第二百四十七話 同窓会 その4
好スタートを切ったカレワラ艇。
岸辺から聞こえてくる歓声が、抜き去った瞬間のエイヴォン艇クルーの驚きの顔が心地よい。
レースは自然河川を利用して行われた。
そのため水路は「直線」と言うわけにはいかず……「L」字を左右反転し、もう少しカーブを緩くしたようなコースとなっている。
「逆L字」の短辺を行く間は、好調であった。
しかしカーブ、方向転換のタイミングで風向きが変わり……。
指揮官の俺はド素人。幽霊からアドバイスを受け、さらにクルーに指示を出す、その間のタイムラグが大きい。細かなニュアンスに齟齬も生ずる。
帆を折りたたんだり広げたりの、細やかな作業が必要とされる場面では、どうにももたつきが隠せない。
大回りでぎくしゃくとカーブを曲がっているその内側を、エイヴォン艇が抜き去ってゆく。
嘲笑の憎たらしいこと。
やっとの思いで直線に入った時には、2艇身ほどは差をつけられていた。
(ここからが勝負よ、ヒロ!いい風が来てる!)
風は向かっていた。
しかしヨットは向かい風でも前に進むことができる。
いわゆるクローズホールド、帆をいっぱいに張る。
そうすればヨットは風に向かって斜め45度で前進して行く。
川岸が迫っているし、そろそろ方向転換しなくちゃな……と思ったら、いわゆるタッキング。
逆方向の斜め45度へと進行方向を変えるのだ。
その間もセールは張りっぱなしなので、指示の出し方はシンプルで済む。
風の勢いが十分であれば、クルーの筋力でグイグイと大胆に帆をキープできる。
(これも鈍足艇を選んだ利点よね)
車で言うなら、パワステ無しのマニュアル操作なのだ。
最新鋭の高速艇ならば、補助具がいろいろと備え付けてある。スキッパーとクルーの意思に応える滑らかなコントロールを可能にしてくれる。
しかし古典的な漁船には、そんな便利グッズは一切存在しない。
時に強風に煽られ、あらぬ方向に持っていかれそうになるセールを引き戻し。
時に風の止み間に、しなしなと元気なく撓むセールに張りをもたらさねばならぬ。
押したり引いたりの単純作業ではあるが、これ全て人力による。
敵は船乗り……それはそのまま「力自慢」を意味するけれど。
こちらのクルーはユルとマグナム。その点では他を寄せ付けない。
逆に課題は、風が弱く、あるいは舞っているような局面。
セールの向きを細やかに調整しようにも、声を掛けたときにはまた別の風向き……では、素人にはどうにも対処できない。
その点、エイヴォン艇はスキッパーとクルーの3人が息ぴったり。
お互いに風向きと指示を予測しながら動いているから、弱い風でも滑らかに前へと進んで行く。
つまり。
カレワラ艇はスピード勝負の直線番長、エイヴォン艇はテクニック勝負のコーナリングマシンと。
スタートしてすぐ、両者の性格が明らかになった。
前を行くエイヴォン艇、カーブを利してこちらを抜き去ってからというもの、右側をキープし続けている。
レースは、逆L字の水路を時計回りに一周する。
したがって右側がいわばインコース、最短距離なのだ。
もうひとつ理由がある。
船というもの、万国共通で右側通行である。接触しそうになった時など、右側の船に優先権がある。左側の船は航路を譲らなくてはいけない。
(……のが、基本なんだけどね?)
(さよう。ルールをこちらに任せた愚か者を教育せねばなるまいて)
勢い良くはためくセールの音にも紛れようのない、含み笑いが聞こえてくる。
右から吹きつける風の勢いに乗り、強風と直線に強いカレワラ艇が左後方からエイヴォン艇に迫る。
向こうのクルーが叫び出した。
「スタボー!スタボー!」
何を?
(スターボードタック(右舷側から風を受け、帆を左舷側に張っている状態)を主張しているのでござるよ。「優先権我にあり、航路を譲られたし」。丁寧に言うならそういう意味にて)
じゃあ譲らないと……
(本当にスターボードタックの状況にあるかの判断って、案外難しいのよ。審判艇に周辺を遊弋してもらって判断するところだけど)
アリエルの言葉に、上空を見上げる。
このレースの審判は、ファンゾ出身で海と船を知る千早・ミューラー嬢にお願いしてあった。
周辺水域ではなく、グリフォンで上空を遊弋しながらの判定であるが……目は合ったものの、何も言ってこない。
(事前に説明したわよね?こういうルールにした理由を)
「スタボー優先」を筆頭に、ヨットレースのルールは、なかなかに複雑怪奇であった。
(地域ルールやハウスルールもあるしね?だからレースごとに取り決めを結ぶの。正直骨だけど、それもひとつの楽しみってわけ。ただ、ヒロにはちんぷんかんぷんしょ?実際フネに乗ってみないとわからないルールも多いし)
モリー老が、これ以上ないほどに愉快げな笑顔を浮かべたことを覚えている。
(さればアリエル殿、アレでござるか)
(そういうこと。カレワラとエイヴォン、「原点回帰」のレースなんだから。こないだピンクがガタガタ言ってたわよね?)
カレワラ家は湖賊だったとか、何とか。
レース前、取り決め――「ノールール」を「取り決め」と言って良いものか、「語義矛盾」という言葉に思いを馳せたものだったが――を見せられた千早、カレワラ側を威圧しつつ、ひとつだけ注文をつけていた。
「『ただし、殺傷行為にはペナルティが課される』。試合である以上、その一条を約束してもらわねば引き受けられぬ」
エイヴォンに見せていたのは、笑顔。危機感の無さに対する憫笑であった。
相変わらず千早も気がきつい。
その千早、俺と目が合ったのを機に上空から距離を詰めてきた。
ええどうぞ、しっかり判定お願いします!
エイヴォン艇に、左後方からラムアタック。
衝角なんか付いてない、漁船だけど。「体当たり」が正しいのかな?
しかし敵もさるもの。
衝突の寸前、さすが見極めよく帆を畳んでいた。
(チッ。帆桁(帆を下支えする横の柱)をへし折れば航行不能だったのに)
ここまで柄の悪いアリエルを見るのは初めてのことだった。
先祖の血が騒いでいるのか。
帆を畳んだために減速したエイヴォン艇を一気に抜き去り、こんどはこちらが前に出る。
引き離したつもりだったが……風がやや弱まり、再び少しずつ差が縮まる。
その差2艇身。怨嗟と悪罵の声が左後方から聞こえてきた。
その差半艇身となったところで、エイヴォン艇が大きく右に方向転換してきた。
仕返しするつもりのようだが。
甘く見てもらっては困る。ノールールと言った以上、こっちは本気だ。
この局面、なすべきことはただひとつ。
左に張り出したセールを堅くキープするようユルとマグナムに依頼した上で……。
右から受ける風圧とのバランスを取るため、スキッパーの俺は左舷に身を移す。
相手の船首に身を曝すことになるが、これは操船行為。
ルール(殺傷行為禁止)違反を故意に誘発する「非紳士的行為」ではない。
そもそもエイヴォン艇も「その気」でぶつかってきているのだから。
当たる寸前、身をかわす。
かすった……と称するにはやや痛い衝撃を身に覚えたものの、その甲斐はあった。
サッカーで言う「マリーシア」に引っ掛かったエイヴォン艇、審判の千早嬢に「その場で一回転」を命じられる。
これも事前取り決め……つまりはアリエルの作戦による。
普通のレースなら、「ゴールするまでに一回転すれば良い」らしいが。
(相手に都合が良いタイミングを選ばせちゃダメ!)なのだとか。
ルールを握る、握られる。
その差はあまりにも大きい。
(その権限を譲った時点で、エイヴォン家はカレワラ家の下風に立つと自ら認めたも同然。……当主たるもの、決して忘れてはならぬ)
(分かってると思うけど、南嶺に条約を持ちかけた意味もこれと同じよ?)
(一事が万事ってヤツか?家政や国政だと見えにくいが、勝負事なら刀術バカにもよく分かるぜ?……目の前の「一事」に集中しろってこともな!)
朝倉の叱咤に、状況を確認する。
後ろのエイヴォン艇に大差をつけ、前には折り返し地点が見えてきた。
よし!理想的な展開だ!
(どうするの、ヒロ!任せとけって言ってたけど……風も悪いわよ!?)
事前の検討でアリエルとモリー老は、「ここが最大の問題だ」と言っていた。
風が舞う中、セールをコントロールしてスムーズに180度回頭するなど、素人にできるわけないのである。
が。
できぬとて、やりようはいくらでもある。
いったん帆を畳み、減速しつつ。
「手前で折り返してペナルティ」にならぬよう、確実に折り返し地点を通り過ぎ。
タイミングが合ったところで……
「行くぞ!」
気合一声、櫓を腰で切る。ふたりが左舷で櫂を漕ぐ。
えっちらおっちら、大回り。
上空から「ぶほっ」と音が聞こえ、水しぶきが落ちてきた。
遅れてやって来た水筒代わりの竹筒が、ぽこんと脳天を直撃。
ラムアタックより痛かった。




