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第二百八十五話 桂花の候に その1


 戦争から帰還して後、最初の仕事は式部少輔としてのもの。

 6月に行われた高等文官試験の採点業務であった。


 式部省は、おおまかに言って「文部科学省、兼人事院」である。

 高等文官試験は、まさに管轄なわばりど真ん中。


 試験日が6月。

 文章博士や式部の官僚を中心にした採点官による予備採点(あしきり)が行われるのが7月。

 予備採点を通過した答案が最終チェックを受けるのが8月。


 ……それが本来のタイムスケジュールであるが。

 ことしは8月に右京民乱、引き続いて南嶺との戦争が起きた。およそ文化事業には必ずいっちょ噛みする筆頭採点官・立花伯爵閣下が領邦に帰らざるを得なくなった。

 そのため採点の時期が10月にずれこんだのである。



 立花伯爵のもと、採点官は計6人。 

 

 式部には現在尚書(次官)がいないので……一番上が式部卿(≒局長)閣下。かつて知り合った少納言・サヴィニヤンの父親であり、その甥アベルの祖父君に当たる人物。

 式部大輔、俗に「桂花大輔」と呼ばれる人物。

 式部の外局散位寮のかみである、さきの式部卿宮ワーリー氏。

 末席は、式部少輔たるこの私。

 なお式部以外から、王都に帰って来て弾正大弼だんじょうだいひつの職に就いたヨシカツ・アサヒ氏。



 高等文官試験は、ノンキャリから王国中央政府幹部へ叩き上げるための王道である。

 二十年後、三十年後の部長・局長として、我らと共に王国を支える人々を選ぶ試験だ。

 その責任は重大である……ので、不正など無きよう、採点官は3日の間一棟にカンヅメとされ、外部との接触を禁じられる。


 男同士、密室、3日間。何も起きないはずも無く……いえ、何も無かったのですけれどね?

 一室にカンヅメになって何百という答案を回し読みしておりますと、妙な連帯感が生まれると言いますか。


 初めはやはり、緊張したけれども。

 火災を免れた右京・学生寮の諸君の顔がちらついて仕方なかったから。


 弊衣破帽、無精ひげに寝癖で勉強に打ち込む若者達。

 我が目の前に山と積まれているのは、そんな彼らが一生の浮沈を賭けて必死に書いた答案だということを知ってしまうと、どうしても。


 中身26歳、この世界では18歳。社会人3年目の俺。

 偉そうに評価など下して良いものかと。

 こういう採点は、老碩学や閣僚がすべきものではないのかと。



 だがそんなことを口にして良い立場では無いと、分かってもいる。

 

 従五位上、来秋あたりには正五位への昇任がほぼ確実視されている俺。

 男爵にして式部少輔……3年目とはいえ、課長級を3年勤めたのだ。

 人を評価しなくてはいけない地位だし、俺に評価されるのは学生にとって「光栄なこと」。

 

 

 そんなためらいは弾正大弼……すなわち検察長官ヨシカツ・アサヒ氏にはお見通しなのである。後ろめたさを抱えて生きる者を見詰め続けて30年になるのだから。

 

「8月の人事異動で式部少輔に選ばれる公達は、採点の重責を担うに足ると評価されているのです。気負わず臆せず、同世代の努力を称賛するぐらいの気持ちで良いのですよ」


 机に向かう姿が絵になる男、どっしりとした上半身の持ち主。

 その力強い励ましに腹を据え、余計な感情を排してじっくり眺めてみたけれど。


 やはり、困った。

 足切りを通って来た答案は――上から目線になるけれど――どれもできが良くて。


 合否のつけようがないのである。これ、全員合格でいいんじゃない?



 老眼のお父さんのように、答案を目に近づけては遠ざけてみる。

 やっぱりその、優劣をつけがたい。

 はかどらぬその様子を上座から見咎めた立花伯爵、慣れぬ若手ふたりに声を掛ける。


「合否は足切りでほぼ決まっております。我らの仕事は、合格者に順番をつけるだけのこと。それとて上位の一握りを除いて、順番が出世を左右することもありません。全員で議論して決めることでもありますから、各人の感覚で選べばよろしいのですよ」


 敬語を用いているのは、前式部卿宮に遠慮があるから。

 プライベートでは陛下を相手にしてもタメ口なのに……と、可笑しさを感じなくもないけれど。

 まあね、仕事だし。

  


 式部大輔……「桂花大輔」氏も応ずる。


「上位合格者とて、出世が約束されているわけではありません。私たちも含め、たかが成績……どころか能力すら関係ないところで浮沈が決まること、官界の常識ではありませんか。あまり考えすぎずに、良いと思った答案を直心すぐこころもて選ばれれば良いのです」 

 

 皮肉と言うにはあまりにもからりと晴れた、その口調。

 失脚から復権したばかりの前式部卿宮を前にしてよく言えるものだ。「王の友」立花すら気を使っているのに……と思ったけれど。

 


 定年間近のこの式部大輔殿、やや特殊な経歴を有している。

 かつて「桂花少納言」という通り名を持ち、そのゆえに「桂花大輔」と呼び習わされている。


 おかしな話なのだ。

 10代で少納言デビューするような名門の若君ならば、五十過ぎで大輔に留まっていることなどまずありえない。

 20代の少納言だったならば、これは窓際。大輔、それも式部の大輔まで昇れるはずがない。

 つまり「少納言」なるニックネームの人物は、本来この場にいるはずがないのだけれど。

  


 ……ことの由来は、先々代陛下に関わる。

 

 先々代陛下のご在位は長かった。めでたいことではある、けれど。

 何事にも積極的であった陛下、「英雄色を好む」の例に漏れず、お盛んでありまして。

 (現在の王室関係者も、多くはその流れを汲んでいる)


 ともかく。

 先々代陛下、ひとりの女官に目をつけた。

 いや、正確には女官とも言えぬ、女童めのわらわ。当時9歳であったとか。


「いくら最高権力者とは言えそれは無い、あんまりだ」

「陛下の不名誉でもあろう。お為にならず」

 

 みなそう思ったけれど、デビューするやいきなりアリエルに苛烈な処分を下し、その後もムスタファ・ヘクマチアルを利用して独裁政治を行っていた陛下に対し、物言える貴族はいなかった(不幸なことに、立花家の当主も早世していた)。


「陛下の家庭問題、男女の問題だ。他人が口をさしはさむものではない」

「これ、国政の大事にあらず。粗探しのごとく些事をあげつらうことを諫言とは言わぬ」

 

 などと、言い訳めいた言葉が飛び交う中。

 ただひとり、桂花少納言(当時はまだ少納言ではなかったけれど)が口を開いた。


 とは言え「陛下のお為になりませぬ」などと口にしようものならば……誇り高き先々代陛下のことだ。「若僧が、上から朕の行いを論評するか!」とご立腹になること間違いなし。

 もちろん真正面から「このロリコンどもめ」などと言えるはずも無く。

 

 そこで桂花少納言、なんと。

 「その女童は、私の婚約者です」と言い放ったとか。


 不興を顔に表した先々代陛下、下がれと一喝。

 だが女童に対する興味は失ったらしい。何かの気まぐれであったのだろう。


 しかし当時の官僚たちは、強烈な個性を持つ独裁者の顔色を窺わずにはいられなかった。

 「陛下と女を争った」とされた桂花少納言は、出世の道を断たれた。

 殿上の資格を差し止められ、件の女童と連絡を取ることもできなくなり。

 まさに少納言でキャリアは頭打ち、そのまま退職する羽目に。


 その後すぐに代替わりした先代陛下は、うってかわって心優しきお人柄であった。

 父の事績を、父の御世において下された裁定を、否定できる性格では無かった。


 意気地なしとすら思われかねないその穏やかなお人柄こそ、当時の王国に必要なもので。

 そのご在位は短かったが、拡張路線後の危機を緊縮財政で乗り切る道筋をつけた、内治の名君であるとの声も高い。

 けれどその間、桂花少納言の復権はなされることがなく。


 彼が復権を果たしたのは、今上の御世に至り時間が経ってから。

 いろいろと同情すべき事情はあるけれど、彼が若い頃約束されていた道は、いまや後進たちが歩むためのもので。割り込みをさせるのもなかなか難しく。

 桂花大輔殿、年齢から言って、そろそろ「上がり」であろうと目されている。

 



 ……ここにも、栄光と流血に彩られた先々代の御世が顔を出す。

 最初の犠牲者がアリエルで、最後の犠牲者が桂花少納言。

 その後に失脚したのがムスタファ・ヘクマチアル。


 それでもみな、殺されはしなかった。


 ……同じ頃メル家は東国で、一族を挙げて血飛沫にまみれながら戦っていた。



 どちらが優れているとか劣っているとか、そういう問題では無いと思う。

 ただ、メル家、あるいはキュビ家にも言えることだけれど。

 王室・トワ系と彼らとは、深いところで「一線」を相手に対して引いているような。

 そんな気がしてならなかった。




「……謹厳・まじめであることは、決して美徳ではありません」


 金属の弦を想像させる硬質の声に、物思いから引き戻された。


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