第二百二十四話 武人徴(ぶじんだめし) その3
(よう)
ここは……女神の小部屋?
どうやら、また死なずに済んだか。
(今度ばかりは、やばかった。だがな、ヒロ。得物を手にした男は、一度は必ずこの境地に至るんだ。「死線をくぐる」ってヤツさ)
くぐり損ねたら?
背中を見せたまま、鼻で笑いやがった。
……死ぬだけのこと、か。
(理非善悪じゃない。その意味も分かっただろう?お前は飛び込んじまうんだよ。お師匠さんってのはよく見てるもんだ。……そこのちんまい女神の影響かもしれねえけどな?)
よせよ朝倉。
それだけは認めたくない。
(嬉しかったぜ、俺は。何せお前は、武人にしちゃあ沸点が高いと言うか、しんねりむっつりねちこすぎると言うか。……覚えてるか、塚原先生の言葉、ほれ)
ああ。
「踏み込む勇気と共に、引く勇気も必要だ。共に知ったその上でなお、踏み込めるか、否か」
(「共に知ったら、踏み込まなくなる。踏み込めなくなる」。俺はお前を、そういうヤツだと思ってた。こっちの世界に来る時は、何も背負ってない若僧だった。だから飛び込めた。来てからしばらくは、ガキと一緒さ。何も知らないから、飛び込めた。だけどよ?偉くなって、背負うもんも出来て。それでも飛び込むヤツは……)
続きを遮ったのは、腹の底にずしりと響く叱咤の声。
(バカって言うのよ!)
アリエル……済まん。
(謝るな!分かってるわよ。あたしだってバカだったんだから。武術じゃないけど、選んじゃいけないほうの道に踏み込んで行っちゃった。迷わず踏み込んで、……その後は迷った上で逃げ出して。どっちも間違ってた!)
聞こえてきたのは、野太い笑い声。
(女々しいぞ、アリエル。ヒロはもう踏み込んじまった。で、くぐって見せた。自分の力じゃない、俺たちの力を合わせても足りなかった。ただの幸運かもしれんが、とにかく生き残った。生きてりゃ勝ちだ。それが全てなんだよ。試練に勝ったんだ、ヒロは。俺たちは!)
武人という生き物も、大概だと思う。
命を賭けて、失敗したら「死ぬだけのこと」。成功すれば高笑い。
達人の域にある朝倉にして、これだもの。
(力足らずとも踏み込まざるを得ぬことはある。幸運に期待せざるを得ないこともあろう。が、何の策もなく二度目に期待するうつけ者になど、某は協力できぬ!)
分かってる、モリー老。
やっぱり俺は、純粋な武人にはなり得ない。
(それはひどいぞ、モリー。ヒロが飛び込んだおかげで、千早ちゃんは助かったんだぞ)
(そうよモリー。あんた、千早のお祖父ちゃんなんだから。恩返しのためにも最低あと一度は、ヒロ君を助けなくちゃ)
大丈夫だよ、ヴァガン、ピンク。
モリー老はそういうことを言いたいんじゃない。
つくづく理解したさ。
俺は、武人としては半端者だ。
だがな?
(本気で分かってるみたいだな、ヒロよ?なら、俺からはこれ以上言うことは無え!)
(ちょっと、ヒロ君?どうしたの?やだ何、その怖い顔)
そういうことだ、好奇心の女神!
早く「小部屋」の床を開けろ!
どうした?どうせ試合はもう終わってるんだろ?
ジロウはビビリションどころかビビリ糞してるぞ?
って……。
この床の濡れ……。
おま、女神のくせにエルキュールに、人間にビビッてどうすんだよ!
(うるさい!あっち行け!)
おい、おかしなタイミングで床を開けるな!
ほら、体を叩きつけちゃったじゃないか……
何だ?息ができない?
腹が、胃が痛い!胸が、肺が痛い!鼻も詰まってる……。
「御免!」
今度は背中!?
ぐほっ!
ぐは、ぐえっ。おえええええ。
かはっ。
やっと息ができる……。
目の前は、ひどいことになっていた。
吐瀉物に涙、よく分からない体液に血反吐まで。
ああ、鼻血のせいで息が詰まってたのか……。
って、これ。
出ちゃマズイ鼻血だろ。
何か上の方から出てる。どろりとしてる。
目とか脳とか、そっちから来てるんじゃ……。
軍服もあちこち破れていた。
だけど。
「生きてる!そうだな!?」
跳ね上がりざま、叫んでいた。
口と喉に貼り付いていた鉄臭いものや酸っぱいものを、目の前の壁に向かって飛ばしながら。
「無事なようで、何よりだ」
壁と思ったのは、メル公爵閣下であった。
年相応の広さを見せる額に、青筋を立てている。
「これは、失礼を……」とでも言うべきところだったけれど。
そんなことを口にする気は、まるで起きなかった。
公爵の目が、猛禽の鋭さを帯びていたから。
「言え!貴様なぜ、何を為すべく、死線から帰って来た!」
メチャクチャに響き渡る声。
この気配……貴顕は退出したんだな?
ならば遠慮も不要。
「倒す、いや、殺す!エルキュールを!」
斜め前から、寂びた……しかし低く力の入った声が聞こえた。
「何ゆえか。エルキュールに何の罪やある?」
やはり叫び返す。
「罪は無い……いや、存在が罪だ!あいつがいては、千早が死ぬ!アレックス様を殺しに行く!」
「本気で剣を交えれば、相手の本質が分かる」……朝倉は以前、そんなことを言っていた。
俺も初めて理解できた。
あれは、純粋の武術バカだ。
子供のまま、大人になってしまったんだ。
それだけなら、罪は無い。
「東方三剣士と死合いする」と宣言したとしても、それは剣士の宿命。俺も受け容れる。
だがあいつは、エルキュールは。
「素質において三剣士にも勝る天才だから」というそれだけの理由で、千早とアレックス様をも、武人としてしか見ていない。
政治家を、領主を殺してしまえば。システムではなく人に依存するこの社会が、どうなるか。
それがまるで見えていない。
セレモニーにして王国の儀式と言える、指導試合で。殿下と陛下の御前で。
本物の殺気を放出するなんて。
エルキュールの殺気を食らえば、「心得」無き者は、近くにあるだけで死んでしまう。
俺が生き残ったのは、塚原先生から幾度も殺気を飛ばされた経験があったから。
本気ではなかったにせよ、あいつの気当たりを受けた覚えがあったから。
エルキュールは、陛下と殿下の命を危険に晒したのだ。
王太子殿下の侍衛の地位にありながら。
そこまで周囲が見えないか?
王国一の武人と讃えられ、宮廷にも出て、人の世で生きていながら。
社会ってものをまるで理解しようとしていない、いや理解できていない。
死んでもらうしかない。
いや、俺が殺す。
千早とアレックス様を守るために。
俺の他に、いないんだ。
今後数十年、極東での大戦は無い。跡継ぎのベリサリウスも得た。
アレックス様は、メル家にとって「不可欠の存在」とは言えなくなった。
千早はメル家から見て「他人」。守ってくれるミューラー家も、いまだ力不足。
そして人間離れした「天才」を斃すためには、大きなコストが掛かる。
例えば李老師を殺そうと思ったらいくら掛かる?優秀な人材を何人犠牲にする必要がある?
エルキュールは、李老師の遥か上を行くのだ。
損益分岐を大きく超えるようであれば、「エルキュールの狙いは、アレックスと千早だけだろう?ならばふたりに死んでもらおう」と考えるのが「家の論理」。武家はその点、ことにシビアだ。
ソフィア様の感情がどうあっても、そうせざるを得なくなる。
いや。そんなもの、後付けの理屈かもしれない。
飛び出した時点で、あるいは殺気を受けて生き延びた時点で。
決めてしまったんだ。
俺しかいないと。
エルキュールは、俺が斃すと。
「勝てんのかよヒロ。お前に」
寂びた声を発した男の隣から、聞き慣れた声。
キュビ侯爵の側に立つ、エドワードだった。
「勝てるわけがない」
分かってるだろう?
勝つ負ける、武術の試合じゃないんだよ、エドワード。
もう一度言うぞ。
今ここにいる人々の前でならば、何度でも。
「殺すと言っている」
武人としては半端者でも、武家の男として。
俺が殺す。
「けっ。俺の前で、キュビを目の前にして、よくも言いやがる……が、安心したぜ。お前は武家だ、ヒロ。ようやく確信が持てた」
なんだエドワード?
その嬉しそうなツラは!
笑ってられるのは今のうちだぞ?
「両大隊長殿におかれても、確認したくて問われたのでありましょう?」
そちらも殺る気になったはずだ。
協力してもらうぞ?
何をどうしたら良いかなんて、まだ全然分からないけれど。
目途が立ったら、全面的に協力してもらうからな?
「いやらしい言い様ですね?またいつものヒロさんに戻ってしまいましたか?」
ああいや、その。
「ありがとう、フィリア、千早。後ろから霊気の助けがあったから、生きていられた」
その千早が、ようやく兜を取った。
怪我はなかったようだが、彼女の顔も青褪めていて。憔悴の色は明らかだ。
「感謝を申し上げるべきは、某にござるよ。命拾いいたした。しかしヒロ殿は鎧もつけず……まことにかたじけない」
「ええ、ヒロさんが前に出てくれたおかげで、霊気の展開が間に合いました」
フィリアと千早と、お互いを守った。
「これはお邪魔したかな。……今後必要な話は、エドワードを通じて頼む」
口にしつつエドワードの肩を叩き、キュビ侯爵が背を見せた。
緩やかな歩みぶりであるのに、みるみるうちに遠くなる。
その体捌きに目を奪われ、しばし茫然としていると。
「近衛大隊長としてヒロ・ド・カレワラ小隊長に命ずる!わしと共に、陛下への報告をせよ!」
襟首を捕まえられた。
半死半生の目に遭った直後では、抵抗する力も残ってはおらず。
そのまま大股で、いや、ほぼ走るようにして鍛錬場を後にする公爵閣下。
……降り注ぐフィリアの霊弾から、身をかわしながら。
「あの空気、許せぬ。それだけのことよ」
そんな雰囲気でしたか?
「ようやく武家の男になっても、武家の女は分からぬものか」
え!?
ほんとうにそんな雰囲気だったのか、それも気になるところだけれど。
「武家の女、ですか?」
アエミリア様は王室の末端ご出身。
第二夫人は、宗教家(天真会の出家)であったと聞いている。
亡くなった第三夫人は、「家名無し」であったはず。
……そのほかに「武家の女」?
「どこに食いついておるか!……アレックスめ、面倒な男を送り込みおって!貴様はもう少し武家らしく、阿呆になれこの馬鹿者!」
ようやく解放され、向かい合ったメル公爵。
苦笑いと称するには豪快な……しかしやっぱり苦い笑いを浮かべていた。
「『試練』をくぐった、大の男なのだから!」
 




