第二百六十五話 後宮お出入り その2
原本を手に取ってみて、理解した。
これが「ほんもの」の持つ迫力かと。
思えば、日本にいた時分。美術館等に行ったことなど皆無であった。
学生なら時間にも自由が利くし、割引もあったというのに。
美術史を代表する画家の作品がもたらす感動とは、どれほどのものだったろう。
……それはともかく、同人誌の原本だが。
これが力強く、真に迫るものであった。
えげつない描写などいっさい存在していないにも関わらず。
紙面から感じられたのは沸き立つリビドー。
手に取って眺めるにつけ。
内容うんぬんもさることながら、「身元不明の人物に熱い思いを寄せられている」、そのことへの不安感や不快感が、女官の皆さまを苛立たせたのかもしれない……などと、証明のしようもない憶測が頭に浮かんだり浮かばなかったり。
模写した女官の言うことには。
「私も、仕事を受けた直後は嫌で仕方が無かったのです。恥ずかしながら、このようなテーマがこの世に存在していることすら知らなかったものですから」
かまとと……と言うわけでもなさそうだ。
インターネットの無い社会だけに、「知る人ぞ知る」的な情報格差は非常に大きいので。
「それでも描き写すうちに、ペンの動かし方や人物の視線、背景の小物の配置など、『ああ、そういう意図で』と。趣向はやはり理解できませんけれど、持てる限りの技術と情熱を傾けて描いていたのだと。同好の者……絵を嗜む者として、そこには強い共感を覚えました」
原本をいとおしげに撫でていた。
ほっそりした、しかしペンだこの浮き出た指で。
証言を参考に、こちらも原本を撫でながら、人物の視線や背景の小物などをためつすがめつ眺めてみるものの。
絵心無き身には、何ひとつ分かりそうもない。
いや、何と無し違和感は覚えるのだけれど。その正体が分からない。
真剣に取り組んでいる「ように見える」せいであろうか。
典侍(三席)・イオさま付きの侍女殿、慎ましく「お願い事」をしてきた。
「犯人――いえ、そもそもこれが何の罪にあたるかも分かりませんでしたわね――作者の方への処分、軽くならないものでしょうか?」
自分で申し出ては?……と思わなくも無いけれど。
それをするのもなかなか難しい立場であろうから。
「ええ。ひとこと申し添えます」
安請け合いは時として身の危険を招く。美女の頼みとあれば、なおさらのこと。
だが「ご機嫌を損ねた」ことを理由とする厳罰処分など、見たいものではない。
下される者の悲哀もさることながら、下す姿も醜悪そのものだから。
表現活動を萎縮させるような態度も、好ましいものではない。
「上」の者の耳には、ともすれば甘い言葉ばかりが入ってきがちなもの。
だからこそ「下」が「お叱声」を上申しやすいように。
表現活動には、寛大でありたい。
いや、それを「貴族のお約束」にしていくべきなのだ。
隣に視線を流す。
同行者のシメイも、同じ思いのはずだから。
最高権力者である国王陛下に物申す責務を負う、立花家の男だもの。
しかしこれまたいつものように。
「真正面から大上段」という態度を取らぬのも立花であって。
「『作者が判明した暁には』だろう、ヒロ君? 気の早いことだ」
ああ、なるほど。熱心なのは、後宮に顔を出すその一事についてのみと。
まともに犯人探しをする気は無いんだな?
エドワードやイーサンと、そこは同じか。
そして退出しての帰り道。
もうひとりの同行者、ミカエル・シャガールがもろ手を広げ天を仰いだ。
「ああ、私はどうすれば良いのでしょう」
大げさなその態度を無視するのも、これなかなか面倒なので。
相槌打って続きを促せば。
「同僚……おお、これは大変な失礼を……ともかく皆さまは、仕事をサボタージュされるおつもりだ。『目くじら立てるべきではない』とのお考えでしょう? しかし奥の女官がたは、『作者を突き止めよ』とのきついお達し。公達ならぬ身で逃げも誤魔化しも利かぬ私は、板ばさみです」
冬の寒空を見て――は、いないな。そちらに向けて――いた首をがくんと落としたミカエルの視線が、こちらを捉えた。
「閣下はいかがお考えですか? 私の見るところ、やはり心情においては『捨ておくべし』とのお考え。さりながら先ほどの熱心なご様子、何か思い当たったのではありませぬか? 作者について心当たりでも?」
やはりこちらを観察していたか。
目端の利くことで。
「正直に言うから、絡むのは勘弁してもらえないかな? まだまだとても、作者像など想像できないさ。ただ何か、違和感を覚えたんだ。『ほんもの』が持つ力強さにインスピレーションを得たと言うか」
ヴァン・ダインの推理小説みたいになってしまったけれど。
最大の違いは、名探偵ならぬ身では結論が出てこないというところ。
俺のその言葉に嘘が無いと見て取ったか。
多忙なる敏腕官僚ミカエル・シャガール氏、脚運びもすらすらと蔵人所へ帰って行った。
その後ろ姿をねっとりと眺めていたシスター・ピンク画伯。
曲がり角に消えるまでじゅうぶん堪能して後、おもむろに口を開いた。
(インスピレーション、ねえ? ヒロ君に審美眼があるとは、とても思えないんだけど)
うるさい!自分でも分かってる!
(「庶民のお叱声に腹立てちゃいけない」んじゃなかったのか?)
悪かったよヴァガン。でも今はそこじゃなくて。
とにかく、「何か引っ掛かった」んだよ。
(で、何か無いかって? そうだねえ……私の見るところ、単純に絵のうまさだったら、作者より模写した女官のほうが上を行ってると思うよ?)
一流の才媛が集う後宮だもの、それはある意味当然かもしれない。
おっと、そうそう。
「それを見定めるピンクも負けてないと俺は思うぞ?」
そこにすかさず、空気を読まず。
脳内に響き渡るは……冷えたバリトンボイス。
(後宮入りには最低限の容姿と、礼儀作法も要求されるけどね?)
にへらっと緩んだピンクの頬が、真っ赤になって吊り上がり。
いつものようにつかみ合い。
なあアリエル、俺の努力を台無しにしなくても良いんじゃない?
(ヒロ君? 自然に出てきた言葉じゃないんだ!努力して無理に出した褒め言葉なの!?)
ああもう!だからいま大事なのは、そこじゃなくてだな!
「何がどう違うのか、どこが『上手い』のか。それを教えてくれ!」
それが分かったところで、作者に結びつくとも思えないけれど。
ピンクに話を聞かないことには何も見えてこないので。
とにかく何でも良いから説明を……と、お願いすれば。
(単純に、模写って難しいんだよ。上手い人ほど、「自分の味」があるから)
原○夫や荒木飛○彦が描く両津○吉ですね、分かります。
(それを殺すのが難しいのに……みんなも気づいてたでしょ? 描いているうちに「味」とか「個性」を筆に載せてきた。でも、それでいながら)
「やはりあくまでも『模写』としてのクオリティを完璧に保っている。そこが『技術の高さ』というわけか」
(そうそう。条件もいろいろ違うわけじゃん。ペンにインクに、紙に採光。だから模写したつもりでも、完成してみると「あれ、違うなあ」って思うのが普通だよ? なのにさあ)
それだ、ピンク。
その違和感だったんだ!
(ええ~? そんな微妙なところに気づくほど、ヒロ君には絵心無いじゃん。勘違いじゃ……)
はいはい、分かったから!
とにかく出るぞ!




