第二百八十二話 包囲殲滅 幕間その1 エミールとネヴィル
山を下りたヒロさんが後事を託したのは、私とネヴィル・ハウエルであった。
ハウエル家は、バルベルグ家の寄騎……と言ってしまっては、彼らのプライドを傷つけるだろう。
もう少し独立性の強い家柄だ。
その嫡長子ネヴィルは、容姿が醜かった。そのために近衛府入りを辞退していた。
……辞退するよう、周りから圧力をかけられたに違いない。
ネヴィルは私よりも10歳近く年長だ。
彼が成人を迎えた当時、私にできることなど何も無かった。
近衛府に出仕するようになった私は、彼の存在などすっかり忘れていた。
ネヴィルが小さな過誤を犯したために、やっとその存在を思い出したのがこの春のこと。
私は公平な裁定を下した、つもりだ。
いや、それだけのことしかしていない。
だがネヴィルは私を煩わせたと恥じ入り、深い感謝の目を向けてきた。
耐え難かった。
私は……俺は、何もしていないのに。
ただ顔を見せた、声をかけた、それだけのことで。
なぜああまで感謝されなければならないのか。
……俺がバルベルグの若君だからだ。
ちょっと動けばそれだけで褒められ、感謝される。
郎党どころか上長、先輩のヒロさんや上司のオラースさんまで、俺に……いや、バルベルグの名に気を使っている。
そのヒロさんが、ネヴィルを「拾った」。
「拾ってやった」ネヴィルに対し、対等な口をきくことを許していた。
家格の差は紙一重。
本来ならば、「それゆえにこそ、格式の差を強調すべき相手」であるのに。
遠慮するなと。ヒロさんはその態度によって伝えていた。
弟に対する態度を見れば分かる。ネヴィルはひどく鬱屈していた。
気難しく厄介な男。
それをあの人は、うまく使いこなしていた。
ヒロ・ド・カレワラ。
2年付き合ってみての印象は、「引き出しの多い人物」だ。
武術の腕は一流と言って良かろう。霊能も持っている。
だがそういう派手なところに目を奪われると、あの人物を見誤る。
彼は、ノウハウ・知識……つまるところ「情報」を大量に保有している。
同じ社会に生きる者、同じ公達とは思えないほどに、雑多で有用な情報を。
そしてその情報を組み立て利用することに長けている。
ネヴィルのような男を扱う術も、どこからか仕入れていたのであろう。
複数のノウハウを組み合わせているのかもしれない。
私と何が違うのだろう。
ネヴィルを活かすことができなかった私と。
あの人は、上流貴族なのに「叩き上げ」だ。自分の手で実績を積み上げてきた。
違いがあるとすれば、そこか?
……いや、分かっている。
それがどうした。俺はエミール・バルベルグだ。
叩き上げる必要があった男と自らを同列に論ずべきではない。
荒くれ郎党衆を纏め上げ、じゃじゃ馬・大蔵卿宮をあしらい。
周囲の家々に、仲間たちに、俺の名と実績は一歩としてひけを取っているつもりなどない。
ともすれば軽く見られがちなのは、単に年歯が及んでいないからだ。そのために内朝……陛下の家事に関わることが多く、天下国家に関わる経験が少なかったからだ。
だがついに、一営の司令官。
堂々たる国家の仕事、男の仕事を任される時が来た。
同じようにヒロさんから仕事を任されたネヴィル・ハウエルが、熱弁を振るっていた。
いまや鬱屈など、かけらも感じさせない。
「兵部省の軍勢を使うこと、お許しください。それと……ユースフ・ヘクマチアル閣下! 参加してはもらえませんか?」
「何をなさるおつもりかな?」
見えてきたような気がする。
しかしヒロさんも、なかなか狡猾だ。
自分でユースフに頼み込むのではなく、その仕事まで含めてネヴィルに投げるとは。
「跳ねるチャンスだと、そう申し上げます。ヘクマチアル家の評判はあまりに悪い。つい先ごろは右京を焼かれ、右京職の面目は丸潰れ。戦に出てからも評判は芳しくない。『実力』は、あなたたちの拠って立つところのはずなのに」
気色ばむユースフを、ネヴィルが制する。
「それも、虚像も含めた実力です。疑われ侮られては、あなた達は落ちてゆく他に無い」
辛辣な言葉に――それはヘクマチアル家の男達にとって聞きなずんだ言葉のはず――かえって冷静さを取り戻したか。
ユースフ・ヘクマチアルは皮肉な微笑を取り戻していた。
「『勢力を温存したまま右京に帰り、組織を引き締め直す。侮るものには容赦しない』。そういう選択肢を教えていただいたようにも聞こえますが」
だがネヴィルは執拗であった。
世を拗ねていた頃に見せていた諦念と、うわべをかざる上品さとを、捨てていた。
「あなたには兄上がいる。それも国境で、本物の軍人を指揮している兄上が。……そちらとの関係、意識せずにいられますか?」
ネヴィル自身が認めたくなかった感情、なのかもしれない。
止まらなくなっていた。
「こんな俺たちでも、守るべきものは多い。捨てようったって捨てられるもんじゃないが……守るばかりじゃダメなんだ。自分からチャンスを作りに行かなくちゃいけなかった。でも俺たちは、それをせず過ごしてきた。間違いに気づくのが遅すぎたと思っていたら、ありがたいことにそのチャンスを投げてくれるヤツがいた」
「青臭いことを。チャンスを与えるのは、与える側に目的があるからだ」
「マフィアのボスなら当然ご存知だろうな? だが言わせてもらう。それがどうした? ヒロにはヒロの思惑があるんだろう。だが俺たちには関係無い。ここで動かなきゃ、這い上がるチャンスはもう二度と来ないぜ? それが分かってるから参戦したんだろう? ……いや、お為ごかしだったな。俺がこのチャンスを掴みたいんだ。そのためにあんたが必要で、だからあんたにもチャンスを投げてるんだ。ここで動かないなら、あんたはイ○ポ野郎だ。俺は今後あんたのことを……ユースフ・ヘクマチアルの価値を、何ひとつとして認める気になれない。ヒロもそうだろうぜ? あんたに怖さが無いことを見抜くに決まってる。そうなったら……あいつのめんどくささとねちこさ、知ってんだろ?」
長年の友ハウエル家に、その嫡男ネヴィルに。
いま俺が、できることとは。
大活躍のヒロさんに対して、「仕事をした」と言い返すためには。
ハウエル党を奪われぬために、ヒロ・ド・カレワラ相手に張ることのできる意地とは。
「バルベルグもです、ヘクマチアル閣下。ここで自発的に動かぬのならば、今後一切の協力を拒否します。左翼営司令代行から命令を下されるよりは、名誉の出馬を選んでいただきたい」
ネヴィルが感謝のまなざしを向けてきた。
今度は、いまの俺は、それを真正面から受け止められる。
肯定のまなざしを受けて、ネヴィルが頭を下げた。
ヘクマチアルが受け容れやすいように。
命令ではなく、お願いだという体を守るために。
「ユースフ・ヘクマチアル閣下。軍人貴族ではないあなたに、無理をさせるつもりはありません。後詰め……いえ、にぎやかしでけっこうですので、お願いします」
私は初めて、ネヴィル・ハウエルという男を理解できた気がする。
意地が強く、誇り高く。
だからこそ、捻じ曲がりもするけれど。
だからこそ、頭を下げることもできる男。
「負けました。出撃しましょう。……なお私の郎党は、サボっても良いなどと言おうものなら臆面も無く敵前逃亡する連中ばかり。本気で追い立てますので、どうぞご期待ください」
そのまま袖を払って立ち上がったユースフ・ヘクマチアルの姿は、私が知っているそれよりも、ふたまわりほど大きく見えた。
司令部をひとわたり睨み回すその顔も、整ってはいたがひどく冷えていて。
彼も頭を下げる……負けを認めることで、率直になることで、ようやく地金を、実力を露にしたのだと。男にはそういうことがあるのかもしれないと。
そんな思いに囚われてユースフに釘付けになっていた視線を、遮られた。
やはり出撃準備のため立ち上がった男に。
「ありがとうございます、エミール様。このネヴィル・ハウエル、バルベルグ家に変わらぬ友誼を……ああいえ、時間が無いのでした。帰ってきてから申し上げます。ともかく私が不在の間は弟をこき使ってやってください!」
なぜだろう。その時見せたネヴィルの顔を、私ははっきりと覚えていない。
醜いと蔑まれ続けて良い顔ではない、そのことに心を奪われすぎていたから。
意外な発言にも、心を奪われてしまっていたから。
「エミールさんがこれほど率直で力強い方とは、思っていませんでした」
私も?
ネヴィルやユースフのように率直だったと?




