第二百五十七話 清濁 その1
そのシメイ・ド・オラニエだが。
8月の人事異動で、造酒正に着任していた。
造酒正。宮内省の外局である「造酒司」の長。
職務内容は、読んで字の如く「酒造り」。
宮中に、あるいは国家行事に提供される酒を作るお役所である。
いかにも立花家にふさわしい職務のようだが、本来は「ありえない話」のはず。
聞いた時には首を捻ったものだった。
と、いうのも。
酒造りその他もろもろ製造に関わるような仕事、「技官」や「現業」は、王国社会では一段低く見られる傾向がある。
以前(第百七十五話「清流」で)少し触れたところでもあるが、「濁流官」なる官職として。
対して立花のような「貴族の中の貴族」は、「清流官」――いわゆる「現場」から遠い仕事――を任されるはずなのだが。
「造酒司は、清流官だよヒロ君。およそ200年前、『流れ』が変わったんだ」
またなぜ?……と、聞くのもアホな話であった。
「当時、立花家の次男坊だったライセキ・ド・立花が、就任したくて駄々をこねたんだ。伝説的な酒造りの名人が造酒司に所属していたものだから、どうにかして近づこうとしたらしい。その父で当主のオウガイ・ド・立花伯爵も、止めるどころかおこぼれ欲しさに息子の後押しをする始末」
そして皆も諦めたと。
立花のやることだし、造酒司は閑職。利権を持たぬ官庁ゆえ、目くじら立てる必要がなかった。
なお、このオウガイ閣下も立花の通例に漏れず酒好きであって。
次男が生まれたその時も、通常運航の泥酔状態。
それでもさすがは立花当主、ひとたび筆を取るや神色自若、雄渾な筆跡で。
命名:瀬石
やっぱり酔っ払っていたのである。
訂正するのも面倒になり、(後に長男の早世により伯爵位を継ぐこととなった)次男坊はそのまま「ライセキ」と名づけられた。
オウガイ氏の妻・マリナン夫人、この件では生涯にわたり夫を許さなかったと伝わっている。
残念ながら当然の話である。
「ともかく立花の直系が任に就いたせいで、『今後、造酒司は清流官とみなす』という『お約束』が、貴族社会に成立してしまったというわけさ。官位も正六位相当から従五位相当、公達のためのポストへと変更された」
そこへ近づいてきたのが、もうひとりの造酒正である周一・夕陽。
この時期、政教条約を通じて親しくなっていた友人だ。
「『多少の盗み飲みは構わぬが、酒が過ぎて仕事にならぬようでは困る』と、当時の陛下は憂慮されたんだ。『そうだな、法曹の家の子弟も目付役として任用しよう』とのお声がかりがあってね?」
そのため定員一名のはずの閑職・造酒正は、左右のふたり体制に。
「我ら法曹……刑事裁判官は、典型的な濁流官だ。しかしおかげで、清流官に就く機会を得ることができたというわけさ。アサヒ・ナンチュウ・セキヨウの三家は、今なおライセキ氏に感謝している」
そして今やこの造酒正、彼らにとって「通過儀礼」のひとつになっている。
まるで違う生き方をする、立花系と法曹系。それが共に仕事をし、議論を重ねることにより。
立花系の公達は、「放埓」が許される限度を知る。
法曹系の公達は、「厳格」と「酷薄」の違いを知る。
かようにして「ダメ公達」のための「傍流ポスト」が、何かの拍子に「本流ポスト」になることもあるわけで。
これだから官界は難しい。
難しいと言えば、この時期俺の仕事には、どうも悩ましいことが多かった。
領主仕事には「大きな問題」が連続し……しかも、その裏にはなぜか「個々別々の事情」が根深く関わっているようなケースばかり。
それでも官僚仕事・治部の方面では、外交の苦労はあるものの、「湿度」は低めであったものが。
ここに来て、そちらもどうやら怪しくなってきたと言いますか。
「外交」・「宗教政策」と並ぶ治部省第三の職務、「家庭裁判所」の案件に関わるよう命ぜられたのでありまして。
しかし政教条約の「作業部会」を通じて、法律問題の複雑さには辟易していたものだから。
付け焼刃でも何か準備をしなくてはと思っていたところに、この日シュウイチ・セキヨウと出会えたというわけで。
「何かアドバイスを!」と、頼んでみたところ。
秀でた額を持つ青年は、眉を微動だにさせず即答したものであった。
「大丈夫さ、ヒロ君。『なぜ家庭や戸籍の問題が我ら法曹ではなく、君たち行政官僚に任されているか』。そこを考えてみたまえ」
「裁判とは違うんですか?」
すぐに分かる違いなど、それぐらいのもの。
「違うとばかりは言い切れない……が、刑事裁判と『違って見える』ことは確かだね。『やったかやってないか』、『有罪か無罪か』。白黒はっきりつけなくてはいけないのが裁判だ。だが行政は違うだろう?」
「玉虫色?」
「そう自嘲するものではないよ。『折衝を重ねて、互いに歩み寄れる落としどころを探る作業』だということさ。君たちがいつもやっていることじゃないか」
あー、なるほど。だから違って「見える」のね?
「だが最後には、結論を押し付ける。その意味では、刑事裁判と『同じ』とも言えるわけですか」
つまるところ。断を下し、責任を取るのが我らの仕事。
ならば。
「覚悟だけは、忘れずに臨むとします」
人徳者の多い裁判官の家系には似合わぬ不敵な笑みを返してきた、若き法律家。
「清流と濁流の違いはあれど、我らみな『上流』さ」
以前耳にしたイーサンの言葉よりは、客気が強いように思われたものであった。




