第二百八十話 コロンブスの卵 その1
戦の絵図を描く。
口にするのは簡単だが、何をどうすれば良いものやら。
湖城イースを極東戦略の核に据えたフィリア。
時を重ねるごとに、彼女の冴えを意識させられる。
後の流れを全て、「シナリオ通り」にしてしまう着眼であった。
紆余曲折があっても、かりに大戦に敗北していたとしても。
数十年以内に間違いなく、極東はメル家のものになっていた。
エドワードにしても、だ。
東西50km、南北25kmにも広がる盆地を見て、「要衝は2つの山だ」と瞬時に見抜いてしまった。
その山をどう活かすか――長駆迂回作戦だが――を思いつくには少し時間がかかったし、王国軍は軽騎兵の数が少ないので、画餅に帰してしまったけれど。
……強行偵察によって、理解できた。
いや、頭で想像していたことを肌で実感した。
あの盆地で戦をしてはいけない。
敵は、兵数はともかく錬度が高い。
何より盆地全体に情報網を張り巡らせている。
情報戦でひけを取ると、良いようにあしらわれてしまう。
待ち伏せ、挟撃、包囲、中央突破。
位置取り・布陣を先に知られてしまえば、どの策を取られても致命傷になる。
メル家から、アレックス様から、俺はそのことを学んだ。
幸いにして勝ち戦続きであったけれど、情報の大切さは、その恐ろしさは、骨身に叩き込まれた。
「やっぱり、引き寄せるしかない」
独り言が口を突いて出る。
「姿を現さぬ敵を、こっちの戦場に引きずり込む……」
つぶやいて、つぶやいて。
少しだけ見えてきた。
エドワードの主張する持久策でも、短期決戦でも、構わないと言えば構わない。
とにかく、こちらの有利な場所で戦をすることだ。
戦術の基本ゆえ、当然ながら理解はしている。言葉では、頭では。
いや、経験として身に刻んでも来た。
だが実感したのは、つい昨日のことで。
どこを戦場にすべきか。
いかに引きずり込むか。
相手があることゆえ、こちらの思惑通りに動くとは限らないけれど。
それでも、思惑通りに動かさなくてはいけないのだ。
そこまでしなければ、今の近衛府、いや今の俺では、勝てない。
アレックス様なら、フィリアなら……。
フィリア。湖城イース。
「湖城イースは、極東の要。……王畿は? 王都、鶺鴒湖、恭仁河・立花領・回廊地帯、盆地、旧都……それぞれの意味は?」
王都を守る最終ラインが、鶺鴒湖。
第二ラインが、東から西に流れ、立花領の南西境で北へと90度向きを変える恭仁河。
回廊地帯南端部も、第二ラインと言って良い。
盆地は旧都の後背地。
そして立地自体は守りに適していない旧都が、最前線・国境の街。
盆地を確保できれば、旧都は攻め落とせる。時間はかかっても、紆余曲折があっても。
その盆地を確保するためには、要衝を押さえることが必須で……。
張りのある若者の声に、我を取り戻す。
先触れであった。
「イーサン・デクスター閣下が、間もなく船着場に到着されます!」
気分転換に出迎えにでも行こうかと部屋を出たところで、シメイに出くわした。
ちょうど良い。
「船着場と言っていたけど。立花の故例により、恭仁河は使えないんじゃ?」
「そのはずなんだけどねえ」などと、返事は煮えきらぬくせに。
「煮詰まったような顔をして、どうしたんだい?」と、相変わらずそうしたことにばかり聡い。
鞍上涼やかな秋風を切り、リズミカルな馬蹄の響きに身を任せれば。
視野が広がり、煮詰まった思考も澄明にほどけゆく。
ここのところ前ばかりを睨んでいたものだから、忘れていた。
3万近い軍隊が滞在しているのに、兵站には滞りが無いということを。
財務官僚のイーサンがインフラを知るアルバートと組んでいるのだから、不思議は無いと思い込んでいたけれど。
いくらふたりが優れていても、水運無しでは不可能なはず。
大量の陸送を可能にする工夫や秘策でもあるのだろうか。
「中立地帯だからこそ、民間の利用・通常運航は、認められなければならないだろう?」
何のことは無い。
船着場にイーサンを迎えに行って聞かされたのは、ペテンに類する話であった。
軍隊の航行が認められないならば、商人に運ばせれば良い。
形式的に、商人を兵站の仲買人に仕立て上げていたのだ。
種を明かせば、それだけのこと。
……「それだけのこと」が、コロンブスの卵。
兵站輸送に商人を噛ませること。
湖城イースを要として極東の戦略を立てること。
「あたりまえだろう?」と思うようでは、俺は壁を破れない。
「若い頃の父も、昔の官僚も、そうしていたらしいよ?」
ルールは守るものでは無く、守らせるもの。作るもの。
都合が悪ければ捻じ曲げ、潜脱すべきもの。
(貴族の何たるかを、まだ理解できてなかったみたいね?)
分かりましたから、アリエル先生。今はご容赦を。
「おかげで助かっているよ、イーサン。兵馬とも、食事には困っていない。健康状態は良好だ。……でもそっちは、歳出のほうは、大丈夫なのか?」
近衛小隊長、公達、五位の課長級とは、そういう存在。
前線から銃後まで、軍事から政策まで、幅広い視野を求められる。
結果、つい余計なことまで気になってしまう。
「君は前線に立つ名誉を担っているのだ、費用など気にせず励んでくれたまえ!……と、これはヒロ君を喜ばせる言葉にはならないんだよな。でも大丈夫。今年は旧都維持のための支出が不要になったから、戦費でトントンだよ……では、言い過ぎかな。それでも予備費のうちには悠々収まっているから安心してくれ」
ああ、なるほど。
「旧都はほぼ純粋に軍事拠点。平年でも生産・納税はほとんど無くて支出ばかりがかさんでいるってわけか」
相変わらず絵になる騎乗姿のまま、肩を竦めて笑顔を返してきた。
「軍人貴族の言葉とは思えないね。国防の要である!予算を増やせ!……だろう、そこは?」
それが軍人貴族のお約束ではある、けれど。
貴族にとってお約束とは、ルールとは、規範とは。
守るものではなく、自らが設定するものだとするならば。
「……この戦争の勝利条件は?」
「やめておきたまえ、ヒロ君」
バレバレか、やっぱり。
そもそも論として、旧都を守る意義に疑問を呈する。あるいは旧都を放棄してしまう。
……それに類する案は、認められない。
「旧都北の盆地、見て来たかい? けっこうな穀倉地帯なんだよ。租税収入は大きい」
それが、デクスター家が旧都を重視する理由、ね?
「盆地を守るためには、防御施設と紛争地域はその向こうになければならない……旧都の放棄は民部省として認められない、かい?」
「身も蓋も無く言えばそのとおりだけどね? あまりいじめないでくれ」
手を振っていた。
ただでさえデクスター家は、格式に対する敬意が薄いと言われがちなのに、と。
「旧都は、古代から続く都市。今でこそ荒れ果てているけれど、王国にとっては『心のふるさと』なんだ。多くの貴族にとって、本貫の地でもある」
身近なところでは、例えばヴァロワ家も旧都に起こっている。
後で尋ねたら、フィリップは複雑な表情を見せていたけれど。
なおカレワラの本貫は、言うまでもなく鶺鴒湖・先島村。
「奪還は国の威信をかけての軍事行動ってわけか。失敗は許されないと?」
イーサンの目が、逡巡の色を帯びた。
そして馬を並べている長い付き合いの友が……間抜け面が、自分の目の色を捉えたことにも気づいた。
「君達は命を張っているのだったね」
浮かべた苦笑は、誰に対するものだったのか。
「軍人を後顧の憂い無く戦場に送り出す。それは国家の大事にして政官の義務だ。……どうせ公達連中は、祖父から聞いているのだろうし」
そして明かされた話は、やや心を軽くする話題……と、言えるのかどうか。
「そもそもの責任は、旧都を失陥した兵部省にある。近衛府は『奪還できれば目標達成、侵略者を押し戻せば及第点、敗戦で責任問題』と。……陣定(閣議)では、そういう空気になったらしい」
敵の周到さは、閣僚レベルにまで伝わっていた。
目標を定め、機会を窺い、破壊工作を繰り返し、東西と呼吸を合わせ……。
待てよ?
敵の目標って何だ? その戦略目的はどこにある?
もちろん、王都にまで攻め上り占領すれば、これは完全勝利だ。絶対に許しはしないが。
鶺鴒湖まで進出しても南嶺の人々は拍手喝采、だろうけれど……政略・戦略的には、占領・統治まで視野に入れる必要がある。これも無理だ。メル・キュビの防衛部隊に磨り潰される。
すると、南嶺にとって現実的な勝利条件とは……現に彼らが成し遂げつつあるところ、盆地までを支配下に収め、こちらの第二防衛ラインを最前線に作り変えること?
「イーサン! 国境の湖……『太泉』の向こうは、南嶺の一大穀倉地帯だと聞いているけど?」
「そうだけど……何かつかんだみたいだね、ヒロ君。邪魔しては悪いから、僕はお先に。……明日にはフィリア君も、ファン・デールゼン家のクラース君も到着する。軍議を楽しみに待たせてもらうよ」
いろいろと気になる情報も飛び出したけれど、今はそれどころではなくて。
ともかく、穀倉地帯だとすれば。
湖を越えてそこまで占領されることが、彼らにとっての「大敗北」。
国境線、湖の制水権を維持し続けることが、彼らにとっての「最低限」。
容易にするためには、湖の対岸・旧都までを確保しておきたい。
水を挟んで両岸を確保するのは、軍人なら誰もが目指すところだ。
特に現状、この秋の活動。
わざわざ大兵を出して侵略してきたのだから。
旧都の確保、それが彼らにとっての「及第点」。
で、あるならば。
旧都を脅かす姿勢を見せれば、敵は決戦を挑まざるを得ない。姿を現さざるを得なくなる。
コロンブスの卵。
かたちだけで良かったのだ!
「牽制」も「奔命に疲れさせる」ことすら、必要では無かった!
長駆侵攻作戦に出る「体」を作りさえすれば……!
作戦遂行が不可能だからという理由で、その準備をしてこなかったけれど。
考え直す必要がある。
旧都に近いのは、盆地の要衝、西の山だ。
そこに拠点を築き、旧都を窺う勢いを見せる。
敵は必ず食いつく。盆地を確保し、旧都を守るために。
で、山地と盆地でにらみ合うか?
いや、低地に陣取る側は、高地に陣取る側を引き出そうとする。
それでは「こちらの戦場」、「こちらの思惑」に乗せることはできない。特に盆地は今や、彼らのホームなのだから。
もう一歩、引き込めれば……。
行ける!
もう少し練って、明日の軍議に……。
「うわあああ!」
誰だ!
考えがまとまりかけてたってのに!
「お館! 空からおっさんが!……飼ってらっしゃる猫の上に!」
ゴメン、無理。
作戦立案なんてできるわけがない。




