第八十七話 もとの水にあらず その6
「堰を逆用する」ためには、2つの手順が必要となる。
ひとつは、河原に敵を誘き寄せること。
もうひとつは、堰を切って落とすこと。
前者は、「交渉に出て来い」と言うだけで良い。
「出て来ないのであれば、ダイゼンの街を攻撃する」と申し向ければ、出て来ざるを得ない。
さらに、「軍を引き連れてきても構わない。それは当然の心得だ。こちらは高台に兵をとどめて、首脳陣だけで待つ。そちらも河原に兵をとどめて、少数で会いに来てくれ。」というわけだ。
以上を、外交文書らしく優雅にまとめて、使者に持たせる。
「これでひっかかるものかな?河原が危険なことは、連中も承知しているだろうし。」
「ひっかかります。……ヒロさん?初陣の際、聞かせてくれた話を。」
郎党が述べた疑問に対し、毫も揺るぎを感じさせない声で、フィリアが答えた。俺に説明を求める。
「はい。敵を罠や策にはめようと思っている者は、得てして、自分が罠にはめられるとは思っていないものです。鼠を狙う蛇が、後ろから人に狙われているとは気づかないように。」
幹部衆の多くが、頷いた。
みな、やったりやられたりした経験があるのだろう。
問題は、後者だ。
「では、誰が堰を切って落とす?」
アレックス様の声に、多くの者が立候補した。「ぜひ、自分の隊を」というわけだ。
危険はあるが、だからこそ「手柄」になる仕事である。これを見逃す手は無い。
俺も、真っ先に手を挙げていた。手柄欲しさゆえではない。「敵兵に情けをかけている」という疑いを晴らさなくてはいけないからだ。
「ダミアン、君は立案者だ。遠慮したまえよ。」
「セルジュ、君もすでに十分功績を積んでいる。それに川沿いの細道は、騎兵向きではあるまい。」
「我が隊は、ミッテランの不名誉を、雪がねばならぬのだ。」
「気持ちは分かるが、そちらはナイトが主体だ。機動力に難があろう。」
みな、困っていた。
はっきり言えば、適任者は俺なのだ。
森や川沿いの細道は、レンジャー技能持ちの歩兵に任せるのが一番である。騎兵では持ち前の機動力を活かせず、鎧が音を立てるナイトでは、機動力のみならず隠密性にも欠けるから。
対照的に、装備に金がかけられない「メルの吹き溜まり」は、隊長李紘がレンジャーだと言うこともあって、そちらの技能だけは「まずまず、見られる」水準に達しつつある。
陽の目を見なかった連中に自信をつけさせる機会にもなる。
隊長であるカレワラ十騎長が、疑惑を払拭することもできる。
政治的にも、悪くない。
カレワラ十騎長が、メル家の人間でありさえすれば。
他家の軍人貴族には、ある程度功績の機会を譲る必要は、ある。
それに、この演習は、アレックス様とフィリア様にとっては、王都系・本領系との顔合わせという意味合いが強い。フィリア様の客将には、ある程度手柄を立てておいてもらいたくも、ある。
だが、少し頑張りすぎている。若手に対し、そういう遠慮をしろと言いたくは無いが。やはり、メル家郎党の見せ場が欲しい。
……そういう計算が、幹部衆に渦巻いているのがよく分かった。
分かりやすい人達だ。いや、知力20ポイントアップのおかげかも知れない。
会議の空気がグダつき始めたところに、鶴の一声が落ちてきた。
「では、カレワラ十騎長にお任せします。……私達は武家。政治は戦の前後に行うものであって、戦の中に持ち込むものではありません。」
「時としては譲り合うこともあろうが、本質は奪い合うものでは無かったかな?手柄とは。」
フィリアとアレックス様の言葉に、幹部衆が、うなだれた。
「そう気落ちするな。まだ南の大道が残っている。あちらは手柄が立て放題だぞ?……さて、細かいところを詰めるか。」
何度目であったろうか。
アレックス様が話題を切り替えれば、郎党がそれに合わせて気持ちを切り替える。
大まかなルート選択に決行の合図、出立の時刻などがすいすいと決まっていく。
将軍と士官、両者の呼吸は、すでにぴったりと合っていた。
アレックス様が自らに課した宿題、「求心力の強化」は、ほぼ達成されつつあるようだ。
「ヒロ、いやカレワラ十騎長、何か要望は?」
ほぼ全ての手筈が決まったところで、アレックス様から声がかかった。
「異能者大隊から、マグナムとヴァガンの借り出しをお願いします。川や自然を良く知る2人ですので。他の諸隊からも、参加させたいという人があれば、ぜひ協力をお願いいたします。」
「隠密行動を取るには、人数が多すぎはしないか?支隊長殿。」
「第一支隊全員で向かうことはしません。李紘中隊を中心にします。」
「セイミ様やミーディエのご令嬢がいたのだったね、君の隊には。何かあっては困るか。」
「結局、政治を持ち込まざるを得ませんか。」
「戦力の話としておこう、フィリア。明日は使者のやり取りをし、決行は明後日。各人、必要な準備をしておくように。」
これで解散か、と全員が重心を浮わつかせたところで、フィリアが口を開いた。
「ミッテランの件ですが。」
さりげない声に、全員が硬直した。急所に後ろから刃物を突きつけられたかのような気分だ。
呼吸ものと言えば千早かと思っていたが、フィリアもなかなか恐ろしい。
「交渉相手の裏切りに、怒りと責任を感じた末の急死。いわゆる憤死・悶死の類であったと、メル本宗家としては認識しております。将軍閣下?」
「征北大将軍府にも、そのように記録される旨、約束する。……第一大隊長、ミッテランの亡骸は丁重に扱うように。」
フィリアも課題を果たしつつあった。
「入り婿である義兄を立てつつ、自分の権威も見せつける」という、少々厄介な課題を。