第二百八十五話 桂花の候に その4
男が見せていたのは、浮かぬ顔。
慣れぬ高級料理店に戸惑っているのか、「えらいさん」を前に緊張したものか。
俺もつい最近までそうだったよなあ……などと思いつつ。
「私は軍人貴族。マナーなど気にしないさ。食える時に食う、それが正義だよ」
などと、いなかの祖父母にでもなったかのようにずいずいと勧めたのだけれど。
男の顔からはなお屈託が晴れない。
酒に弱い性質でもなさそうだし……と思っていたら、ついには震え出した。
懐に手を入れている。
「つまらないものですが、いえ、閣下には喜んでいただけるかと思いまして……」
取り出だしたる礼物、その長およそ30cm。
アウト。
アカイウスやユルどころか、ピーターまでが気づく。
「諦めろ。そのまま下に置いてくれ」
鞘を払うや後ろに飛び退った男の喉元には、自ら擬した白刃のきらめき。
「申し訳のしようもございません。責はこの一身に留めていただきたく」
言葉の分だけ、遅れを取った。
すでに立ち上がっていたアリエルが男の肘を捻じ上げる。
転がり落ちた短刀が、いかにも贈答向けの逸品らしい冴えた光を放っていた。
「この一身に留めていただきたく」……ね。
「アカイウス。ヴェネットを連れて、こちらの母君の保護を頼む。あくまでも保護だぞ」
アカイウスは剣把に手をかけていた。
当然の行動、気持ちも分かる。
が、俺としては男に手を下すつもりはない。
その対応をアカイウスが不満に思うことも間違いないけれど。
下手に出てなだめようものならば、怒りの炎に油を注ぐことになる。
だから。仕事を背負わせた。
「ヒュームはこの料理屋周辺を」
「2人にござった、見張っていたのは。確保の後、アカイウス殿に合流いたす」
頼みます、ヒューム君。
アカイウスがぶち切れないように。
……さて。
「気楽になっただろうし、とにかく食え。……ピーターとユルも。ふたり退席したぶん、分け前が増えたんだから」
やはり激怒しているふたりに、手ずから杯を勧める。
ここは抑えてくれ、なっ?
「全く、誰だ? こんな杜撰な計画立てたヤツ」
……と、笑いがてらに吐き捨てて。
どなたであるか分かってしまうのがまた腹立たしい。
杜撰と言えば貴人と決まっているのである。
大雑把なうえ、本来的には悪意に慣れていない。
そのゆえに、およそ陰謀には向かぬ人々。
「ご本人から命じられたのか?」
尋ねながら無理やり杯を取らせれば。
観念したか、ようやくぐいっと飲み干した。
「前……いえその、ご本人からは何も。私の合格を喜んでくださいました」
すると……またか。
また部下が、「ご内意」を勝手に推し量ったか。
ウチも気をつけなくちゃいかんなあ。
何せ軍人貴族、主から郎党の末端に至るまで、あちらに比べて気が荒い。
「そこまで恨まれる覚えはないつもりだがなあ」
小さくなる男。
見ていられなくて、また杯を勧める。
「君にしても。仮に成功したとて、生きて帰れるわけがないだろう。母君はどうなる?」
すぐと表の見張りの知るところとなる。
連中が彼の実家を襲撃して、そのまま一家皆殺しだろうに。
「とてもやりおおせるとは思っていませんでした。弟を出世させるからと言われまして」
高等文官試験に受かった直後で、自己犠牲に走る気持ちになれるはずもない。
間違いない、脅されたのだ。あちらさんに気遣って、口にしないけれど。
約束が守られるなどとは、思ってもいないはず。
普通にしていれば、それぐらいの気は回る男なのだ。
倍率10倍をゆうに超える高等文官試験に合格するぐらいには切れ者なのだし、役所の属僚として実務……つまりは社会経験も豊富なのだから。
だが脅しに屈せざるを得ないほどに、家の力に差があって。
カレワラにも義理立てして、あるいはその勢力に怯えて。
どうしたら良いかを思いつかぬまま、ここまで見張られ連れて来られたと。
ま、とにかく。
「呑め。寸前で取りやめてくれた、その心に乾杯だ。……ピーターとユルも、そこは了見してくれ。いや、了見するように。これは命令だぞ?……戦でさんざん冷えた軍メシを食い、式部省でのカンヅメも終わって。やっとありついた料理も、楽しく食わせてもらえないのか?」
ありとあらゆる角度からさんざんに説得を重ねる。
ついには「食わないなら減給だ」「お前んちに火をつけるぞ」とまで駄々をこねれば。
そこは暖かい料理に美味い酒。
口に運べば空気も和らぐというもの。
どうにか宴の体を取り繕ったところで。
「母御前と弟君のお出ましにござる、ヒロ殿。先日のお礼言上に伺ったとの『触れ込み』にて」
あちらから来てくれた、ということか。
「分かっている」と見て良いかもしれない。
改めて席をしつらえ、酒食を注文し。
何も知らぬ弟……10歳の子供の世話を、ピーターに任せれば。
母君がさっそくに、優雅なご挨拶を見せてくれた。
「先ごろは結構な衣を賜りまして、お礼の言葉もございません。今日も息子がなにやら不調法をしたと伺いまして……」
「お邸からわざわざのご足労、大変にありがたく思っております」
帰って来た返事が驚異的であった。
「近衛のアカイウス・シスル卿のみならず、滝口から霞の里の若君までがおいでと伺い、これはお招きに預かるほうが良かろうと判断いたしました。……ここのところ、屋敷の周辺が騒がしくもありましたし」
この女性、いろいろと「見えている」。
それでも全容は分からぬらしく、息子に目を向けていた。
「やらかし」の内容をその口から聞き出した母君、それはもうお怒りで。
小さな体で熊のごとくむくつけき男をさんざんに折檻したと思ったら、こちらに向き直って平謝り。
一渡り謝罪の言葉を述べたところで、すぐと話の穂を継いできた。
「私どもの身も危険だと、やはりそういうことですのね? 重臣のお二人をお遣わしになり保護していただきましたこと、感謝の言葉もありません。……こうなってしまったからには、前式部卿宮さま閥とは縁を切ります。先代に比べてお付き合いが薄くなってもおりましたし」
「仕事をやりやすくしてくれる」女性だと思った。
こちらの期待通りではあるけれど、そのひと言が持つ意味は重い。
言わせたからには……。
「あるいはご承知かと存じますが、カレワラではいまだ力不足……ご子息はしばらく極東道政府で、もしくは征北将軍府でキャリアを積まれるのがよろしいかと。高等文官試験合格者なれば、極東では課長級から始められるはず。ほとぼりが冷めれば……そう、三十代にもなれば、王都復帰の目も出てきましょう」
俺では守りきれないから、メル家の傘を借りる。アスラーン殿下閥の末端に組み入れる。
殿下が他派閥に勝利し即位された暁には、男も王都に復帰できる。
「ご家族全員で移住されるならば、その面倒もこちらで負担いたします」
「息子の不始末がありましたのに、そこまでしていただくわけには参りません。私は人質として磐森へ参りましょう……いえ、本音を申しますと、この年になって東下りはさすがにぞっとしませんもの。ただ分からないのは、ここまで目をかけていただける理由です。高等文官試験の採点官と合格者は縁を持つものとは聞き及びますが」
「こちらもいまだ弱小貴族、せっかくの縁は大切にしたいと思ったのです」
目をかけた理由。ほんとうは、それだけではない。
学生寮の人々に、昔の俺を、学園の友人たちと同じものを見たからだ。
日本にいた頃の俺が頑張っていなかったことは、棚に上げさせてもらう。
ともかく。
正々堂々、戦死するなら仕方無い。
仕事に打ち込んで体を壊すのも、ひとつの生き方かもしれない。
だけど、こういうのは。
大きな家の板ばさみになって、汚れ仕事をやらされて、闇に葬られる?
青臭い気分に浸っていた時期だけに、どうにも納得いかなかった。
「私は恨まれる心当たりがないつもりですが……。前式部卿宮さまは、その郎党衆は何を考えているものやら。私の知るお人柄からは遠くかけ離れているようで、どうにも分からないのです」
男の父親からの付き合いならば、この女性には思い当たるところがあろうと。
どうしてこうなったのか、前式部卿宮とはいかなる人物なのか。
「ええ、おっしゃるとおりですわ。先代からまめやかなお人柄で、寄る辺無き者に優しいお方でした」
特に先代は折にふれ、彼女に文や衣を届けていたと聞かされた。
俺にはそこまで思い至らなかった。
学生たちの生活のため、予算を付ける権限を持ったのは式部少輔になったこの8月からだが……それは言い訳だ。
個人で寮に米俵を、麦の袋を差し入れるぐらいはできたはずなのに。
そう言えば、家の勢いが振るわなかったイオ様を見かねて、典侍としての入内を勧めたのも前式部卿宮であったか。
「自分の保護下に置く」――キレイに言えばそうなるが、弱みに付け込んで自分の女にするとも言う――ことをせず、誰もが幸せになれるように縁を取り持つ。
まめやかなお人柄、だよな。
「私と夫の縁を取り持ってくれたのも、ご先代です」
男の母は、桂花少納言が放った苦肉の策により、先々代陛下とのご縁を断たれた(いや、それはそのほうが良かったのだけれども)女童であった。
そうした経緯があっては、彼女に言い寄る男などあるはずもない。
侠気を見せた桂花少納言は殿上を差し止められ、後宮にある彼女の元に通う事は物理的に不可能となり。結果、責任を取ることもできず、口先だけの男よと晒し者にされた……それも桂花少納言の受けた罰、屈辱であったのかもしれない。
いずれにせよ、孤独な日々を過ごしていた女童。
いちおうそれなりの家格にあったものだから。
彼女の言葉によれば「意地になって後宮に居座り続けて」、女官となり。
前式部卿宮の父君(先代)のお付きとして宮中に出入りしていた男が、どうかして彼女を見初めたらしい。
殿上の資格など、はるか遠く。逢うことかなわず。それでも恋に悩む男。
見かねた先代が、あれこれ世話をしてやって。
「冴えないけれど、誠実な夫でした」
ふたりの子をもうけた男。
評判を勝ち得、彼女の実家の後押しもあり、少しずつ運が向いてきたところで、病死した。
「間が悪いでしょう? 夫も、私も。まさか息子までとは思いませんでした」
それでは式部卿宮家への恩は深かろう。
前宮さま、何やってんだよ。これだけの関係を築いた相手を追い詰めるなんて。
イオ様の件と言い、おくゆかしき人柄ではある。
宮掖に生きるのであれば、理想の貴族と言えるのかもしれない。
だが仮にも卿(政務次官)まで務めたお人ならば、男社会の、当主としての理屈ってものを、もう少し! 頼むから部下をしっかり管理してくれ!
……って、それはこの女性に言っても詮無いことだから。
「長く後宮にお勤めでいらしたのですね。感性がご評判になっているとのお話にも得心が行きました」
いきなり男が踏み込んできても、「近衛兵のアカイウス・アンドリュー・シスル」の名を聞き分けた。差し出されたアザミの紋と……3年前までは秘されていたカレワラの緋扇紋を知っていた。
のみならず、新設された滝口の存在とその意義(いわゆるお庭番)、さらにヒュームの出身まで。
今も交友は広く、情報を集めているのであろう。恐らくは、息子のために。
「前掌侍様の件もお聞き及びに?」
返事は早かった。打てば響くとは、まさにこれ。
「言葉遊び、笑い話なのでしょう? 閣下がそういうことであの方を求めるとは思えませんもの」
なぜ求めたか……そこにも思いを致したな?
目が合ったと思ったら、一瞬で目を伏せた。
ならば話は早い。これから先、敬語は用いぬ。
「待遇は保証する」
身元は明確、家格に遜色無し、貴族仲間と交友が広く、一家経営の経験あり、感性は折り紙つき。
息子ごと派閥に取り込めば忠誠にも疑い無し。
「前掌侍さまには遠く及びませぬが。間の悪い親子に思わぬご縁が巡ってきたものと感謝いたします。人質ですもの、別邸などと贅沢は申しませぬ」
そう、人質という名目もあった。
男が王都に帰って来た時をもって引退してもらえば、前掌侍が言っていた危険……「カレワラの奥が侍女長の色に染まってしまう」ことも防げる。
「母上、屋敷を引き払うのですか!?」
会話の意味、当然理解できるか。
やっと本来のキレが戻ってきたな?
「あなたの不始末のせいですよ! 感謝とお詫びを申し上げなさい!」
まさにそれぐらい叱り飛ばせる女性が必要なんです、今のカレワラ家には。




