第百話 ミーディエ辺境伯 その2
「春……春か。」
ミーディエ辺境伯は、そうつぶやいていた。
ゆっくりと、こちらに振り返る。
「春きぬと ひとは言へども うちひさす 都より吹く 風ぞ冷たき」
(「春が来た」。わが領邦の者はそう言っていますが、光り輝く都から吹く風は冷たいもの。……我がミーディエ家への風当たりはまだ強いのですよ。)
すい、と見回して。
俺に目を止めた。
いや、その……。
「たち別れ そでにしみける 白玉を 木の芽もはるの 風やとくなり」
(別れ話とともに、断たれて残された袖。泣き濡れたそれを凍りつかせるほどの冬でしたが、木の芽もふくらむ春の風が、その氷をほどいてくれました。……風は暖かくなってきていますよ。)
大丈夫か?
両家の雪解けを詠んだつもり、だけど。
「ふむ。」
顔の筋肉をほとんど動かさぬ、実にトワ系らしい笑顔を見せた、ミーディエ辺境伯閣下。
再び背を向けて歩き出す。
ねえ、その笑顔、どういう意味?
また足を止め、振り返った。
今度はヒュームと目を合わせている。
「霞立つ 里にも梅の 咲くやあらむ」
(春霞が立つ季節です。霞の里にも梅が咲いているのでしょう。どのような様子ですか?)
辺境伯が、口をつぐんだ。サラにそっくりの、頑固そうな口を。
今度は下の句だけ作れということらしい。
ヒュームは詩作が苦手だけど、こうなったからには仕方あるまい。まあ頑張れ?
俺の生暖かい視線を感じたに違いない。
ヒュームが、最高の笑顔を俺に向けてきた。カウンターパンチでも放つかのように。
表情の変化の大きさに、勢いに、気を呑まれたか。
辺境伯閣下まで、釣られて俺に顔を向ける。
ヒューム、貸しだからな?
「うぐいす誘ふ 君のしる道」
(うぐいすが誘ってくれる、風雅で平和な里です。ご主君であるあなたが統治され、よくご存知のところなのですから、誘いに乗って使者を遣わされては?)
辺境伯が、再び笑顔になる。
この笑顔の意味は分かるぞ。
「霞の里は、過激な独立路線を放棄している。自治区にするという自分の方針を受け入れるつもりがある。」という確認が取れたことを、喜んでいるのだ。
ようやく解放されて、馬車に乗る。
先頭の馬車には辺境伯親娘と、フィリアと千早。
俺が乗ったのは、2台目。ヒュームやレイナ、アンヌあたりと一緒に。
「歌の出来はともかく。ガチガチじゃん。もっとさりげなく、さらっと返さないと。」
「そうそう。雰囲気も大事だよね。」
「レイナちゃんの言う通りよ!アンヌちゃんにまで言われて!恥ずかしいったら!」
当代と3世代前と、新旧の文化人に散々説教され。
「でも、まあ。あたしに頼らず返したところは褒めてあげるわ。前も言ったけど、王都に着くまでに、作法から何から、仕込めるだけ仕込むから。詩人アリエルの名に傷をつけないようにしなさい!」
「傷つけるも何も、アリエルって、名前が抹殺されてるんじゃなかった?」
「ピンク!この腐れ喪女!言ってはならんことを!」
庭園の眺めを楽しむどころの騒ぎではない。
やっとの思いで館に到着したのだが……そこでもサラが接待役を務めていた。
本来ならば辺境伯の奥方の仕事だが、体調がよほど芳しくないのか。
ともかく、またも歓迎の挨拶、そして会食。
談話室に入る前に、こちらの全員とミーディエ家の幹部級との顔合わせがあった。
茶話会という形式を取った、テラスでの顔合わせ。
少しだけ、気になったことがある。
もとがトワ系・文治派であったとしても、辺境伯である以上、ミーディエ家は武家寄りのはず。
それなのに、武臣・軍人と思しき者の姿が見えない。
……そんな視線を見逃すはずも無いのが、トワ系の郎党という連中であって。
ついと近寄って来ては、代わる代わる話しかけてくる。
「これはカレワラ様。政治や外交の話は退屈でしょうか?」
(脳筋の軍人には、政治や外交が分からないか?)
「いえ、興味深いお話です。内容には決して退屈などしておりません。」
(退屈なのは内容じゃない。あんたの話術だよ。)
「ご当主はこれからのお方。古きより年を重ねた我らとの会話よりも、軽妙な話にこころ魅かれるのは、自然なことかもしれませんね。」
(お前は「ぽっと出」だ。代々の重みってのが分からないんだろう?)
「代々文治に専念されてきたミーディエに及ばぬこと、恥ずかしく思います。肩を並べるならば武の方だと思っているところです。」
(武の方は俺と同じ、一代限りのにわか仕込みだよなあ?)
「ははははは。」
「あはははは。」
……嫌味はいいけど、軍事方面の打ち合わせ、どうするつもりなんだか。
何のためにフィリアを招いたんだよ。友好ムードを演出する、それだけの理由か?
「ざっとご理解いただけたかな?」
談話室に入るや、辺境伯が苦笑を見せた。
「慣れることができれば愉快なご家風かと、辺境伯閣下。」
(不愉快です。とても慣れることができそうにありません。)
「馴染み過ぎです、ヒロさん。戻ってきてもらいましょうか。……辺境伯閣下、武官はどうされているのです?」
フィリアは、まるでペースを乱されていなかった。
「フィリア。あんたはもう少し、我を曲げてもいいんじゃない?」
当然、レイナも。
いつものように毒づいている。
「その話をする前に」とつぶやきながら、辺境伯が奥のドアを開けた。
「紹介します、皆さん。妻のエレオノーラです。」
目元の涼しい貴婦人が立っていた。
隣に立つサラと、そっくりの目。
サラは、目元が母親似で、口元が父親似ということか。
みな、同じ事を思ったに違いない。思わず微笑を見合わせる。
そのエレオノーラ様、線が細いという印象は受けるけれど、接待役を務められないほどの体調とは……。
と、みなの視線が集中したそのタイミングで、本人の口から説明があった。
「仮病を使いました失礼を、お詫びいたしますわ。」
「武臣が姿を見せない理由、分かっていただけたようだね。……いや、ヒロ君だけは分かっていないか。千早さんは分かっているところを見ると、やはり我々、男の問題ということかな。」
妻をフォローするように口を開いた辺境伯の笑顔は、複雑な色を帯びていて。
それをどう感じたか、千早が発言を求めた。
「閣下。お言葉を返す失礼をお許し願いたく。男女の違いではなく、恐らくは『家』にまつわる記憶の有無かと存じまする。」
「これは失礼を!千早さんも古き家柄の名家でしたね。お許し願えれば幸いです。」
辺境伯閣下が、本気の謝罪を見せた。
ことほどさように、王国社会における「家の名誉」とは、重いもの。
「もったいなきお言葉にござります。」
千早は、あっさり謝罪を受け入れていた。
このやり取りの意味が分からなくて、後日千早に尋ねたところ。
「男女の問題ということになれば、『辺境伯閣下がエレオノーラ様を守れなかった』という意味になるではござらぬか。さような問題ではござらぬ。さような問題では。閣下の説明を聞いて、ヒロ殿にも分かったでござろう?」
千早は、ミーディエ辺境伯の心痛を、思いやっていたのだ。