僻典」に違いない。
ならば「あえての誤用」と判断してしまうに限る。
誤用ならば、あえて認めなくても良いんだよなあ?
「幕を通しての言葉ゆえ、聞き逃しがあったようです。……謙遜めさるるな、六位蔵人殿。六位蔵人はなるほど重責ではあろうが、あなたならでは勤まらぬ」
(「任用に、重責に堪えぬ『我が罪』は万死に値しますが、発言いたします」を言い間違えた、そういうことにさせてもらうぞミカエル。それと面倒かけてくれた礼に、ひと言アピールしといてやる。「お前には六位がお似合いだ!」)
表情の変化に乏しいぼんやり顔とて、付き合いが長ければ見慣れるもの。
何か思いついたらしいと気づいた若者、俺が発言する前から口を歪めていた。
「さすが専門家たる文章博士、明快な解釈ですね。我ら蔵人も職責を果たしましょう。シャガール君の発言について、改めて近衛府からの反論を申し上げます」
(うまく取り繕ったものだが、「細部に、言葉尻にこだわるのは公達のありようではない」。そうだろう、ヒロ君? 近衛府を代表して総意を発表する役目、僕に任せてくれたまえ)
イーサン、この……!
ああでも、この短時間で反論をきっちりまとめあげて。
近衛府の小隊長としては正直助かるのがこれ、痛し痒し。
こちとら「罪万死に値する」の解釈にかかりきりだったからなあ。
それが職責だからだけど。今の職責だからだけど。
「では、あらためて。頭殿はいかが思われますか?」
(忘れてはいないか? 「貴様の罪は万死に値する」などと、前代未聞の雑言によって横から指弾されたエルンスト・セシルの立場を。お前たちはまだ「上に立つ取り纏め役」ではないようだな?)
ロシウ……!
うっわ、なんだその良い笑顔!
「蔵人頭を離れ、ロシウ君も華やぎを取り戻したようだね。これまで君に重責を担わせすぎていたのは我らの落ち度だ。『下』にも仕事を投げて、少しゆっくりしたまえ。君の訪れを待つ花も多いのだから」
御簾のうちから出てきた立花伯爵、別当殿に耳打ちする。
掠れた声に艶が戻っていた。楽しそうで何よりです。
そして受けた蔵人別当閣下、陛下のお言葉を重々しく代弁した。
「発言の明快なる論旨、また上長に逆らうことを恐れず直言するその忠信、共に見るべきものあり。従来の功績も併せ鑑み、ミカエル・シャガールを従五位下に任じ、蔵人に列する」
臨時昇任……と言っても、聖上陛下じきじきのお声がかりとあれば。
これは末代まで語れる名誉だ。
狙っていたな、ミカエル。
定期人事異動後初の業務日、聖上陛下のお成りを予測して。
蔵人頭が「弱っている」ところを狙って叩き、自己アピールするつもりで……。
だがそれは、セシル家にとっては不名誉にあたるわけで。
恐れ気も無く、よくも敵を作るものだ。
ミカエルがお礼を言上するはず。
さて何を言い出すことやらと、蔵人所が奇妙な緊張感に包まれる中。
紗幕を潜るようにして突如現れたのは……ショッキングピンクのイカモノ官僚。
聖上陛下、思わず噴き出していた。
毒気を抜かれるわな。
そこまで全て計算づくかよ。
中央研究院のデータベースで、史書をざっと当たった限りですが。
「罪、万死(に値する)」という言葉が「自分の罪」以外で使われているのは1例のみでした。
上奏の場面以外で使われているのも1例であると思われます。
精査には至っておりませんので、漏れがあるとは思いますけれど。
残りはみな、本文に挙げた用例であるように思われます。
「発言をお許しください」か「任に堪えぬ私の罪は万死にあたります」でした。
これが日本に受容されて後、いつ頃から「私の罪(をお許しください)」ではなく「貴様(あいつ)の罪は許せん!」の意味になったのか(そもそも、本文に書いたことが私の勘違いだったら恥ずかしいですけれど)、気になっています。
現代中国語ではどうであるのかも。
なお。
「罪、万死に当たる」以外の「万死」の使われ方は3つあるようです。
ひとつは単純に、「一万の死」。つまり「数が多い」の意味合いです。
かなり用例が少ないです。
ふたつめは「万死(の状況)にあろうとも」といった用例です。
「絶対に信用を裏切りません」といったニュアンスかと。
もうひとつは「万死の計」・「万死を出づ」等のかたちで現れていました。
「絶体絶命のピンチ」的な意味で、「それをどう打開するか」という文脈で現れるようです。「九死に一生を得る」の「九死」と似た意味合いかと。
この用例が最も多いように感じました。「罪、万死に当たる」よりは多いです。
(2018年4月20日付)




