第百六十六話 馬の邦 その3
「それは……馬?なのか?」
悩みではなくて、そんなことを聞いてしまった。
ピーターがブラシをかけていた動物。
馬のようだが、何か違う。
体格も少し小さいし、何だ?
顔も……。どう違うかと言われると、困るのだが。
異世界だし、馬にも種類があるのだろうか。
「ラバと申します、マスター。」
「あ、馬とロバの……。初めて見た。」
ロバは見たことがある。絵本の中でだけど。
ラバは、「そういう生き物がいる」という話を、聞いたことがあっただけ。
「それだけ、ここは馬が多いのでしょう。」
ピーターに言われて、周囲を見回す。
確かに。明らかに、人よりも馬の数のほうが多い。
「馬が多いことと、ラバがいることと、どう関係するんだ?」
「ラバは、馬とロバの合いの子です。馬の数が少ないなら、まずはそちらを増やさなくては。」
「そりゃそうか。馬の方が高く売れるんだろうしね。」
「いえ、マスター。逆です。高級品であるラバを安定生産するために、必要な手順なのです。」
「高級品!?知らなかったなあ。……あ、いや、記憶が欠けているのか。」
いまさらではあるけれど。
俺は、「頭を打って記憶喪失」ということになっている。
「ラバなど、貴族の皆様はご存知無いほうが当然かと。……馬より賢く、頑丈で病気にかかりにくく、餌代がかからず、悪路に強いということで、馬の倍以上の値段で取引されています。」
「荷物を運ぶとなると、ロバやラバのほうが、需要があると。」
「それが私の常識であったのですけれども。カレワラのお家に、マスターにお仕えするようになった今、己の視野の狭さを痛感しております。……貴族の皆様が乗られている馬を拝見しまして。」
そりゃあそうだ。
いくらラバが馬より高価だと言っても、馬にだってピンキリある。
「トラックは、乗用車より高い」というのは、常識ではあるけれど。
「ブガッティやベントレーは、トラックより高い」のもまた、ひとつの常識で。
お世話になるはずのなかった、「常識」。
庶民には、ついていけない話。
ピーターは、庶民と貴族……それも、上流貴族とのギャップに苦しんでいたようだ。
本来なら、同じ悩みを抱えていたはずの俺。
フィリアに付き従い、四六時中アリエルからお叱りを受けているから、やれている。
しかしピーターの周囲には、「感覚」をフォローしてくれる人がいない。
「恐ろしくなりました。」
ラバにブラシをかける手が、震えていた。
「祖父に、父に、『我らはカレワラ家の従僕だ』と叩き込まれ。メル家のネイト館でも、エルトンさんに教えを受けてまいりました。昨年はマスターのお供としてヴァガンさんの仇を討ち、大戦にも参加する機会をいただき。武家の従僕になったつもりでおりました。」
ピーターも、人を手にかけている。
初めは、ショックを受けていたけれど。
すぐに立ち直っていた。
「自覚と、教育のゆえ」と言えないこともないが。
この社会に生きる市民だから、という理由が一番大きいと思う。
「誰にだってありうること」だし、「必要があれば、積極的になすべきこと」ですらある。
「……そろそろ一年になりますでしょうか。千早・ミューラー卿との試合を終えられたマスターから、お叱りを受けました。」
木刀で殴りかかり、アカイウスとユルに遮られた。
主従共に、ふたりに助けられた。
「私も興奮していた。『修行が足りぬ』ということさ。」
恥ずかしい話だったから、軽く流そうとしたのだけれど。
ピーターの口調は、重いまま。
「ふたりに、ひどく叱られました。『殺気が収まるまでは、近づいちゃダメだ。武家の常識だぞ』と。『従僕ならば、ご主君の意のありどころを知れ』と。以来、気を配るよう、心掛けております。」
「叱りつけ、殴りつけようとする主君のほうが理不尽だ」というのが、俺の感覚「だった」。
だがそれは、この社会では非常識極まるもので。
あそこで殴りつけてこそ、貴族。ひとのあるじ。
だから、「済まなかった」、「『あるじとして』失格であった」と謝っては、いけない。
「修行が足りぬ」、「『武人として』心構えに不足があった」と述べるのが、精一杯。
「理不尽だ」と思う感覚を、俺は捨てた。
少なくとも、しまいこんだ。……つもりでいる。
「先日、マスターが殺気を発せられました。すぐに収められましたが……。」
ブラシをかける手が、止まった。
言葉が、止まらなくなった。
「私はそれに反応し、迷うことなく鞭を振り下ろしておりました。無礼な態度が許せませんでした。あれがマスターのご意思でもあろうと。間違っていなかったという自信は、あります。」
……鞭を振り下ろした後、誰も何も言いませんでした。
当然の行いであると、認めていただいたのでしょう。
しかし。
相手は、仇敵でも兵士でもありません。私と同じ、いち村人、いち庶民。
彼らを相手に、迷うことなく上から鞭を振り下ろした私は、何であろうと。
貴族である、それもカレワラ家の当主でいらっしゃる、マスターが罰を下されるならともかく。
私は従僕に過ぎぬのに。
彼らの目は、私を疎んずるものでした。
当然かと存じます。
旅に出てより、至らぬ私に、騎兵の皆様は良くしてくださいます。
しかしそれも、「家名持ちでは無いのに」「従僕に過ぎぬのに」馬に乗って付いて来る若衆だから。
「可愛がられている」、「気安く扱われている」に過ぎません。
あの方達とは、私は違います。
家名無しの、村人ではなくなってしまいました。
さりとて、家名持ちの貴族でもありません。
ロバでもなく馬でもない。
私は、このラバのようなものかと。
自分では、偉くなったつもりで。
実のところは、両方から余所者扱い。
ラバは、数が少ない生き物です。群れを作ることもありません。いえ、できないのです。
「私は、何を道しるべに、どこを目指して行けば良いのでしょう。」
肩が、びくりと動いた。
抑えた口調に、従僕に、いつものピーターに、戻った。
「失礼を申し上げました。その、つい……お許しを賜りたく……。」
丸まった背中にかける言葉が、見つからなくて。
仕方なく俺も、背中を向ける。
「ピーター。……『あるじ』が『従僕』に、このようなことを言って良いものか、分からないのだが。」
背中を向かい合せたら、なぜか。
素直に言葉が出始めた。
「昨年、木刀を振り下ろした、あの後。」
……私も同じ事を考えていた。
「軍人貴族の跡取りだ」と知らされて、それらしく振舞うと決意して、一年経った。
「貴族なら、武人なら、そこで従僕を打ち据えるのは、当然だ」と、周囲の目も告げていた。
が、私は……。
ついこの間まで、庶民であったのに。
抵抗できぬ立場にある同じ庶民を、ためらい無く打ち据えようとした。
そのことに、自己嫌悪を覚えた。
「私もお前と同じなんだ、ピーター。」
同じだけど、違う。
口にしてすぐ、その事実に気づいた。
ピーターは「従僕」で、俺は「あるじ」だ。
「あるじ」が、群れのリーダーが迷っていては、後に従う者も迷ってしまう。
だから……。
振り返る。
ピーターに、言葉をぶつける。
「ラバであろうが、構わぬ。私についてくれば良い。」
「めひ~ん。」
こっちを向いていた、長い顔。
間抜けな鳴き声を返してくる。
いや、確かにラバとは言ったけどさ。
「『いいところだったんだぞ。邪魔するな。背中をもう少し掻いてくれ』って言ってる。」
長い顔に手を触れていたヴァガンから、容赦ないひと言。
「いいところ」だったのは、こっちも同じなんだけどな。
「ともかく、そういうことだピーター。……背中を掻いてやってくれ。」
「承りました、マスター。」
ピーターの背中が、肩が、小刻みに震えている。
笑うしかない。
空が青い。
視線を感じて、頭を巡らす。
遠くから、フィリアと千早が、こちらを見ていた。
遮るものなく広がる、丘陵地帯。
話の内容は分からなくとも、「何かあった」ことは、一目瞭然。
目が合った。
近づいて来る。
男同士の会話だぞ?
この場で鉢合わせるのはゴメンだよ。
馬に乗って、こちらから赴く。
都合良く、眼下に小柄な姿。
「……これがロバか。」
首筋と一体化したように、まっすぐ伸びる背中。
馬よりもずいぶんと長い耳。
初めて目にしたことは、事実だけれど。
口にした理由は、照れ隠し。
「絵本では、見た事あったんだよ。でも、何の話だったか。」
「『ロバを売りに行く親子』ではござらぬか?」
「ヒロさんがいた世界に、その話があるのでしょうか?」
「さようでござったな。しかし。」
「ええ。」
「ヒロさんは絶対に聞いておく必要がある話ですね」
「ヒロ殿は絶対に聞いておく必要がある話にござる」
ハモる必要、あるか?
……後日、その童話を耳にした。
聞いたことがあった。思い出した。
了解です。
理不尽だと思ったら、我を通すさ。
この間だって、そうしただろ?




