第百七十三話 力 その1
そろそろ半月になるだろうか。
あの歌を耳にしてから。
「日出でて作し、日入りて憩う」
朝日上り初める、かはたれ時。
街道を横切る影から、その続きが聞こえてきた。
「井を穿ちて飲み、田を耕して食う、帝力何かわれにあらんや」
お日様昇れば仕事する、お日様沈めば家帰って寝る。
井戸掘って水得て、田耕してメシにする。
王様の政治なんて、俺に何か関係あるのかい?
「庶民が政治を意識しなくて済むのは、幸せなこと。……理想の政治とも、言われるけどさあ。」
「だね、レイナ君。あの歌を笑って受け容れる為政者は、人格者だと思う。」
イーサンの目が、光っていた。
セルジュに代替わりしたモンテスキュー領を後にして、街道を進むことしばし。
ここはメル家の領邦、フィーネ。その南東部。
良くも悪くも「網の目が緩い」、王室直轄領ではない。
封建領地では上下の距離が近く、互いに干渉しあう。
特にメル家は、王国でも最大級の武力を背景にした統治を行っている……はずだが。
ファシルのように、管理から漏れて「ふらふらしている」民がいるのか?
時まさに5月の前半、農繁期だと言うのに。
人の顔色には敏感なヴィクトリアが、イーサンの疑念を読み取った。
「用水路の建設作業員だと思います、デクスター閣下。」
「そう言えばこの近辺でしたね、姉さま。……イーサンさん、あれが、『封建の民』の典型例です。」
フィリアの言葉に、上流貴族ご一行様が耳を傾ける。
「少し街道を外れますか。」
西北西へと向かっていた街道を横切り、北へと進む。
歌を口ずさんでいた男に、背を向けるようにして。
30分と行かぬうちに、流れが見えてきた。
昇り切った朝の陽射しを浴びて、きらきらと輝いている。
「自然の川じゃないね。石垣が組まれている。」
毛人ハルクが、ぼそりと呟く。
人の手が入っている証拠なのだそうな。
「フィーネ南東部は、大きな川が一本、南流しているだけなのです。」
だから、用水を引く。
クワガタ虫の頭のような形をした土地に。
それだけを説明したフィリアが、ヴィクトリアに笑顔を向ける。
「引き継げ」と仰せですか。
さきほどの人影を、作業員と看破したヴィクトリア。
叔母・アナベルの指導のもと、地元の行政はきちんと把握しているようだ。
「これが、用水のいわば本流になります。先の作業員が向かったのは、2本目の支流作りの現場でしょう。」
ヴィクトリアの明確な指摘に、フィリアの笑顔がさらに華やかになり。
引き換えるようにイーサンが、苦い顔を見せる。
「政策を引き継ぎ、予算も継続的に投下する。領邦貴族の強みだね。ファシルもエシルも、まだまだ開発できるのに。ウマイヤ新領地域だって……。」
それ以上は、口にしなかった。
「ウマイヤ新領地域だって、王室自前で開拓できた。領邦として下賜しなくても済んだのに。」
ラティファご一行とは、別れた後だけれど。
彼女達がいなくても、領邦貴族の前では、口にするのをためらう言葉。
「上からの政策提言と予算確保だけでは、なかなか難しいですよ、デクスター閣下。」
セルジュが、ようやく会話に復帰してきた。
父の病状を目の当たりにし、当主の地位を引き継ぐことになったセルジュ。
あらためて、フィリアの護衛が初仕事ということになり、いろいろと難しい顔をしていたけれど。
「以前言っていた、『すりあわせ』かい?セルジュ君。」
政策の違いについては、思うところもあろうけれど。
旅の仲間が元気を取り戻してくれたのは、喜ばしい話。
その事実に、イーサンが愁眉を開く。
「ええ。規模をどうするか、どこを通すか、予算を誰がどの程度出すか、時間をどれだけかけるか、誰が設計するのか、作業の負担は……全て、地元との話し合いが必要です。」
笑顔でゆっくりと首をかしげる、ヴィクトリア。
肩をすくめたセルジュが、ひと言を付け加えた。
「ああ、それと……開拓した土地の取り分や、税率が問題になりますね。」
大事なところ、いちばん「生々しいところ」は、あえてぼかしていたらしい。
ヴィクトリアとしては、「それを言わなくては、説明にならないでしょう?」と。
「上から下まで、気にしているのはそこですのよ?利益の面で有利な条件を引き出すために、負担面での条件闘争が行われるんです。」
「『予算は全てこちらが持つ!給料も出す!だからやりたまえ!』と、怒鳴りつけたりは……。」
「『武のメル家』でもかなわぬことに挑まれますか?」
ひと言でイーサンを押さえ付けたフィリア。
マルコに声をかける。
「こうした問題については、『下』は一致団結します。農・工・商、地元の聖職者まで。調略による分断も、不可能です。」
いきなり「調略による分断」なんて発想から入りますか。
まあ、ダミアンもそういうヤツだったよな。
それを求められるのが、グリム家の男なんだろう。
「やれやれ。直轄領の行政システム、もっと練る必要がありそうだね。」
「良いのができたら、教えてくださいね?」
「教えなくてもパクるつもりでいるくせに!大概厚かましいわよね、フィリアも。」
「お互い様でしょう?王室や立花で、メルのシステムを利用してくださっても構いません。」
いつものように、言い合いを始めるレイナとフィリア。
そしていつものように、油断している俺に突然矛先を向けるレイナ。
「不躾じゃない、ヒロ?」
「油断は大敵にござるよ、レイナ殿。街道を外れておる以上、周辺を警戒するのは軍人として当然のこと。」
俺の代わりに、千早が答えてくれた。
いつもそうしてもらえれば、ありがたいのだけれど。
直轄領では、街道であっても、「絶対に安全」とは言い切れない。
街道から外れるなど、論外だ。……レイナあたりを連れて、旅をするならば。
メルの領邦、トリウス・フィーネに入ってからは、その点の心配は全く不要。
以前から触れているところだが、「大きな暴力(警察・軍)が一元的に管理されている地域では、小さな暴力(犯罪・テロ)は生まれない」から。
レイナの言うように、「不躾」かもしれない。
警戒するのは、「メルの力を信用していない」という意味と言えなくもない。
ま、それでもいちおう。
千早の言うこともまた、「正しい」のであって。
いずれにせよ、街道を外れても全く危険を感じない。
それだけメル家の軍事力・警察力は強大だということは、確かな事実。
そのメルでも、民衆を一方的に押さえつけることは、していない。
「『力』とは、軍事力ばかりではない。……ヒロさんの方が、恐らくは私より詳しいと思いますけれど。」
もともとは、俺の方が詳しかったこと。
転生して暮らすうちに、度々忘れがちになること。
フィリアのひと言が、メル本領の人々が、それを思い出させてくれた。




