第二百二十九話 送別
「人数と時間の都合で、サシュアの湖を経由して帰ることにしたよ」
「磐森郷までお見送りいたします」と申し出た俺に対する、それがエッツィオ辺境伯の返答であった。
辺境伯領に向かうための港は、王都のほぼ真北にある。
直線距離にして、約400km。
陸路を用いるならば、王都から我が采邑・磐森郷を経由しつついったん北北東に向かい、そこから西を目指すのが普通だが。
王都からいったん東へ向かって重坂関を越え、サシュアの湖を北上してから西北西へ進むというルートもある。
陸路を行くよりも安全で早く、大人数の移動にも都合が良い。
「数年内に、また一度王都に寄ることになると思う」
その時にはぜひ……という俺の返答を、社交辞令にするつもりは無いようだ。
返って来たのは、率直な言葉。
「こちらからお願いしたいぐらいさ。しかし残念ながら今回は、こうして轡を並べる時間を取るのが精一杯というわけだ。……さて、話したいことはいろいろあるが。『今後は極東ではなく、西の辺境伯領が騒がしくなる』と、君はそう進言したそうだね?」
事実誤認ということではないと思ったけれど。
それでも、ひと言だけ。
「極東のメル家郎党の推理です。私はソフィア様にそれを取り次いだに過ぎません」
雄偉と称すべき兄・公爵閣下に比べて優雅さにおいて勝る横顔に、微笑が浮かぶ。
「忙しくなるのは結構なことだ。また人が集まる。兵を、士官を鍛えることができる。……しかし気になるのは、君のその正直さだ。『私の意見です』と、総領に、あるいはこの私に。アピールしても良さそうなものだが」
さすが「辺境伯」に任ぜられるだけあって、不敵なものだと思ったけれど。
総領・当主の恐ろしさを――人格の問題では無く、その地位の持つ圧力の重さという意味で――身に沁みて知っているはずの男とは思えぬ言葉であった。
「事実が露見した時、ソフィア様やアレックス様がどう思うか。それが恐ろしいのです。欺きおおせる気がいたしません」
「どこまでも正直なものだ。『嘘をつくなど、他人の功績を盗むなど、あり得ません』と、大上段に振りかぶるでもなし。『私を見損ないますか』と怒るでもなし。……では、仮に問おう。君がカレワラの当主として力をつけたとしよう。メル家は強大だが、領邦貴族だ。宮廷にある君には圧力をかけようもない。ソフィア様を恐れる必要が無くなった時、君はどうする?」
即答できる問いだった。
「機略を用いるべき場面でない限りは、やはり正直に申し上げるかと」
他に言うべき言葉など、思いつかない。
「『絶対に嘘はつきません』とは言わぬか。正直でもあり、臆病でもある……」
穏やかな微笑から一転、声が冷え込んだ。
「ゆえに、信用ならぬ」
少しずつ、そのあたりがわかるような、わからぬような。
そんな気になり始めていたところだったけれど。
……そういう考え方の、根っこにまで踏み込まれるとは思っていなかった。
「上層の多くが聖神教徒である理由を知っているか?」
それは、あまりにも意外な問いかけで。
「代々の家伝……と、もちろんそういう話ではないのですよね?」
正直、頭を抱えたくなった。
「天真会は助け合いの、相対性の宗教だ。隣人との関係の中に、己の居場所を作り信用を築き上げていく。軍人で言うならば、『同じ釜の飯』の友を助け、『塹壕で肩を並べた』友の死に怒る。その感情を尊重する、言わば兵のための宗教だ。……が、将軍は『同じ釜の飯』『同期の桜』すら捨て駒にすることが求められる仕事だ。そう言えば分かるかな?」
わかるような気はしたけれど、うまく言葉にできなかった。
「他人を理由にするなとおっしゃる?相対では無く絶対を意識せよと?」
「誰かのために」という理由ではなく、「正義や論理、あるいは利害といった観点で、そうすべきだから」という理由。
その名において行動することが求められているのですか?
……と、そういうことを言いたかったのだけれど。
「カレワラ家の当主となった時点で、『低きに甘んずる』ことが許されぬ立場になっているのだよ、君は。……兄や姉がいるわけでもない。友愛大隊の男達のように『許されぬ恋』に身を焦がしているわけでもない。君は『覆しようのない絶対的なもの』に苦しめられてはいないのだから」
昨年末、紫月城にコンスタンティア様をお見舞いに行く前に言い残した言葉。
その意味をエッツィオ様は教えてくれようとしていた。
「何憚ることなく振舞える者にとっては、相対的なものに過ぎぬ人間関係。それをあたかも『絶対のもの』のように捉え、他者との兼ね合いばかりに配慮している。それを脇から見るのは、歯がゆいものだ。親しい者であれば腹立たしさまで覚えるであろう」
おっと、これは我らの僻みかもしれんな、許せ。
と、ひと言つけ加えた上で。
「武人徴の件、私も聞いた。死んでしまえば郎党や聖上に多大な迷惑をかけると言うのに、そんなことには構いつけもしない行動だとは思わなかったのか?」
確かに、「あまりにも軽率」と非難されれば、反論のしようもない。
「わからぬならわからぬでも良い。……だが、それゆえにこそ、郎党がついてくるのだ。『上』が価値を見出し、友が信を置くのだ」
理屈の上では、どこか矛盾しているように思っていた。
だが実際、武人徴を経てからというもの、俺の信用や評判は上がっているのだ。
「兄もフィリアも、納得している。そうであろう?……が、私に言わせればいまだ足りぬ。大事なのは『それを維持できるか』『成し遂げられるのか』だ。何年かかろうと構わぬが、そこだよ」
ずっと我慢し続けてきた人だからこそ、か。
「私自身が、ずっと意地を張り通してきた男だからこそ、だ」
え?
「70年以上にわたりメル家を支え現在の繁栄をもたらしたゴッドマザーに何を言われても、貫いたことがある。私を育ててくれた祖母の別れ際の頼みであっても、断った」
コンスタンティア様の、末期の願いでも!?
エッツィオ辺境伯、「我慢の人」ではないのか?
「『人間関係が、友誼が、社会性が大事だから』という理由だけで動く者に、私が共感を覚えることはない」
何をどう言えば良いかわからずにいる俺に、それでもエッツィオ様はフォローを入れてくれた。
「武人徴の件を聞いていなければ、この話をすることもなかっただろう。半ばは認めたということさ。君の行動は誇るに足るものであった」
では!
男爵閣下に重坂関の外まで見送りをさせるなど、あってはならぬことゆえ!
その言葉と、混乱する俺とを置き去りにして。
エッツィオ辺境伯閣下は、颯爽と坂を下って行った。




