第四十六話 人形の家 その1
事件が、起きた。
武術大会・17歳以下の部優勝者、十人隊長のヴァンサン・ビガール氏が、決闘によりマルセル・デュフォー氏を殺害し、デュフォー氏の婚約者であるノーラ・ロッシ嬢と駆け落ちしたのだ。
二人の行方は杳として知れぬ。
11月の新都はこの噂で持ち切りであった。
庶民も、サロンも。むろん学園の生徒達も。
「ちょっとステキじゃない?」
「でもねえ、踏み切れるかって言われると。」
「これからどうするつもりなんだよ!」
クラスメートの中でも一番強く反発していたのは、スヌーク・ハニガンであった。
買爵による準男爵の息子、爵子スヌーク。
誰よりも貴族らしく振舞わねばならぬ少年であり、憤慨している姿を周囲に見せておかねばならぬ少年である。
いや、彼の憤慨は恐らく本心からのものだ。
「社会への義務も果たさずに、なんの貴族だ! 家名持ちだ! 気楽に家を捨てるなんて、ありがたみがまるで解ってない! 社会での居場所、生活、何も見えてない!」
スヌークのその言葉は、正論だ。
「と、申せ。決闘における殺害であれば。遺恨はともかく犯罪ではござらぬゆえ、な」
俺の右で、弓を携えた千早が口にする。
「良いのではござらぬか?……やはり弓はいまいち不得手でござるな」
放たれた矢は、的は外したものの、その脇の土盛りを削り取って大穴を開け……結果として、的を吹き飛ばしている。
「千早さんほどの力量があれば、どうあっても己を貫いて生きてゆけます。しかし……天真会的に言うならば、これまで懸命に張り巡らせていた根を、自分から断ち切る行いではないのですか?」
俺の左で、フィリアが構える。
「お見事」
千早の声を待つまでもなく、きっちりと的の中心を射抜いていた。
「大将は弓取りとも言いますし。ただ、私は腕力が足りず距離が出せないのです」
千早と自分の胸を見比べて、小柄な少女がため息をついた。
「フィリア殿ほどの才覚があれば、いくらでも『根』を伸ばせるでござるよ」
弓を引く二人の姿は、いずれ堂に入ったもの。
日本の弓道と違い、神経をピリピリに張り詰めるという雰囲気ではなかったけれど、そのぶん辺りは穏やかな空気に包まれていて。
その中にあっても決して集中を崩さないふたりの姿は、美しかった。
――そういえば、佐藤さんも弓道部だったな――
それは、胸のうちに起きた小さな波紋。
佐藤さんのことは、二人に話すべきことでもないけれど。
俺の事情は、少なくとも二人には、いつかきちんと話をしておかなければ。
……幽霊達と記憶を共有して以来、その思いが強くなった。
「どう考えるべきか、まるで解らないよ」
揺らいだ気持ちのままつぶやいて。
そして俺が放った矢は、的の端っこを掠めた。
「ヒロ殿は中途半端でござるな。腕力も半端なら、狙いの厳しさも半端」
「集中も、覚悟も足りていませんね。ヴァンサンさんのこと、やはり気になりますか?」
当然のご指摘だ。
そう言えばヴァンサンの話をしていたのだった。
「貫く力か才覚があれば、どうとでもできるんだろうってのには、同意するよ。……ただ、それができない者は、どうすれば? 諦めて我慢するしかないのか?」
「なあヒロ、もう一度銃に挑戦してみるべきじゃないか?」
やはり狙って撃つことを苦手とする、マグナムからの声。
普通の弓では弦が切れ、千早の弓は強すぎて使えない少年からの同情だった。
「うまくいかなかった理由、霊気のコントロールの問題か銃の調整の問題か、わからないけどさ。一度しか試してないんだろ? 何事も、悪戦苦闘すればいいのさ。死ぬわけじゃないんだし。……銃に限らず、な」
確かに。死ななきゃ安い……は、さすがに言い過ぎかもしれないけれど。
「オットー・マイヤー工房に行ってみるか。ミーナとも約束してたことだし。マグナムも良かったらどうだ? 新しく注文するなら、お勧めだよ」
「ヒロ、そろそろ『飛び道具』を意識しても良い頃だ」
塚原先生からも、そう言われていたところであった。
「刀術も、長物も、思っていたより飲み込みが早かったからな。大丈夫だろう」
……ただ、な。
「もともと刀術使いは、射撃武器とはあまり相性が良くないとは言われているな。真壁の言葉を借りるなら、刀術使いは『脊髄反射』ゆえ、な。射撃武器を用いるには、少々神経が過敏らしい」
確かに。
ノブレスのような無神経さは、なかなか身につけられそうにない。
「先生はどうされていますか?」
「私は弓だな。達人にはもちろん及ばないが、そこそこにはやれる。頭から『刀術使いには無理』と決めてかかるものでもない」
それって、室伏アニキに野球やラグビーをやらせたようなものでは……。
本当に参考になるんですか?
「弓ですか、やはり」
それでも、聞いておかなくてはどうしようもないのである。
「弓に限らないが、後はボウガン、投槍、投石あたりと言ったところか。霊能力者は銃も使えるのだろう? だが中途半端になっても良くない。やはり刀と長巻に力を注ぐべきではある」
「今後、意識しておきます」
ん、と軽く頷いて。
窓の外に目を向けた塚原先生が言葉を継いだ。
「しかし、変わらぬものだな。……武人と言えば聞こえは良いが、つまるところは武術バカ。他のことを何も知らぬゆえ、女で身を誤る例が後を絶たない。今も昔も」
真壁先生の、大人とはとても思えないような純真さを思い出す。
「そこから立ち直る者もいる。が、真っ直ぐに前を見て破滅へと生き急ぐ者も多い」
思えば朝倉も、純真な男で。
それゆえに生き急いで。
「学園の生徒は、物がよく見えている。幸いにして武術バカになれそうな者は、まずいない」
賢い者、洞察力のある者。悪く言えば、小ざかしくて目端の利く者。
そういう者は、バカには「なれない」のだ。
「それでも、若い。何が起こるかは読みきれない。……両親の事、代々の家の事を、一度は思い返してみて欲しいものだ。……失踪したヴァンサンを探しに来た彼の師が嘆いていた。ヴァンサンは両親を早くに亡くしていたようだが。師との関係は、本物だった」
……そうか、お前には両親はいなかったのだな。
塚原先生のその言葉は、無理につけたされたような響きを持っていて。
「重石として、私では目方が足りないならば、フィリアや千早を思え」
いえ、そのような……と、言い訳を口にすることなど予想済みであったのだろう。
「師友を思い、フィリアや千早を思い返してなお、進むべきと思ったときは、迷うな。進め」
中途半端な俺の返事が終わるか終わらぬかのうちに、塚原先生が切り込んできた。
「ヒロ、お前の場合はむしろそちらが心配だ。刀を抜けば踏み込むが、刀術以外では踏み込みが鈍く、甘い。慎重と臆病・怠惰は異なる。……いかなる事情を抱えているかは知らぬが、思い切り生きて良いのだよ」
「……はい。心いたします」
ここのところ少しずつ、秘密を抱えているのがつらくなってきた。
この気持ちをどう考え、どう処理すれば良いのだろう。
「ん、よろしい。」
道場を出たところでも、声が聞こえてきた。
(生死を賭けて刀を交えれば、人が解る)
朝倉?
(ヒロ、貴様のお師匠は俺と同類だ。破滅した俺とは違い、立ち直った男だよ、あれは。俺の事情も、ほぼ理解しただろう。むろんヒロ、貴様のことも薄々は。記憶喪失が嘘だということは、確信しているはずだ)
おい、朝倉!
(話を聞いていなかったのか?お前のお師匠は、それを詮索するつもりはない。「いかなる事情を抱えているかは知らぬが、思い切り生きて良い」それだけを言いたかったんだよ、あの人は。……信頼を裏切るんじゃないぜ)
分かったよ、朝倉。
「踏み込む心を忘れるな」……塚原先生から最初にいただいた言葉も、それだったな。