第三百四話 十二の試練 その1(R15)
その年の夏、俺は南嶺にあった。
理由は追々述べるとして。
(エルキュールはこの先に向かったよ)
目の前をふわふわと浮かびながら、可能性の神が話しかけてくる。
(あれから後のことだけどね……)
巻狩りに参加し、名馬を献上したエルキュール・ソシュール。
王国からは罪を許された。
だが鶺鴒湖でディアネラが俺を狙い、結果メル家のフィリアに矢を当てたのはまずかった。
都ではメル家の「草」たちが遠巻きに尾行していたのだという。
襲い掛かりはしなかったけれど。
「私の指示です。郎党を無駄に死なせるわけにはいきません」
フィリアが敷いたその警戒網は東へ、メル家に近づくほど強くなる。
(エルキュールは、渟垂河の水運も使えなかった)
王国と南嶺の間で、戦争が起きたから。
渟垂河は兵站輸送の大動脈ゆえ、身許調べが厳重となった。
そこでエルキュールはいったん西に、クロム州に入った。
(そのクロム盆地で、南嶺の男が接触してきたんだ)
その言葉に眉をひそめる。
王国の防諜はどうなっているのかと。
まるで気に留める様子もなく、可能性の神がひとり芝居を始める。
セリフごとに男とエルキュールとに姿を変えつつ。
「河州も警戒は厳しい。サンバラへ渡ってはもらえませんか?」
「理由は?」
「それを聞かぬ、知らぬからエルキュールさんに、武芸者に頼むのです。サンバラへ渡る手筈と、島から出るための船の用意はしておきますので」
「こちらはニンジャ・草といった連中に追われている。隙を見せれば噛み付いてくる送り狼。撒くのに難儀しているのだが……」
(どうしたと思う?)などと、いつもの姿に……どこかで見たような、どこにでもいるような男の姿を取って、可能性の神がこちらに問う。
無視したい気持ちもあるが、興味もある。
言葉の穂を継がずにはいられない。
「仕掛けてくれればエルキュールには好都合だろうけど、フィリアは止めていたんだろう?」
いくらエルキュールでも遠巻きに……間合いの外で散開されては、手の下しようがない。
フィリアも千早も首を傾げていた。
「いえ、そもそもメル家の郎党ではないはずです。王都から西、キュビ家諜報網の縄張りに踏み込む許可は出していません」
「ならば聖神教の追っ手にござるか?……いや、あちらの手の者であれば……見境なく襲いかかるはず」
(聖神教の人間を、僕がいじったんだけどね)
さらりと口にされる、悪魔の所業。
(操れない、操られることのない人間だっているんだよ?)
カルヴィンの偉さを思いつつ、犠牲者を思う。
哀れな人々だ。最凶の教敵とされる悪魔に操られ……自殺ものだろうに。
(聖神教は自殺しちゃいけないんだろう? ま、エルキュールに挑んで果てたんだから、最後は教えを守ったって言えるんじゃないかな)
エルキュールが追っ手を倒した、その手口が気になって仕方無い。
この場は負けを認めるほかなさそうだ。
「遠巻きに、間合いを詰めてこない敵を倒す? どうやって?」
ややあって、フィリアが顔を上げた。
「クロムの洪水は彼が引き起こしたと?」
クロム州南東の盆地には、西川へと注ぐ湖がある。
戦争の起きた2月。渇水期でありながら、なぜかその湖が決壊した。
なるほど、敵をうまく誘き寄せておいて、湖を決壊させれば。
堤防だろうと岩だろうと、エルキュールが槍を一振りすれば。
「しかし、どうやって誘き寄せたのです?」
(南嶺からの使者を、湖の北側、西川への出口に待機させたんだ。船の支度もしてね?)
いかにもひそかに準備しているように見せかけたのだという。
隠れてやっていますよ、山に向かうのはフェイントですよ、湖に出て船に乗り込むのですよ……と、見せかけておいて。
エルキュールとディアネラは南の山に向かい、途中で湖を決壊させた。
湖畔の一本道にたむろしていた追っ手はみな水に呑まれた。
(あそこまでの怪力とは思わなかったよ。少しずつ知恵もついてきたみたいだね。うん、期待通り)
ひとごとのように笑っているが。
この悪魔が行くところ、必ず犠牲者が出るのはやりきれない。
「限界に挑む人間が大好きだってことは知っているさ。だが何だってエルキュールを試すようなまねをする? 必要ないことぐらい、いい加減分かっただろう?」
(彼が挑む相手はそれ以上だからさ。エルキュールは強すぎたんだ。知恵を回す、工夫するってことを知らなかった。だから試練を与えている)
片手剣や槍を通さぬ固い皮膚を持つ男。
ひとりひとりは弱いけれど、9人同時に倒さねばならぬヒドラのような湖賊。
女に情をかけるか知りたかったから、千早とフィリア率いる武装侍女軍団とかちあうように仕向けた。
粗暴で強欲なくせに弱みを人質に取る悪辣さも持つ男、ケンタウロスのごとき男の罠をどう回避するか。
牛のように動じぬ男……死を恐れず任務を果たす男を相手にした時は、「勝負に勝って試合に負けた」。エルキュールは南へ渡れなかった。
官営牧場の馬、巻狩りの鹿。人を、社会を利用する知恵を試した。
9人組の謎はスヌツグ・ハニガンが解決したものゆえ、エルキュール自身の知恵を測る必要があった。もういちど、今度は遠巻きにしてみたら……洪水で一気に流すという解決策を練った。
(恐ろしい勢いで知恵をつけているよ? つい調子に乗って、もうひとつ試練を課してみたんだ)
兵部津。
兵部省管轄下の軍港にして、その周辺の居住区や商業地区をも併せて指す言葉。
サンバラへの船もそこから出ている。
(カテドラルあるでしょ?)
「大鐘楼で有名なカテドラルですね? 天気との兼ね合いでは、河州港まで鐘の音が聞こえてくるとか」
(うん。あそこの枢機卿を、銅人に変えた。刃物も通らない、締め技も効かない。そしたら重くなりすぎたから、翼もつけてね? 銅のガーゴイルって言えばいいのかな?)
「貴様!」
(何度でも言う。僕は誘うだけだ。乗らない人間に対しては無力だよ)
言葉も出ない。
言うとおりなのだ。可能性の神・希望の悪魔は、人を誘うだけなのだ。
そして誘い文句通りの能力を与えてやる。
その力を生かすも殺すも、試練を踏み越えて目標を果たすも中道に斃れるも、それは全て人間の選択と努力の結果。
(どうしたと思う? エルキュール、笑ってたよ。「ヒロのおかげかもしれぬな。知恵を回すことを覚えたのは」なんて言って。お師匠様なんだから、ほら! 答えてみてよ)
「倒す必要はないんだろう? 縛りつけるなり、瓦礫の下に閉じ込めるなりすれば良いんじゃないか?」
(正解!)
可能性の神は笑顔を見せた。
だが俺は、やはり己の本質は武人ではないと、そのこと思い知らされるばかり。
「倒す必要など無いではないか、目的は南嶺への到達だろう?」
……大目標、戦略目標を果たせば良い。局地的な敗北があろうとも。
それは軍人の発想だ。
あくまでも、目の前の敵との勝負にこだわる。
打ち倒すことに全力を注ぐ。
それが武人の発想だ。
エルキュールは、翼を生やした銅人を斃した。
模範解答を告げる可能性の神、その笑顔に俺は心底からの恐怖を覚えた。
大鐘楼に縛り付けたのさ。
定時の鐘が鳴ったら、どうなると思う?
何百km先にまで音を響かせると言われる鐘楼だ。
音波だよ。
その衝撃は身の内まで響く。
枢機卿、銅の体液を体中から流して死んだよ。
渟垂河:淀川
クロム州:丹波(黒豆より命名)
クロム盆地:亀山市
河州:大阪市
サンバラ州:淡路島
クロム州南東の湖:古代、亀山市に存在したとされる湖
西川:桂川
兵部津:神戸港
が、それぞれモデルとなっております。
「鐘楼に縛り付ける」は、『The Nine Tailors』(Dorothy L. Sayers)の創元推理文庫版『ナイン・テイラーズ』(浅羽莢子訳)を参照しました。




