第百九十九話 なほあまりある その3
王室居住区画を歩き回るようになって、すぐのこと。
ひとりの老人をしばしば見かけるようになった。
結構なお年のようで、「矍鑠」とは行かないけれど。
それでも、足元はまずまずしっかりしていて。
ただ気になるのは、身なりと言い居住地と言い間違いなく貴族であるのに、いつもひとりで歩いていること。
従僕なり侍衛なり、連れていなければおかしいのだけれど。
「その方でしたら、ハサン殿下ですね。家名はありません」
イサベルから教えてもらって、驚いた。
「家名が無い……王位継承権を放棄していないんですか!?」
しかし次の言葉を聞いて、その驚きは倍増。
「もちろん、王位を継ぐことなどありえません。継承権の順位はかなり低いですし、お年から言っても無理ですから。90歳を越えていらっしゃるはずです」
90歳越えということなら、毎日散歩しているだけでも「矍鑠」だ。
しかし驚異とは、そのことではなくて。
我が脳内は、大恐慌に陥っていた。
(ハサン殿下だったの!?まだ生きていらしたなんて!確か94歳になるんじゃない?)
アリエルは、もし生きていたなら、102歳……だったっけ?
追放されたのは82年前(?)だから、当時ハサン老は12歳。
生前のアリエルを知っている。
(ええ、磐森にもよく遊びに来られて。親しくさせていただいたわ)
ハサン老は、アリエルの幽霊に気づいていなかった。
高岡のサム老人とは異なり、まだ魂が体にしっかり定着している証拠だ。
ともかくアリエルの知り合いであれば、挨拶をしなければ。
話を聞きたい。
目の前に立った少年の影に気づいた老人が、顔を起こす。
「ハサン殿下でいらっしゃいますか?従五位下・近衛小隊長のヒロ・ド・カレワラと申します。アリエルの孫です」
俺の儀礼はアリエル仕込み、80年前の古式ゆかしいもの。
記憶を呼び覚まされたものであろうか、老人の体にめきめきと力が入り、身体が伸びる。
満足してもらえたかなあ?
「(共通の知り合いからの)紹介も無しに、何じゃ貴様!」
叱られた。
「まあ良い。で、何だと?男のくせに蚊の鳴くような声で!」
声が小さいんじゃなくて耳が遠いんでしょ……なんてことを言っても仕方ないので、声を張り上げる。
「従五位下! 近衛小隊長の! ヒロ・ド・カレワラと申します! アリエルの! 孫です!」
老人の目が驚きに見開かれる。
懐古の言葉でも出るかと思いきや。
「アリエルの孫なら、最初から堂々とせぬか!まるで似ておらん!」
記憶がある人からすれば、当然のひと言だ。
俺の顔は、薄い。
アリエルの顔は、濃い。イロモノ系だが、イケメンには違いない。
(ま~、偉そうなジジイになっちゃったわねえ。昔は愛らしい王子様だったのに。あたしの後ろを付いて回って)
当のハサン老人は、じっとこちらを睨んでいる。
丸顔の頬が膨らんでいる。愛嬌があると言えなくもない。
やはり、気づかれたのであろうか。本当はアリエルの孫ではないと。
……などと、後ろめたさを感じたりもしたのだが。
そんなことはなかった。
王族にして、老人なのだ。勝手の強さは累乗されている。
こちらの都合などに構っているはずは無いのであって。
「いつまでワシをこんなところに立たせておく!近衛のくせに、気が利かぬ!家に帰るゆえ、随伴せよ!」
言い捨てて、馬に近づいて行く。
蹴られでもしたら一大事ゆえ、丁重に馬の背に押し上げる。
大丈夫かなあと、こわごわ見上げてみれば。
またも、こちらを睨んでいて。
「陛下の近衛、それも小隊長ともあろう者が、馬子の如き振る舞いをするな!」
「随伴せよ」とは、「世話をしろ」とかそういうことではなく、言葉通りの意味。
ハサン殿下と馬を並べて歩めと。
馬の手綱を改めてピーターに預け、俺は殿下の横に付く。
乗馬は身体が揺れるし、殿下の負担にならなければ良いのだけれど。
そんなこちらの心配をよそに、ハサン殿下は真っ直ぐ背を伸ばして前を見ていた。
随伴せよと言った割には、一言も話しかけてこない。
近隣の王族……ではないな。その使用人達がもの珍しげにこちらを見ているのにも、一切目をくれぬ。
いや、さすが王族、凛々しいものだ。
(バカねヒロ。フィリアちゃんだって話しかけてくるでしょ?随伴させたからには、会話があって然るべきなのよ)
(さよう。必死なのでござるよ、ご老人)
ヴァガン、頼む!
(「ゆっくり、静かに」だな?馬に頼んでおくぞ)
いくら元気だと言っても、90過ぎの老人の散歩コースだ。
ハサン殿下の自宅は、数百mも行かないところ、表通りから少し入ったところに建っていて。
そっと慎重に、下馬の介添え。
「ご苦労!」
その大音に応えるべき、出迎えの小者の姿は見えなかった。
庭先からハサン殿下がゆっくりと歩んでゆく。
その先にある建物から、人の気配は感じられず。
「ごみ屋敷」や「廃屋」とまでは言わぬけれど。「荒れている」ことは明らかで。
しかしそちらに意識を向けること自体が、若者のせっかちさ。
途中にある、少し大きな石。
ふらつくように、老人が腰を下ろしていた。
建物まで見送らなくては。
そう思って数歩踏み出した俺に、しわくちゃのお顔が向き直る。
「近衛が何をさぼっておる!早く王宮に帰らぬか!」
家の中を、見せたくないのかもしれない。
でも。放っておけない。
「殿下、本日私は非番です」
嘘をついた。午後からは、勤務シフトが入っている。
何か事件があるわけもないので、ただの待機に過ぎぬけれども。
アカイウスが頷きを見せ、去って行く。
昼には、午前の仕事を終えた小隊長仲間が近衛府に戻ってくる。それまでに連絡を入れておけば良い。誰かにシフトを肩代わりしてもらえる。
「殿下は磐森郷の野趣をお喜びであったと、祖父アリエルからは伺っております。野点はいかがでしょう?」
嘘に嘘を重ねた。
俺は、アリエルと直に接してはいないことになっている。
そんなことはどうでも良い。
返事を待つつもりも無かった。
「お邸に着いたら、従僕か執事に渡そう」と思っていた、お茶とお菓子。
その場で広げる。
「野点などと仕掛けにこだわる割には、大したことが無い茶菓だの」
憎まれ口を叩く老人の顔には、血色が戻っていた。
さぼった手前、すぐに戻るわけにも行かず。
馬蹄の音がゆっくりと響く都大路に吹く風は、ちょうど良い涼しさで。
「年老いたあるじを残して先立った従僕の気持ちは、いかばかりでしたでしょう」
つぶやいた少年には、半ば寝たきりになった祖父の世話をした経験がある。
「殿下に何が必要かまとめておいてくれるか、ピーター」
「『物』ではなく『人』かと存じます、マスター」
難しいのだ。
「介護サービス(ビジネス)」という概念の無い社会。
いや、介護に限らず「身の回りの世話」を行うのは、家族か従僕郎党かであって。
それは、一対一の信頼関係に基づくもの。
長生きしすぎると、個人的な信頼関係を結んでいた者や、その子孫にまで先立たれてしまう。
個人的な信頼関係に基づくものであるゆえに。
例えば「身の回りのことは自分でできるから、しばらくハサン殿下付きになってくれるか?」などと俺がピーターに言うことは、許されないのだ。
二人の人間に付くことを命ずるのは、従僕に対する侮辱行為だから。
ハサン殿下とて、そういうやり方には納得すまい。
気丈でもあり、作法に故実、典拠や礼儀にうるさい人なのだから。
故実と言えば。
俺がアリエルの孫だということ、一切疑わなかったな。
家紋を見せたわけでもないのに。
(疑うなんて発想を、最初から持っていないのよ。政治向きではないけれど、若くても貴族の中の貴族だったわ)
直の知り合いである、名人アリエルの評である。
当たっていないはずもなく。
ハサン殿下は、孤影寂しき老耄の人では無かった。




