第百五十七話 宗教都市クリーシュナグ
観梅の宴を終えてすぐ、千早が領邦へと旅立った。
もともとが武人ゆえ、その身辺は簡素なもの。旅慣れた天真会会員でもある。
ひっそり……などと言っては夜逃げみたいに聞こえるけれど。
その旅立ちには、特に大げさなところも無く。
準備万端整え終えていたアスラーン王太子殿下も、数日後に出立。
立花伯爵にアルバ伯爵、エドワードにインテグラなどを従え、こちらは華やかに新都を発った。
朝から暖かい、最高の日和。
船の甲板で、晴れやかに別れの挨拶を交わすや。
駘蕩たる春風に髪をなぶらせたアスラーン殿下から、最高の笑顔を賜った。
「王都に着いたら、旅の様子を聞かせてくれ。」
……そのひと言は、座談ではなく命令になってしまうのであります。
どうかご理解いただきたい。
また一つ仕事を背負ったところで、翌3月。
アスラーン殿下が去り、華を失ったような寂しさと、重荷を片付けたようなすがすがしさと。
そんな空気を纏った新都から、我ら若手貴族一行、4ヶ月の旅路にご出立である。
気丈なクレアが、声を上げて泣いていた。
彼女とフィリアとは、子供の頃からの長い付き合い。
「スペア」としてのフィリアに、ずっと付き合って。側で支えて。
常に戦場を共にして。
この2ヶ月、何も言わずに準備を手伝っていたけれど。
最後の最後で、耐え切れなくなったものか。
受けたフィリアは、俺に背中を見せていた。
泣いていたのか、どうか。
娘を送り出すヨシカツ氏は、ずっと下を向いていて。
「五番勝負」を済ませた俺。
アレックス様夫妻に塚原先生、李老師。
もう、お互いに何を言う必要も無く。
澄み切った心で、極東道の政庁を後にすることができた。
……かっこつけましたゴメンナサイ。
感傷に浸る余裕が無かっただけです。
我らの旅路は陸海併用。陸路は主に、馬車と馬による。
連れている集団の数が数だけに、もうね。
責任者としては、泣き笑いの余裕が無かった。
メンバーを、ざっと挙げる。
貴族衆が、フィリア、レイナ、イーサン、トモエ。
その付き人として、セルジュ、本領や王都に帰るメル家の武装侍女、エメ、イーサンとトモエの従者。
カレワラ一党が、俺、アカイウス、ユル、ピーター、カタリナにサイサリス親子、ヒュームに楓、ハルク・ターザム。
ハルクは本来、インテグラ付きだけれど。王太子殿下の近くに「毛羽毛現」ってわけには行かないと。
まあ、妥当な判断だと思う。
途中で加わったり、あるいは途中で離脱するメンバーとして。
千早にお珠。マグナム。ラティファとファン・デールゼン親子。
ラティファ一行と、護衛のセルジュ一行は、配下の騎兵を数十人従えている。
他にも、本領や王都に用がある者数人。
50人を超え、100人近い。
馬に馬車、替え馬で、一個中隊規模ですよ。
騎兵技能持ち中心で編成されているという救いはあるけれど。
素直に海路でお願いできませんかねえ、今からでも。
そして、100人に馬となれば。
大切なのは、いつものように兵站であって。
お金には苦労していない皆さんであるから、物資は泊まるごとに補充すれば良い。
したがって、宿泊先はいわゆる宿場町。
「そもそも、物資が蓄積されていない」ような小集落に泊まらなければ良いだけの話では、ある。
それでもやはり多少は、積み込んでおく必要もあるし。
私物やちょっとした財産?
そらアレよ。ミケの腹のポケットにポイーで。
それぐらいは押し付けたって、バチは当たるまい。
事務のことで頭をいっぱいにしつつ、爽やかな笑顔で。
今度こそ本当に、新都を後にしたのであった。
とは言ってみたものの。
新都は、人工的に建設された軍都。その街道は、完璧に整備されている。
初日は特にトラブルも無く、クリーシュナグに到着した。
クリーシュナグは、新都の南の入口にあたる。
新都建設当時は、「南の関所」的な意味合いも強かったらしい。
が、カンヌ州の鎮撫、高岡城の確保によって、軍事的な意味合いは薄くなり。
ダグダ遠征と今次大戦の勝利で、その傾向はますます強くなった。
結果、警察機能のみが残された現在のクリーシュナグ。
新都から旅立つ者にとっては、「初日の宿場」である。
旅慣れぬ者にとっては、ここまでの一日がチュートリアルだ。
逆に、新都に入ってくる旅人から見たクリーシュナグには、「ゴール」という意味合いが強い。
西から巡礼に訪れる者はみな、この街を目指しているから。
聖神教が、極東の本山として大司教区座聖堂を据えている「宗教都市」。
それが、クリーシュナグの街。
街の中心には、丘ひとつをまるまる敷地として、カテドラルが聳えている。
そのふもとに広がるは、いわゆる門前町。
人口に応じた商業施設も賑わいを見せてはいるが、規模の割には喧騒を感じさせない。
聖神教に対する「はばかり」あるいは「敬意」を、住民みなが抱いているようだ。
この街の「あるじ」と行政機構は、王族でも貴族でもない。
切り回しているのは、聖神教。
それでも四位・五位、男爵と言った若手上流貴族が数人、一個中隊を率いて到着するとなれば。
それは街の「あるじ」も挨拶せぬわけには行かぬのであって。
そう、ピウツスキ枢機卿である。
さすがに出迎えまではしてこなかったけれど。
カテドラルの入口で、笑顔を浮かべて待っていた。
通り一辺のご挨拶を交わし。
早めの晩餐を共にし。
ごくごく短い、宗教的講話。
……の後に、やっぱりパーティ(?)である。
参加者は高位聖職者……要は「司教」に、「中位貴族」や、「紳士」達。
聖職者は、トップダウンの武家ではない。
法衣貴族とは異なり、政治的権力を有してもいない。
彼らが扱うのは、「目に見えないもの」。
霊や魂、心。
そして「隠然たる勢力」。
「枢機卿は、権門と直接のパイプを持っているのだぞ。」
「枢機卿に従っていれば、立花にデクスター、メルと顔を合わせる機会が得られるぞ。」
そういうところを、見せつけなくてはいけない。
レイナに、イーサンに、フィリアに。
ピウツスキ枢機卿が、後ろに従えた「取り巻き」を、順に紹介している。
取り巻き連中、そっと前に出たり横に出たりの、ポジショニング争い。
知らぬ振りの枢機卿、たまに、陰に隠れてしまった者をあえて指名したりしている。
満面に感謝の表情を浮かべて、前に出てくる男。
熱心な信者が誕生した瞬間を見た。
観梅の宴の、皂衣衛の男ではないけれど。
俺は、従者連中と一緒に居たほうが良いでしょうかねえ?
「フィリアちゃんの側、斜め後ろから離れるな!」
重低音が、脳に突き刺さる。
「あたし達の今の立ち位置は、そこよ!」
「あたし達の」か。「ヒロ、あなたの」じゃなくて、ね。
……了解だ、アリエル。
それが当主なんだな?
そっと立ち位置を変えた俺。
じゃがいも顔の真ん中にある目が、細くなった。
それだけだった。
何の話も紹介も、俺には振ってこない。
そのまま、パーティの時間が過ぎて行き。
「それでは、夜も更けて参りましたし。」
取り巻き達が、あわてだしたところで。
枢機卿の目が、俺を向いた。まぶたの奥が、鋭く光る。
「猊下、我ら長き旅に出ます。新都の思い出に、ぜひ明日はミサへの参加を……。」
「それではもう一泊、おとどまりいただけますか。ヒロさ……いえ、カレワラ男爵閣下からのお申し出とあれば、喜んで。」
取り巻き連中の目が、一斉にこちらを見た。
「それでは皆様、また明日のミサでお会いしましょう。ヒロさん、細々したお話を少し……。」
枢機卿の後ろを歩む。
しばし、無言で。
旅の初日、疲れが出ることもあろう。
動いて初めて、「あ、あれが必要だった」と気づくような物資もあるかもしれない。
そういうわけで、クリーシュナグにはもう一日滞在することを決めてあった。
事務的な話も、当然通してある。
それを、「あえてあの場で頼み込んだ」ように見せるよう、俺に促し。
「閣下」と呼び直した後、もう一度「ヒロさん」に戻した上で、「その頼みなら」と二つ返事で受けたように見せた、ピウツスキ枢機卿。
「いかが思われましたか?」
背中を見せたまま、枢機卿が口を開いた。
「私が最初に出会った神官は、ギュンメルはクマロイ村の司祭……の、幽霊でした。村人に慕われる、穏やかな方で。その頃の私であれば、反感を覚えたかもしれません。が、今は少し、考えが変わりました。……その、この街の住人に慕われ敬われる聖職者は、また別なのだと思います。」
「ブラザーヨハン、存じております。」
村の司祭を、枢機卿が?
「30数年前。新都に飛び込んで来る神官は、まだまだ少なかった。彼はそのうちの一人でした。……クリーシュナグに立てた小さな聖堂で、一緒に暮らしていた時期もあります。私が折衝に駆け回り、あるいは戦場に出ている間、ブラザーヨハンは、あちこち歩いては教えを説いておりました。やがて新都が開発され、各地に聖堂が建設され。それを見た彼は、『新都には教えが広がりましたね。では、さらに北へ』と。大きな聖堂を、広い司教区を任せようと思っていたところに。」
「ひと月のお付き合いでしたが、想像がつきます。」
「私とは、ずいぶん違っておりましょう?何のてらいも気負いも無く、さも当然のように言われた時には……。ふふ。初めて私に会った時の、ヒロさんのような顔になってしまっていたと思います。」
恥ずかしいような、良心が疼くような。
そんな顔。
「叱られました。『ブラザーユゼフ、いえ、司教様。あなたには、あなたにしかできないことがある。その務めを恥じるのですか』と。」
「そこまで厳しい方とは。」
見えなかったけれど。
「お互い、若かったのでしょう。ヒロさんが会った時には、彼も丸くなっていたのかもしれません。」
そこまで口にして、枢機卿がやっと振り返った。
「ブラザーヨハンの言葉を、私から送るべき時ですね。……自己解決されてしまったようですから、くどくは申しませんけれど。『王都の高位貴族にも、高位貴族にしかできぬ仕事がある』。照れたり恥じたりすることはありません。」
真夏の太陽のような、ピウツスキ枢機卿の力強い笑顔。
初めて、正視することができた。
恥じらいも力みも無く、まっすぐに。




