第八十七話 もとの水にあらず その4
「さて諸君、これは酒の上の話だ。」
それなりに杯が回ったところで、アレックス様がそんなことを言い出した。
「先ほど帰って行った、古参のベテラン連中は、みな知っている。……が、二十代前半以下の者は、おそらくは、知らぬ。」
酔漢の「ような」目を、俺たちに向ける。
嘘だ、酔っているはずがない。
「無礼講である。」
ヒロ知っているよ。
無礼講で無礼をすると、無礼討ちになるんだよ。
「……と言っても、信じられぬであろうな。よって私が率先して無礼をする。棚卸しだ。」
アレックス様が、ゴブレットを下に置いた。しっかりとした手つきで。
やっぱり酔ってないじゃないか!
「ソフィアの将器だがな?」
全員が、下を向いた。杯をテーブルに置く。
場を沈黙が支配する中、満場の期待を背負って、フィリアが口を開いた。
「姉さまは、『私の指揮能力は、凡庸です』と常々言っていますね、お義兄さま?」
アウトー!
何言ってくれちゃってんの、フィリアさん!
……などという気まずい空気を一切顧みず、アレックス様も答える。
「決して凡庸ではない。『堅実』と評すべきだ。……さて諸君、その意味が分かるか?」
おい皆、なぜそこで、俺を見る。
これか、レイナが言っていた「トカゲの尻尾」ってのは。
そのレイナもこっちを見てるし!
って言うか、いいんですか?他家の者がいる前で、そんな話をしてしまって!
「ではヒロに答えてもらうか。」
ああもう!
必死で頭を回転させる。どう言えば、無礼ではなくなるか。
「ソフィア様には、大城の司令室か、あるいは帷幕の内にあって、優雅に指示を出すお姿が似合っておいでのように思われます。馬上先頭に立って突撃するという将ではないかと。総領がそのようであっては困るかとも思いますし。」
「ヒロよ、すっかり貴族になりおおせたな。結構なことだ。……だがな、今日の話は、貴族らしいだけでは困るということなのだよ。」
若手連中の、とくに武家の連中の目が、細く光る。
「みな食いついたな?無礼講だと言ったはずだ。杯を手に取れ。遠慮せずに発言せよ。」
そう告げたアレックス様。
率先して杯をあおり、言葉を継ぐ。
「ヒロの発言だが、大まかには言い当てている。ソフィアは、勝てる戦であれば、絶対に勝つ。大きな戦になればなるほど、耀きを見せるだろう。そうだな、大城の籠城戦や、6万対4万の戦であれば、まず安心だ。」
「失礼いたします。大軍を指揮して絶対に勝てるのであれば、名将と称されるべきではありませんか?」
「ではセルジュ。600対400の戦で、いや、6000対4000でも良い。ソフィアが君に勝てると思うか?君が少数の側を指揮したとして、だ。」
「その、私はソフィア様のことはほとんど存じ上げないので……。」
「無礼講だと言ったはずだがな。まあ良い。絶対に君が勝つよ。」
「しかし閣下。その想定自体、あまり意味がないのでは?ソフィア様が戦場に出るとすれば、やはり前線の城内か、あるいは野戦でも万単位の軍勢を引き連れてご出馬されるはずです。」
「そうだな、ダミアン。では、4万対6万の戦で、あるいは5万対5万の戦ではどうだ?ソフィアは勝てるであろうか。」
「まさに勝負は時の運、ではないでしょうか。いえ、ソフィアさまと我ら郎党であれば、きっと勝ちます。」
「君らしくも無い精神論だな。まあ、ソフィアのことをよく知らぬであろうから、咎めはしないさ。……その条件なら、ソフィアはまず勝てない。相手がよほど愚かでない限りは。」
アレックス様が、部屋を見回した。
語気を強める。
「『勝てる戦は絶対に勝つ』が、『五分五分以下では絶対に勝てない』。それがソフィアだ。だから『堅実だ』と言っている。非難しているわけではない。そのような将軍は、有能な部類だ。名将と言えなくもあるまい。」
「姉の仕事は、その本分は、『戦の前に、六分四分まで持っていく』ところにありますしね。」
「そうだ。それこそが公爵家の跡取りの仕事だ。……だが、『武のメル家』の総領としては、それでは将器に不足ありと見られるのだよ。先代公爵閣下にも、義父上にも、古参幹部にも、だ。」
「それで閣下が望まれた、というわけですか。」
「まあ、その話はどうでもよかろう?」
あ、照れてる。
貴族の結婚は政略結婚だろうけど、それだけじゃない何かがあったんだな?
ダミアンの目がますます細くなった。
足元のミケが、しっぽをぱたつかせている。
「繰り返すが、ソフィアは、『武のメル家』の総領だぞ?軍人としては最高の教育を受けている。机上の学問だけではない。代々の、血の通ったノウハウだ。王都では何度か部隊を指揮し、その全てに勝利を収めている。それでなお、不足と見られる。その原因が、諸君に分かるか?」
「勝ち方が悪いということですか?もっと派手に勝利せよ、大勝せよと?」
「勝ち方が悪い、それはその通りだ。だが、派手さではない。より容易に勝てることに、気づけなかったのだよ。将器ある者ならば、みな気づくようなことに。」
「ここのところ話に出ている、戦場勘や観察眼ですか?」
「そうだ。しかし、ソフィアを非難することはできない。原因はソフィアの受けた教育にあるからだ。非難されるべき者があるとすれば、義父上ということになるのだろう。」
「公爵閣下は、最高の教育を授けられたはずでは?」
「そうだな、例を挙げるか。君達は、浅川の水位に気づいた。しかしソフィアでは、少なくとも十代半ばのソフィアであれば、絶対に気づかなかったはずだ。断言できる。……こう言えば分かるか?気づいたのはマグナムとヴァガンだった。」
ふと、ソフィア様の自嘲を思い出した。
「『学友がいなければ、私は間抜けなお姫様のままだったことでしょう』と伺ったことがあります。」
「それだよ、ヒロ。公爵家のお姫様に生まれてしまったことが、メル公爵家にお姫様しか生まれなかったことが、不幸だったのだ。男子が一人でも生まれていれば!メル家には代々の教育ノウハウがある。外で遊びまわらせ、森を、草原を、山を、川を、海を感じさせることができた。だが、令嬢にそのような真似をさせるわけにはいかない。お姫様を育てるための女子教育を受けてきたソフィアだが、男子が生まれなかったために、途中から軍人教育を接ぎ木されたのだ。そこに無理が出た。」
アレックス様の目は、悲しげであった。
この人は、十代のソフィア様が感じていた痛みを、重圧を、そしてそれに向かい合った彼女の苦闘を、知っているに違いない。
知るにつれ、いつからか、それを共に背負うようになっていたのか。
「ソフィアの将器は、合格点以上だ。歪な教育を受けてなお、『堅実』の水準に到達してみせた。不足を自覚し、戦場勘の部分は私やジョー、ギュンメル伯に任せている。総領としての責任を果たし続けている。」
アレックス様は、ソフィア様に、その生き様に、敬意を抱いている。
だからこそ、共に歩むことを選んだのだ。
「だが諸君に知っておいてもらいたいのは、そうしたソフィアの偉さではない。ソフィアは決して名将ではないということをこそ、肝に銘じてくれ。平伏して仰ぎ見、疑問を持つことなく指示に従ってしまっては、間違いが起きる。むしろ、おかしいと思ったことはどしどし具申してやってくれ。」
酔いに任せた発言に、恥ずかしさを覚えたらしい。
おどけたように、付け加えた。
「入り婿が偉そうなことを言ってしまったものだ。」
そう、アレックス様は、入り婿なのだ。
日本でも「米ぬか三合でも持っているなら、なるもんじゃない」と言われる、入り婿。
中世~近世的な、家文化が支配する王国社会における、入り婿。
自分ひとりの実力で、5年とかからず将軍寸前の千騎長・近衛中隊長まで登り詰めた人が。
輝くような美男子でもある。相手選びには苦労しなかったはずなのに。
二人の間には、何があったのだろう。
全員が、そのあたりを気にし始める。
「無礼講なのでしょう?お義兄さま。私達には必要な情報でもありました。」
フィリアが、優しく言い添えた。
これ以上、曝け出さなくても、大丈夫です。みな、姉に敬意を覚えたのだから。
お義兄さまに、親しみを感じたのだから。
目が、そう語っている。
「で、あったな。だがこうしてソフィアのことを口にした以上は、私も義務を果たさなければならぬ。」
何度目であったろうか。
戦場向きの武骨なゴブレットを、アレックスさまがあおったのは。