第二百八十四話 見る目 その1
この年の秋は、戦争で大忙しだったけれど。
その前後にもいろいろとあった。
時は8月に遡る。
後宮で顔なじみのベテラン女官どのが、「従五位下・権掌侍」に昇任した。
近衛府における小隊長と同じである。
いわゆるノンキャリ女官の「あがり」のポジション。
以後半年はあいさつ回りと身辺整理、業務の引継ぎに励み、来春1月の人事異動の前に自主退職するのが「ならわし」である。
肩叩きではあるけれど、いわば定年まで勤め上げているのだし。
何よりも、五位への昇任は文句無しの「ご出世」であって。
この秋いっぱい、彼女の局(事務棟)は、別れを惜しみ昔話に花を咲かせる人々が引きも切らなかった。
かく言う私もそのひとりでありまして。
ヒマを見つけては、彼女の局に通ったものである。
「いかがでしょう。磐森の紅葉をご覧になりませんか? ご都合がつかなければ、雪景色など。もちろん、局の皆さまもご一緒に」
とか。
「絵巻物を仕立てました。過度の装飾を避け、できるかぎり実態に即した図です。こちらの別邸からの眺めが格別で……」
とか。
いろいろ話しかけているところに、優なる人影。
「ついこの間まで田舎の子供であったものが、都の華である女房(女官)殿を口説くとはねえ。それも後宮から引き離して手籠めにしようとは、悪い男になったものだ」
立花伯爵であった。
人聞きの悪い……と言いたくなるが、反論できない。事実であったから。
そう。
この秋俺は、50も半ばにならんとするベテラン女官殿を必死に口説いていた。
……風流の道ではありませんよ?
退職の後、カレワラ家の侍女長として再就職してもらえないかと。
そういう話を持ちかけていたのだ。
立花伯爵がいみじくも喝破したように、紅葉を見に来てもらい、そのままご逗留いただこうと。
さきほどの言葉が意味するところにしても。
「部下の皆さまについても、再就職の世話をします」
「新居として、こちらの別邸を建てているところです」
と、そういう話をしているのでありまして。
そして彼女がいったん磐森に足を踏み入れたなら、こっちのもの。
帰ろうとしたならば、「今日はアカイウス主催の酒宴を……」、「カイ・オーウェンがお茶会を……」、「侍女衆が物語を聞きたいと申しておりまして……」と、とにかく引き止める。
そのまま年明け、春、夏……と帰らせず、なし崩しにカレワラ党に組み込んでしまえと。
誘拐じゃねえか!
と、言われてしまえばそのとおり。
だが誰からも文句が出ないならば誘拐とは言わぬ。それが王国社会。
そもそも爵位持ちの犯罪行為を裁けるのは貴族院による特別法廷のみ。
つまり男爵の俺を罪に問うことは事実上不可能なのであって。
だからこそ。
力――魅力・財力も含めて――をもって要求を押し通せるし、押し通すべき。
それが上流貴族なのである。
無論、力と言っても暴力だの権力だのを傘に着る気は一切無い。
あくまでも優雅に。観葉、雪見のお誘いと。
喜んでご滞在いただき、引いては一緒にお仕事をしてはいただけませんかと。
それぐらいの神経を使って招聘すべき人材であると見込んでいるからこその、強気の勧誘なのだ。
女官どのも、そこは重々承知の上。
長年後宮で苦労を重ねた彼女だが、与えられた最後の半年は事実上の休暇。お茶にお歌におしゃべりに……と、優雅なひとときを過ごしているところ。
俺の熱心なお誘いも、そのスパイスとして楽しんでいるのである。
「近衛のカレワラ小隊長殿から口説かれておりますの。お邸をくださるとか」
と、まあ。
ちょっとした艶笑談として、後宮に自慢したっていいじゃない。
はぐらかすのも駆け引きの内。いやその程度、ご挨拶に過ぎない。
正直、いけるだろうと思っていた。
彼女は魅力的な女性ではあるが……まあね、その。
まめに通う男がいるなどとは聞いたことがないし。
最高の待遇を提示したつもりでもあったのだが。
困ったことに、なんと立花伯爵閣下その人も、彼女を口説いていたのである。
「わが領地の紅葉も、劣るものではありません」
「春もありとあらゆる花が咲き乱れるのですが、ただ一輪を欠いているのです」
オサムさんと彼女とは、10代と30手前だった頃に「おつきあい」があったと聞いている。
そもそも立花伯爵閣下と言えば、風流の道では王国でも第一人者。
これほど強力なライバルはいないのである。
「ヒロ君。私の妻は知っているだろう? いわゆるお姫様育ちで何もできない。しっかりした侍女がついてはいるが、どうも立花家の『奥』は緩みがちでねえ」
自分の緩みっぷりを棚に上げ、奥様のせいにするとは!
かようなる見下げ果てたゲス男に負けるわけにはいかぬ!
「カレワラは『奥』を作り上げるところからです。私の思いこそ、真剣ですよ」
「見る目がある。やはり君は良い趣味をしている……が、引けぬな」
オサムさん、意気地のかけらも無いくせに、こういう話になると意地を張る。3日と開けず通い詰める。
女官どの、「立花伯爵閣下にも誘われておりますの」と、大喜び。
笑い話の種ができたとて、後宮も大喜び。
8月も末に近づいたある日のこと。
いろいろと口説き文句を並べていたところ。
「海松布なき わが身を浦と 知らねばや」
などと歌いかけられた。
「(私に見所などありませんよ、)ノーチャンスだと分かりませんか?」
そう言われても、引き下がることはできぬのであります。
その歌を使うならば……この歌ではいかがでしょう。
「海松布の浦に寄ることもありましょう」
(ノーチャンスとは思いません)
すると、その歌を踏まえて。
御簾の向こうから、やや押し殺したような声が聞こえた。
「満つ潮に 流れ干る間……など、あるものでしょうか?」
(昼間だから、などというのは逢わぬ理由になるものでしょうか?)
いつも通り、有名な恋歌を冗談としてやり取りするつもりであった。
だが彼女が返してきたのは、歌を裏返して一歩踏み込む言葉だったから。
思わず反射的に、御簾の内へと身を滑り込ませたところ。
……几帳の向こうで、ガラガラドシャンと音がした。
誰かは分かっている。お局の主が妹分のように扱っている、30手前の女官殿。
気が削がれ、さすがにお互い恥ずかしくなり。
そっと御簾の外へと身を移す。
中からは物を投げ合う音が聞こえてきた。
帰り道のこと。冷静になって、迷いが生じた。
あれは単なる言葉遊びだったのか、それとも彼女は本気で誘っていたのか。
年の差は30歳を超えている。
それに50代で、その……そういうことをするものだろうか?
男はどうなんだろう。性欲って、いくつぐらいまであるのか。
最初に浮かんだ顔は80に近い李老師だったが、あの人はいろいろと規格外。
参考にならない。
……おそらく60を過ぎても、性欲はあるのだと思う。
それぐらいで子を生したという話、時々聞くし。
自分がその年になっても、スケベ心は持っているんじゃないかと。
(……豪族の当主にとって子作りは義務にござる)
言い出せずにいた俺に配慮して、自分から。
この頃はまだ一緒にいたモリー老が重々しく呟いた。
(いまさらカッコつけないでよモリー! それにずれてるよ。問題は奥方でしょ?)
(あのねピンク。男同士の会話マナーとして、妻や恋人との性生活を話すってのは最低の行為なの。一切の信用を失うレベルよ?)
(分かったよ! あたしが答えりゃいいんでしょ! たぶん50代でもあたしの妄想力は衰えてないと思う。だからあの女官どのにしても、恋をしたいって気持ちはあると思うよ。……それが性欲かって言われるとわかんないけど)
改めて覚悟を決めた。
翌日、精一杯おしゃれをして彼女のお局を訪えば。
額に青タンをこさえた「妹分」に迎えられ、そして。
ふたたび御簾のうちに身を滑り込ませたところで。
「火事だ!」
そう。
右京の民乱が起きたのだ。
その時点では、火災の規模は不明であった。
何の、ただの火事ならば……と、伸ばした手。
厳しく跳ね除けられた。肉付きの薄い、白く長い指に。
「カレワラ小隊長殿。あなたは近衛、陛下の御身を安んずるお立場のはず」
日ごろ戯れに恋の歌を投げかけていた女性の面影は無かった。
俺の目の前にあったのは、凛々しく、厳しく、そして美しい顔。
「これは……私が至りませんでした。お教え、感謝いたします」
背筋を伸ばし、一礼を施す。
限られた時間のうちに、精一杯の敬意を伝えたくて。
「落ち着きましたら、必ず」
必ず、逢いに来る。
必ず、磐森へ連れて行く。
……その後、民乱の収拾、戦支度、そして南への出征と多忙が続き。
女官殿のもとには通えなかったのだけれど。
信じていた。
俺のその態度を、彼女は認めてくれると。
オサムさんも、さすが弁えていた。
王国と南嶺の間に紛争が起きれば中立の立場を取るのが、立花家長年の慣習。
その例により、立花伯爵閣下たるや。王都から自らの領邦に居を移し腰を据え……いや、領内をふらふらと点々と飲み歩くことで、領民に安全をアピールする日々。
9月、戦が終わり。
10月、戦後処理も済んで王都に帰還し。
再び、精一杯の気合を入れて侍女殿のお局を訪問した。




