第百九十九話 なほあまりある その2
ナシメント邸の前に立っていたのは、見慣れた姿。
「紳士たる者、淑女のために汗をかくのは当然の義務だ」とは言うけれど。
少々その、まめまめしいにもほどがあるとは思わないか?
なあ、シメイ・ド・オラニエ卿?
「らしくもない、立派な論文だとは思っていたけどさ?」
「政治は結果責任だよ、ヒロ君。意図・目的など関係ない。結果が全てを正当化する」
意図を隠すつもりも無いと来た。
そして君も相変わらずひょろ長いな、従僕のフリオ・カビオラ君よ。
まあともかく。
「こちら、極東土産。サクティ・メル名産の茶葉だ」
茶箱に回された長い腕が、硬直した。
おうこら、農産品だぞ?
田舎だからってバカにする物じゃないだろ!
「こちらでは格調高い香りを『聞く』ものらしいが、極東では味を楽しむ。たっぷりの茶葉にお湯を注ぐんだ。経験が無いだろうから、教えておくがね?」
「これはありがとうございます。みやこでは、優美な茶壷に入った葉をいただくばかり。このように素朴なお土産は初めてで、つい腕に力が入りました」
「変わり無いようで何よりだ!」
「閣下におかれても」
通された応接室は、やはり少々寂しさを感じさせるところはあったけれど。
椅子に座って感じられたのは何よりも、「おさまりの良さ」。
調度に什器、窓からの眺め、テーブルの上の花。
その全てが、「そうあるべき」調和の中に包まれている。
特に良いのが、壁に掛けられた絵。草むらからひょいと顔を覗かせたウサギ。
人間と不意に顔を合わせて、驚いてでもいるかのようで。
その姿の、なんとも言えぬ諧謔味と来たら。鼻のうごめき、耳の震えまで見えるような気がした。
「やはりそれに目が行くかい、ヒロ君。イサベル嬢のご父君が、お手ずから描かれたものさ」
「『政治は結果責任』か。ああ、納得だよ」
ただイサベルを口説くだけの目的で提出した論文というわけでもなさそうだ。
王室には文化人が多い。最低限の余裕まで奪ってしまうのは、やはり社会的損失であろう。
「この絵画が、僕の論文に説得力をもたらしてくれたんだ」
シメイが珍しく力の籠もった目を見せたその時、ドアが開いた。
少女と言うにはかなり大人びて見える、優美な令嬢が歩み入る。
応接室のさびしさまでも「そうあってこそ、調和がとれる」と錯覚させるほどの華やかさ。
「フィリアさんに千早さん、それにヒロさんも!お久しぶり。シメイさんも、ここのところありがとうございます。先日のお酒、父が喜んでいました」
シメイがきりりと立ち上がる。
この日ばかりは、間違いなく近衛の小隊長。
「きょうは報告があってやって参りました、イサベル嬢。例の論文ですが、聖上のお目に届き、採用されました!」
絵がもたらしたのは、説得力。
論文執筆の動機と情熱をもたらしたのは、やはり、その。
「また別の何か」であると言うにとどめよう。
「まあ!おめでとうございます。たいへんな名誉なのでしょう?」
「王族の皆様の『みやび』、そして陛下の聖徳によるものです。私の論文は、ふたつを結ぶきっかけを作ったに過ぎません」
「ご謙遜を。親しくお付き合いいただいている父も喜びますわ」
猫を被って化かしあう、シメイとイサベル。
この場にレイナがいたら何を言い出すことか。
「いえ、私よりも、同じく採用されたヒロ君の論文こそ。極東で過ごし、ここまで旅をしてきた経験に裏打ちされた、堅実な提案でした」
ここで俺を「サゲる」ことで点数を稼ごうとしない。2人だけで会話をやりとりすることも避ける。
そういうところ、シメイもやっぱり貴族なんだよなあ。
はいはい、出されたパスには応えますよ。
「私の論文は、軍に関するもの。淑女の皆様には、退屈な内容です。やはりシメイ君でしょう。力強い論調でした。そちらの絵に支えられたと教わり、得心したところです。これからも王室の皆様には、文化活動に打ち込んでいただきたいものです」
アシストすればよろしいんでしょう?
でもさ、俺としても。訪問には理由があるわけですから。
ひと言、挟ませていただきました。
「父の絵をお気に入りいただけたようで何よりです。近頃は絵を描くのも思うに任せないと、少し塞ぎこんでおりましたので」
俺の訪問理由を、イサベルも理解してくれたようだ。
見定めたフィリアも、ボールを前に進める。
「論文が政策として動き出せば、お友達であるシメイさんの活躍も目に見えるものとなりますし。喜びを感じていただけるのでは?」
「政策が動けば、金が回ってくるから元気になるだろ」などとは、言わないのである。
それはともかく。フィリアが動けば、ツートップのもう一人、千早も走り出すのであって。
「とは申せ、いま現在ご不興とあっては、心配にござろうなあ」
「ええ。最近は何かと忙しないと申しております」
はい、本題。
「忙しない、ですか?」
何にお困りですか?
……つまるところ、「全て」ではあった。
築地塀が破れている。雨漏りがする。
盗賊に入られた家もあるらしい。
馬車・牛車の備えに事欠く。
衣類もなかなか新調できない。
それでいて、各種の典礼・交際費は削れない。
そこを削ってしまっては、貴族仲間がいなくなる。
と、生活に事欠けば、文化活動費を削らざるを得ない。
楽器や絵具、舞の小道具。
「ナシメント家は、まだ良いほうですけれど」
イサベルがこちらに微笑を見せる。
アリエルの詩を利用した「営業」、うまく行っているみたいだ。
「フィリアさんのお姉様、ドミナ様にもお世話になっています。よろしくお伝えください」
メル公爵の次女にしてインテグラの同母姉、ドミナ。
サロンを主催していると聞いている。
社交の場で、イサベルは演奏その他のアルバイトをしているのだろう。
辞去した時には、秋の日は傾き始めていて。
馬に跨った自分の影が、妙に細長くいびつに見えて。
「やっぱり、お金でしょうか」
「『人手』と言い換えることも可能にござる。盗賊にせよ、壁の破れにせよ、人手しだいで防げるものにござろう?」
帰り道の話題は、どうにも弾まなくて。
「出費を減らし、収入を増やす。そして、人手を集める。……言うのは簡単だけどねえ」
お金も厄介ではあるけれど。
人手不足の問題は、ここのところ俺に取っても悩みの種。
それをより切実に感じさせるような出会いがあった。
 




