第十五話 川旅 その4
「起きろ!」
ハンスに声をかけられて、目が覚めた。
早速、変事が起きた模様。
今晩気づかなかったらどうなっていたのかと思うと、ぞっとする。
すでにジロウに起こされていた、フィリアと千早の後を追う。
アリエルは先行している、とのこと。
ジロウの案内に従い、甲板に出た。
すぐに、マチルダとアリエルの姿が、目に飛び込んでくる。
良かった。大した時間を取ってはいなかった。
マチルダの動きが鈍かったのも幸いした。
夢遊病者のようだ、と言えば良いのだろうか。マチルダは眠ったまま、ゆっくりと歩いている。
相変わらず、その足元は濡れていた。
だが、昼や夕食時とは異なり、その足元を濡らす水は、船べりへと続いている。
いやな予感がした。
即、千早を先頭に、俺、フィリアの順で、マチルダの前に立つ。
「ハンス、マチルダさんが前に行かないように、押さえていてくれ!」
「ハンス殿、こことここを、こう押さえるのでござるよ。」
「くれぐれも変なところを触らないようにしてください。」
「さすがにそれぐらいの空気は読むって!って言うか、俺、そもそも貨幣以外、実体には干渉できないじゃん!……しかたない。これか!気持ち悪っ!」
霊体には干渉できるハンス、マチルダの足元の水をふりほどこうと、悪戦苦闘している。
「ハンスあなた、どれだけ信用ないのよ。踏ん張りなさい!ここが男の見せどころよ。」
千早のやや斜め後ろに立ったアリエルが、双剣を抜き放つ。
ジロウがアリエルと並び、うなり声をあげる。
「ヒロさん、指揮を頼みます!」
そう言い放つや、フィリアが詠唱を始める。
これは明らかに、鍛錬棒マターではない。
俺も山の民・「大猪」からもらった鉈を構え、「『はぐれ』のかぶと」の緒を締めた。
「来るでござる!」
千早が叫ぶや否や、大きな腕……の如き何物かが、鞭のようにしなりながら、襲い掛かってきた。
「かあっ!」
攻撃を入れようとしていた千早だったが、その寸前で、予定変更。体を斜めにした。
いなすような動きで、腕……というよりは、触手状の物。
その表面を滑るように移動していく。
「ここっ!」
当初の狙いよりも、やや根元に近い部分に、拳を叩き込む。触手が跳ね上がる。
「承知!」
フィリアが光弾を放った。千早が当初攻撃しようとしていたポイントに向けて。
二人の攻撃により、触手は大きく跳ね上がり、バランスを崩した。
ねじれてひっくり返るようにして、甲板に叩きつけられる触手。いったん水中へと退却する。
やや左方からも、触手の攻撃が襲来していた。
こちらは太い一本ではなくて、細いのが何本も、という状況であった。
根元では一本につながっているように見えるが、何しろ暗いので正確なところは分からない。
触手を見ている限り、俺の目からは同時に襲来しているようにしか見えないのだが。
双剣で順に切り落としていくアリエルのほうを見ていると、触手が攻撃してくるタイミングには、それぞれ違いがあるようだ。
足並み(手だけど)の違いを、アリエルが的確に突いているということが分かる。
たまに、やや搦め手というか、少し嫌な角度から攻撃してくるヤツもいる。そちらはジロウが捌いていた。
しかし、なんと言っても暗闇の中。船に備え付けの明かりだけでは、よく見えない。
「フィリア、上空に光球を打ち上げてくれ!」
詠唱の時間が短かったということは、恐らく威力は小さいのだろう。しかし光量は相当なもの。
周囲が一気に明るくなる。
水中にいる何か。
その姿が明らかになった。
「生物ではないでござるな。」
「ええ、悪霊ですね。」
霊の姿をはっきりとは認識できない二人。その分だけ、「霊なのか実体なのか」という区別は明確につけられる。ぼんやりしていれば霊なのだ。
俺もその姿を目にしたのだが……。
姿をはっきり認識できるということは、時として非常にキツイものなのだということを、改めて感じざるを得なくなった。
あれは、複数の人間が合わさったモノだ。
海坊主のような本体。すでに人格など溶けてしまったのか、どろどろした半固形のどす黒い何かに成り果てている。
しかし。
その本体の周縁部からは、複数の人間が、溶かされていない半身を精一杯に伸ばして、助けを求めているのだ。
うえええっ。
浮かばれぬ霊には申し訳ないが、こみ上げてくるものには抗えなかった。
「ヒロさん!?」
「悪霊にあてられたでござるか!?」
「いいから、攻撃を!」
そういうのが精一杯だった。
あの霊は、早く解放しなければ。
社会的義務なんていう難しい理屈はいらない。とにかくできるだけ早く。
再び、太い触手が襲い掛かってきた。
今は明確に分かる。これは、あの悪霊の本体とつながっている。
再び千早が打撃を加え、触手を跳ね上げる。そこにフィリアが追い討ちの光弾を撃ち込んで、触手を甲板に叩きつける。
二人の戦闘系女子は、初見で「ハメ手」を見つけてしまったようだ。
太い触手は、苛立ちを思わせる不可解な動きをしながら、再び水中に戻って行った。
甲板に伝わる衝撃に、船員が駆けつける。
霊能を持つ船客も、フィリアの照明弾の光に目が覚めて、飛び出してきた。
マチルダの姿がないことに気づいたウォルターもいた。
こうなれば、だいぶ楽である。
手数に勝る細い触手に対して、浄霊師が数人、威力は様々ではあるが、光弾を撃ち込んでくれる。あるいは攻撃に、あるいは牽制に。
船員は何かを持ち出して、それを甲板に振りまき始めた。触れた触手が痛そうにしている。
ウォルターはマチルダに駆け寄り、その体を確保。
これでひと安心だ。
そう思ったのがいけなかったか。
アリエルとジロウの攻撃をかいくぐった触手が一本、マチルダの方に向かって行く。
駆け寄って、鉈で触手を切り落とす。
鍛錬の成果か、鉈の切れ味のおかげか、スパッと行った。
迎え撃とうとした触手が、こちらに向き直るも、すでに遅い。
こちらに無念の顔を向けた触手。
切り落とされ、悶えている。
そう、細い触手は、まだ完全に融合しきれていない悪霊……人間の幽霊、であった。
切り落とした俺のほうが驚いた。叫び声を上げ、体のバランスを崩し、ひっくり返る。
また頭を打ちつけたか。
意識が遠のいていった……。