第二百九十話 初雪 その3
朝方から、うめき声が聞こえていた。
どすり、どさりと響き渡る重たい音と共に。
何事ぞと赴けば、客人の姿。
「お疲れ、イセン」
左腕を包帯で吊り、右脚をぐるぐるに固められた青年。
脂汗をかきながら歩行訓練に挑んでいた。
あいさつもそこそこに、すっかり細くなってしまった左脚を上げては下ろし、歩み行く。
「無理にでも鍛えなくては、本当に歩けなくなってしまいますから」
言いながら右脚を持ち上げてやり、そっと下ろしてやる女性。
少しばかり意外であった。
彼女は元々、いわゆる「活動家」・「闘士」であって。
そういう仕事はあまりやりたがらないんじゃないかと。
「寝たきりの年寄り扱いしないでくれ……と言い返したいところだが、実際愕然としたよ。初めは歩くどころか立ち上がれなくて」
「とてもお見せできないような情けない顔でしたけれど、直後にご実家からの手紙が来て。読んだと思ったら、急に元気を取り戻されたんですよ?」
侍女……恋人の遠慮ない言葉に、イセンが見せたのは渋い顔。
「兄からでね。先の戦役で見せた醜態を厳しくとがめられた。来秋までは外朝への出仕を控えよと言い渡されてしまってね?」
トワ系官僚にとって、外朝仕事は生き甲斐ゆえに。
「一年休み」はかなり厳しい罰ではある、けれど。
「内朝仕事には、来春から携わって良いと言ってきたわけか」
だからリハビリ生活に張りが出てきたと。
一月の定期人事異動にはさすがに間に合うまいが、それでも。
「遅れを取り戻す手段もいくつかあるが、今の僕にできることと言えば、まずは政策論文の提出だろう。だが座って書き物をするにも体力が要るからね」
さすが8つ年長の兄は、弟の扱い方を心得ていた。
厳しく押さえつけることで、反発心を誘う。
あとは「外朝には出仕させぬ」と、逃げ道を封じてしまえば……。
能吏イセンがどこに向かうかは明白で。
「聞いているよ、ヒロ君。ジョンさんの提言だろう? 直観的には正しいと思ったが、何せ僕は軍事に疎いから遠慮していた。キュビ家の提案に先頭切って与してしまうのも、いろいろと面倒だ。だがこんなことになってしまっては、ね?」
「ああ、近衛府の体制には軋みが出ている。乗ってくれるかイセン?」
「勘違いしないでくれたまえ。僕が練った案に君が乗るのさ」
退屈から解放された青年。その目には力が籠もっていた。
「分かっているとも。煽って競わせようというのが兄ロシウの魂胆。乗った上で、鼻を明かしてやろう。……君のことだ、イーサン君への根回しも始めているんだろう? 彼も案を持ってくるだろうが、僕も譲る気は無いね」
若手を競わせたいだけではない。
弟イセンの復帰も、近衛府の改革も……一石で二鳥も三鳥も狙おうとは、ロシウも欲張りなことで。
オラース復帰まで目論んでいる俺のことをとやかく言えた義理かよ。
と、俄然湧き出してきた闘争心だが。
思わぬ反論にしぼみかけた。
金も力も持たず、弁論だけで人を動かしてきた少女の舌鋒に。
「近衛府の改革、ですか。戦で犠牲になった人々の救済よりも大事なのですか?」
背筋に雪の塊を突っ込んでくるかのような、冷えた声。
「前哨戦で焼かれた右京はどうなるのです? 屋根の無い者も多い中、この積雪。為政者が動かすべきは近衛府よりも、そちらではないのですか?」
イセンが見せていたのは、苦い顔。俺も同じ表情を見せていることだろう。
これは一本取られたけれど、さすがに少々……。
「ヒロ君……カレワラ男爵閣下は式部少輔だ。その担当は貴族の人事。言い募る相手が違いはしないか?」
侍女をたしなめたイセン・チェンも、治部少輔(今は任を解かれているが)。
その担当は外交で、民生には直接タッチしていない。
……と、そんな言い訳で誤魔化されるはずもなくて。
「『貴族は専門家であってはならない。総合的な視野を求められる』ものなのでしょう? 内政担当のご友人に働きかけることだってできるはず。そちらに財を、人手を時間を……リソースを割いてはいただけないんですね」
民生と言えば民部省、デクスター家。セシル家やバルベルグ家も縁が深い。
閣僚に孫から働きかけること、できなくもないけれど。
返って来る言葉が、見えなくも無い。
「右京に投資して、国に益するところがあるのかい?」
「衣食住を提供したとて、連中が担税力を有するようになるのか?」
「ただでさえ人口過密地域、不法居住者が多いのでしょう?」
――ならば、むしろ――
……その言葉に再反論を組み立てきれるか、どうか。
ケヴィンでは無いけれど。
「がんばる」ことを「できる」ようになるためには、そのための下地が必要で。
それはやりがいのある仕事、だとは思う。
成功すれば、国家に益するところ大でもあろう。
だが今の俺にとってやりたいこととは、やるべきこととは、できることとは。
長年携わってきた軍官僚としての仕事なのだ。
「結局、貴族は庶民から絞るばかりなんですね。……気晴らしにと、時折磐森を連れ歩いてくださったことには感謝しますけれど……お百姓衆の痩せ具合を見て何も思わないんですか? この雪に遭って、対策に焦りを感じないんですか?」
右京のことはともかく、磐森のことは言われたくない。
ここは俺の縄張り、「俺のもの」。他人に手出し口出しをさせるつもりは無い。
俺の領地が、その民が、やせ細っているだと?
俺のものをみすぼらしいと言うのか?
止めようとしないイセンに怒気をぶつけようとして。
今のイセンには止めようがないということに思い当たる。
我慢したいところだが、部下の手前……。
「いい加減にしろよ。あんた、ほんとに家名無しか?」
助かるよ、マグナム。
俺の代わりに……と思ったのだけれど。
マグナムの言葉は、少しばかり趣を異にするもので。
「ついこないだも、ヒロや俺と一緒に歩いたことあったよな。百姓屋の壁を見てなかったのかよ?」
――年の瀬に残った薪の量で、俺たちは隣近所の景気を知るんじゃないか――
「税や借金が払えなかった家は、財布が厳しい家は、自分ちの山で取った薪を、入会地の割り当てから持ってきた枝を、街場に売りに行く。封建領地で移動が不自由なら、旅の商人に売る。そうだろ?」
薪がたくさん残ってる家は、近所の嫉妬をかわすのに苦労する。
壁がきれいに見えてる家は、餓えと寒さに震えなきゃいけない。
村人互いに壁を見て、融通の相談をするんじゃないか。陰に回ってため息ついて。
「あんたほんとに見てたのか、磐森の集落を。どの家も壁の一面に、女の頭の高さまで薪が積んであっただろうが。それを見て頷いたら、年寄りが笑ってた。今年は初雪が早くて寒くなりそうなのに、不安を感じていなかった。みんなほどほどに薪を残せたからだ。飢えも寒さも……いさかいもせずに済むからだよ」
前日マグナムに向けられていた笑顔。
家名無し、農民にしか分からぬ事情。
「宮中に役所、戦争にまで駆り出されて。忙しい中、ヒロは良くやってるよ。ユルと……ランツか? あいつらも頑張ってる。磐森の百姓衆は幸せなほうさ! だいたい、この程度の雪が麦に影響するもんか。百姓仕事を知らない貴族ならともかく、家名無しのあんたがそんなとぼけたことを口にするか? 分かっててやってんなら、悪質な言いがかりだぜ!」
マグナムが怒るなど、めったにないことで。
大の男でも縮み上がってしまうものなのだが。
少女は屈しなかった。徒手空拳、大人を、権力を相手に戦い続けてきた少女は。
「薪の流通なんて、知るわけ無いじゃない! そんな高級品のこと! 麦を育てる経験すら、私たちには与えられていなかった!」
敬語も作法もかなぐりすてた鬼の形相は見苦しくて。
それでいて美しかった。
「中途半端な成り上がりが! その知識で、ノウハウで私たち貧乏人を貶め、苦しめるんだ! 『俺たち』だなんて、どの口が言うの!? 一緒にするな!」
イセン、お前いい趣味してるよ。
生まれながらの公達が、よくぞこれだけのタマを見つけたもんだ。
いや、よくぞまあ……入れ込んだもんだ。
その剣幕に免じて(?)許してやろうかと思ったのだけれど。
ついに許せなくなった者が出た。
「最下層にあって、組織運営の知識も持たずにボスを張っていたサル山の大将が、いまや栄えあるチェン家の侍女。あなたも成り上がりでしょうに。身奇麗になったならば、せめて過去の泥など忘れてしまえば良いものを、わざわざ口にして皆さまのお耳を汚し心に重荷を負わせるとは……お里が知れるとはこのことです。ああいえ、ご寵愛深き方に身奇麗と申しては嫌味になってしまいますね? しかしそれならなおのこと、主人のお心に逆らうべきではありますまい?」
ピーター……ずいぶんとまた辛辣な。
そこまでの話、従僕の姿をかなぐり捨てるような話か?
「あなたはもう右京には戻れないのです。私たちが為すべきは各々のマスターを支えることで、駄々をこねて足を引っ張ることではない。……あなたが身につけた民生の知識は、いつか必ずチェン家の、ご主人のお役に立つのですから」
お前も、泥を……いや、産土を……忘れられぬ、捨てられぬものを?
極東の商家に残して?
いや、その程度ならば……自分のことならば。ピーターは、男は、我慢できる。
男が怒るのは、守りたいものを傷つけようとする者が出た時だ。
俺?
彼女の言葉は、俺の心を抉りにくるものだと?
俺にも捨てきれていないものがあると?
それは援護射撃にして、諫言。
応えぬことは許されぬから。
心に鎧を着る。
顔に仮面を貼り付ける。
そして改めて思えば、ピーターの言葉は明らかに行き過ぎだが。
ある意味、逆にやりやすくなった部分もある。
「カレワラ家従僕ピーターよ、チェン家に対する言葉が過ぎては、ヒロ君の足を引っ張るぞ? この場は、我が侍女への忠言と差し引きさせてもらうが」
「ええ。チェン家侍女の過ぎたる言葉、ピーターの暴言と差し引きさせてもらいましょう」
そしてふたりに退室を命じれば、とりあえず空気を繕うことはできるけれど……。
なあイセン、俺たち間違ってたか?
ついさっきまでは、「近衛府を改革する」、「ロシウの鼻を明かしてやる」って。
男らしく、貴族らしく、官僚にふさわしく。
そういう話をしてたはずだよな?
それって間違ってるのか?
何の国益も生まぬ制度いじり、金持ちのあほぼんの道楽、地に足着けぬ空騒ぎなのか?
言いたい事は数あれど、口にする気にはなれなくて。
思いばかりを目顔で交わしているところに。
「ヒロ、それにイセンさん。気にすることはありませんよ。あなたたちはそれで良いんだ。……急に成り上がった家名無しは、一度はああいう思いをするんです。捨てたものに対して、捨てたことに対して、後ろめたいような気持ちになって。それで何かに噛み付きたくなる」
重い声。
だが俺たちの目が向かった時には、すでに軽やかなものに変わっていて。
見せてくれたのは、例の如き健全な笑顔。
「そういうことで、納得してもらえないかな?」




