第十六話 悪霊 その1
「また来たの?」
声が聞こえた。
そちらを振り返ったが、女神の姿は無い。
「どこだよ!」
どうもこの女神と対面すると、イライラさせられる。思わず声が荒くなった。
「私だって、いちおう神なんだけど。そんなヒドイ顔で謁見しようなんて、厚かましくない?」
すっと、鏡が現れた。
そこに映るのは、吐瀉物に汚れ、恐怖に引きつった顔で、両目を見開いた、俺。
……両手は血まみれだ。
背後に何かが映っている。うごめき、近づいて来る。
体が動かない。振り返ることが出来ない。
それは肩の上に現れ……鏡の中の俺と、目が合った。
先ほど切り捨てた、幽霊だった。
「あああああああ!」
叫び声が口を突く。
とたんに、鏡も幽霊も消え去った。
女神が現れる。「ドッキリ大成功」と書かれた看板を手に持って。
駄女神が。日本でしょうもない情報を入手しやがったな。
「なんちゃって~!!驚いた?ねえいまどんな気分?こないだの無礼の仕返しですぅ~!」
こいつは!
いつもいつも!
人が真剣に悩んでいるときに!
飛び掛ろうとする機先を制するように、女神が口にする。
「この空間に来ているのは精神だけだ、ということぐらいは分かってるよね?ヒドイ顔をしていたのは、本当だよ?」
思わず動けなくなる。
「あんまり教えても面白くないから、一つだけ答えてあげる。君が霊能を得たきっかけは、臨死体験と幽体離脱によるものです。私からのギフトによるものではございません!」
「じゃあね!」
あるのだかないのだかも分からない、床が抜ける。
毎度毎度、落とされるのは気分がいいものじゃあないんだけど。
目が覚めた。
両手を見返す。血はついていない。当たり前か、幽霊だ。
そうだ、俺が斬り殺したのは、幽霊だ。
いや、殺してない!殺してないんだ!斬っただけだ。幽霊なんだから!
震えが止まらない。
再び、酸っぱいものがこみ上げてくる。
うげえええええ。
出すものを出したら、少しは気分がマシになった。
ウォルターに、抱き起こされる。
「ヒロ、ありがとう!マチルダに向かってきた霊を、退治してくれたのだろう?」
俺の目をまっすぐに見据えて、強い口調で言う。
「君のおかげで、マチルダの命が救われたんだ!」
おもはゆいが、どうやら落ち着いた。体の震えも止まった。
フィリアが、千早が、近づいて来る。
アリエルにハンスにジロウも、こちらにやってくる。
どうやら俺が切り捨てた触手は、苦し紛れの最後の反撃だったらしい。
悪霊はとりあえず、川の中へと帰って行ったようだ。
ざっと点検を終えて後、船長室で事情を聞かれる。
マチルダが狙われていたらしいこと、狙っていたのは悪霊であること。
船長からも説明があった。
十数年前。王国がサクティを制圧し、湖城イースを確保して、数年経った頃。
最前線がギュンメルに移り、しかしウッドメルはまだ、彼らの言う「北賊」の占領下にあった頃。
このあたりで、貨客船が北賊の襲撃を受け、沈没したのだそうだ。
死者・行方不明者は合わせて数百人。
以来、夜になると、霊能を持つものには悪霊が見えると言われ続けてきた。
「……時々、行方不明になる客が出る。寝ぼけたか酔っ払ったかして、川に落ちたのだろうと、そう思われていたんだが……。悪霊の噂は、本当だったんだな。」
船長が、己を励ますように、声に力をこめた。
「乗客の安全は、船長である私が責任を負うべきものだ。そちらのレディを救助してもらった件については、感謝する。今後も力を借りることはあるかも知れないが、今夜は乗組員で見張っておく。皆さんに安心してお休みいただくのは、私たちの務めだ。」
事情聴取からは解放されたが、それで終わりというわけにはいかない。
ウォルター夫妻の部屋に、全員で集まる。
怖がらせては悪いとも思ったが……。そういう段階は通り越している。
マチルダの足元が濡れていたことを、二人に伝えた。
今も濡れている。
「どこかで『魅入られた』ということでござろう。」
「浄化してみます。」
精密にコントロールされた光線が、マチルダの足首を伝う。
「どうです?」
目視のできる、俺にたずねる。
「だめだ。いっときは乾くけど、またじんわりと濡れてきている。」
「元凶を浄化するより他にない、ということでござるか。まあ、分かりやすいとも言えるでござるな。」
「マチルダさん、どうかご安心ください。必ず治療いたします。」
「そのためにも、敵の正体を知る必要がござるな。……ヒロ殿?」
思わずマチルダを見てしまった。怖い目に遭った人の前で言って良いものだろうか。
「私は大丈夫です。これでも武人の娘として育った、武人の妻ですから。」
その言葉に励まされ、説明を始めた。
海坊主のような形をしていること。
二本の触手を持ち、一本は太く、一本は細い触手の集合体であること。
複数の人間の霊の集合体であること。
本体は、なにやら融合してしまっていて、人格を持っていないこと。
これは情報ではないけれど……絶対に浄化しなくてはいけない、ということ。
悪霊のおぞましさを思い出した。
そして、切り捨てた触手に浮かんでいた、無念の顔を。
うっ。
再び震えが起こった。
「ヒロ殿?」
「霊障ですか?」
「いや、違う。大丈夫だ。思い出しただけだ。」
「霊の姿が見えるのも、時としてつらいものでござるな。」
「それほどおぞましく、哀れな霊でしたか……。」
「ああ、そのとおりだ。あれは絶対に浄化しなくてはいけないんだ。」
その思いは、変わらない。やり遂げてみせる。
覚悟はできているはずだ。それなのに、何で体の震えが止まらないんだ……!
「今夜はもう遅い。明日の晩に備えて、寝ておくべきだ。続きは起きてからにしよう。」
ウォルターが口を挟む。
「今夜は、二人にマチルダのことを頼みたい。ヒロには話しておきたいことがある。」
「しかし……」
震えが止まらない俺を見て、フィリアと千早が口を出そうとする。
その二人の前に、アリエルが立ちふさがった。
「夫に任せてはもらえませんか?」
マチルダも、外に出るようにと二人を促す。
背後で、部屋の扉が閉まる音がした。