第三百一話 連れ立って その1
「あまり痛くはないと思うよ。ロシウさんも再来年あたり、外へ出向する頃合だろう? そろそろ準備もしたいだろうし。だいたい頭(次官)こそ退任したけれど、蔵人であることには変わりない」
ロシウ・チェンの進退について、それがイーサン・デクスター氏の見解だった。
「後任の蔵人頭は……エルンスト・セシルさんか。新都から帰って来たアルバートの兄君だな」
「それが普通なんだよ。『中隊長、もしくは小隊長』から『蔵人、そして少弁』へ。そこでいったん外へ出て、蔵人頭や中弁になるのは帰って来た後」
決して「普通」ではない。
文官貴族としては陽の当たる表街道である。
「それは暗にご自慢かな、イーサン。ご父君、デクスター伯爵閣下も頭弁(蔵人頭・中弁兼任)を経験して後の極東出向だった」
頭弁任官後の出向。
それはエリートコースの中の、さらにウルトラエリートコースであると。
「あまり僻事を言うものでは無いよ、コンラート卿」
畳んだ扇を伸ばしたシメイ、コンラート・クロイツのケツアゴをこちょこちょ。
「周り全てに噛み付きたくなる失恋直後のその気持ち、分からなくも無いが」
日焼けしたコンラートの顔が真っ赤になる。
どこで仕入れたかその道でのシメイの失策を投げ返せば、これが案外辛辣で。
ぎゃあぎゃあと言い合いを始めるあたり近衛府は平和である……けれど。
こうして集まったが良い機会、近衛中隊長の件を話し合うかと周囲を窺えば。
ひとり、不安げな顔でもじついているヤツがいたから。
「イセン、例の件を話し合う前にさ……連れション付き合えよ」
松葉杖の男に「時間がかかるから少し待ってくれ」と言わせぬために先を打つ。
それが紳士の気遣い()である。
こつんこつんと、ゆったり廊下を歩いて、さて辿り着くかといったところで。
後ろから騒々しい駆け足が響いてきたかと思いきや、追い越された。
「おらっ! 出て来いウン○マン!」
小学生かよアルバート、そんなんで出て行くヤツが……いたのである。
大慌てで衣冠を整え飛び出したのは浅葱の袍(六位、中流貴族)。
公達の暴虐、ここに極まれり。
「これで心置きなく連れションできるってわけさ」
連れションと書いて密談と読む、それは間違いないところだが。
それにしても最低の人払いである。
「我がセシル家は尚書(次官級)の家系だ。兄貴の出来が飛び抜けてればその上まで行けるが……」
蔵人頭に任ぜられるのだから、かなり有望な部類だが。
先に出た話に見えるように、それでもデクスター伯爵やロシウ・チェンほどではない。
「つまり俺は兄貴に付いて行ったんじゃあ、卿(局長級)が望みうる最高ってことになる」
だからイーサンに付いて行く。
彼は間違いなく閣僚級、その懐刀となれば兄と並んで尚書級も望めるから。
「チェン家の次男坊であるイセン卿、そちらはどういうつもりなんだい?」
アルバートが右隣へと声をかける。
妙なキャリアコースを選択したご同輩の心が気になっていたのだろう。
チェン家は閣僚級、兄は頭に超がつくほどの逸材で。イセン自身も相当のタマ。
素直につき従って行けば、それだけでかなりの地位は間違いないのに。
「政治とは、そうしたものではないだろう?……そう、仮の話だが。イーサン君に、あるいは兄君に、何かあったなら……重い物を背負うのはアルバート君、きみ自身だよ?」
俺の左耳に、ごとりと重い音が響く。
松葉杖を地面に突き立てていた。
それは少しばかり不親切ではなかろうか。
アルバートは遊びもするが仕事にはソツが無い。
兄やイーサンがいなくとも、かなりやれる……いやむしろ、「あいつがいなければ」と思ったこともあったはずで。
その思いを共有できるだろうと、だから声をかけたのだろうに。
「まともに都から出たことも無いヤツが、えっらそうに」
鼻白んだアルバート、イセンの背中を打とうとして手を伸ばしたけれど。
怪我人である事を思い出し、その肩を揺するに留めていた。
しずくが付いたらどうすんだよ。やめてやれって。
「ま、怪我に免じて許してやるさ。……そういうことなんだろ、ヒロ? 俺たちもこういう目に遭いかねない、だから近衛府は今のままじゃいけないって」
コンラートではないけれど。イセンも現在のところ、少し心に余裕が無い。
官途では足踏みを余儀なくされ、日常生活ではその足踏みもままならぬ。
早急だったと気づいたアルバート、用を足しつつ背を反らす。
イセンの肩越しにこちらの顔を覗き込み、苦笑を見せていた。
「何考えてんだ? ヒロ、お前はトワと違って精鋭の兵を飼ってる。絶対に逃げない、裏切らないそいつらを盾にして逃げれば死ぬこたないってご身分だ。むしろ俺達が死んだり怪我したりするたびに評価は上がるしライバルは減る、違うか?」
あまりにも率直。
そういう考え方はどうしてもなかなか受け容れ難いのだが。
これだからアルバートを嫌いになれない。
「公達がひとり死んでも、上下に同じようなタマがひしめいてる。間引きしたところでこっちの出世が早まることは無い、違うかアルバート?」
人死にを繊細に捉えすぎると、線が細い軟弱者と見られかねない。
だから不謹慎には不謹慎……ではないけれど、応じた言葉を返したつもりが。
アルバートのふてぶてしさは想定以上で。
「なら尚更だろ? 守ってやる必要あんのか? って、ああ、秋の戦で命拾いしたヤツはお前に借りができたんだな。相手が卿(局長級)の家柄……俺らから見りゃ零細でも寒門でも、とにかく顔を売る必要があるのかヒロは。祖父さまの不徳が身に祟るってのは厳しいよなあ」
後ろからアルバートの腰を掴んで揺すり、しぶきを衣にくっつけてやろうと試みる半裸の幽霊。
その腰つきを、態勢を、食い入るように眺める少女の幽霊。
半裸の男を必死になって止める、見た目の割に紳士な幽霊。
しぶきがくっつくことを気にしないから何やってんだか理解できない野生児の幽霊と犬の幽霊。
……視界の片隅にそんなものを見てしまえば。
そうだな、これは連れションの会話に過ぎぬと。そう思い直すこともできて。
「無様な戦はゴメンだって、それだけだよ。そうだな……セシル家だって、せっかく作った港が思ったほど栄えなかったら、腹立つだろ?」
「ああ、仕事か。利便性や航路との兼ね合い、利用者の予測。外すとなあ……。なるほどメル家や大戦見ちまうと、近衛府のバラバラぶりは目に付くよな。しかもカレワラは軍人貴族、そりゃ腹立つわ」
分かってもらえたようなので、こちらも背を反らすのをやめる。
しっかりと上下に振るうべく……いやむしろ、視界の内にイセンを収めることを避けるべく。
「で、うまく変えることができれば……アルバート、お前も骨折のリスクが減るってわけさ」
「うまく乗せられてる気もするが、そうだな。俺らトワ系は、そういうところでキズを負いたくはないな。体にも、経歴にも」
左右から言われたい放題のイセン・チェン。
手足が自由ならばこっちの肩なりを揺さぶることもできるのであろうけれど。
まあね? そこはまず、健康を取り戻すことさ。




