第三十七話 立花伯爵 その5
北ネイトの街は、繁華街……というか、夜の街であった。
警察署を出たのは、5月末の長い日が沈みかかる時分。
この街は、ちょうどその頃に目を覚まし始める。
「この雰囲気、僕は好きなんだ。もちろん夜がたけなわになった、あの雰囲気も心躍るものがあるけど。傷んだ目に朝日が刺さる、あの感じもたまらない。君はどう?」
「私は、夜は眠くてたまりません。」
「健全だな。嫌になる。じゃあさ、好きな酒は?蒸留酒?醸造酒?そろそろエールが美味しい季節だよね。若いうちは甘口が好きか。カクテルとか?」
「酒は飲みません。」
「ちょっとさあ、コミュニケーション取ろうよ。酒はダメでも、女は?興味が無いとは言わせないぞ、その年で。」
「それを表に出したら、学園では針のむしろですよ。評判もありますし、それこそ玲奈さん達女子にどんな目で見られるか。」
「お、やっと反応があった。しかし、若いのに窮屈な生き方をしているなあ。評判なんて、落ちたところで何の問題も無いぞ。死霊術師ならどうとでも生きていけるだろうに。」
そうかもしれない。
子供だった大ジジ様とは違う。俺なら人並みには、社会の・街の「お約束」が理解できる。
陋巷にあって、必要な分だけ食い扶持を稼いで。
そうやって暮らしても悪いことはない。
何で俺はこうなっているんだっけ?
暗くなり始めた街を、ぽつぽつと火がともり始めた街を歩きながら、考える。
ああ、そうだ。
「死霊術師って何なのか」を知りたくて学園に来たんだったな。俺に何かあった時にジロウがどうなるかが心配だったんだ。
それから、今は。
フィリアが背負っているものの重さを知って、ほっとけなくなったんだった。
「悪いことを言ったかな。そんなに揺れるとは思わなかった。しかし君は随分、頼りないな。それなりの年なのに。ああ、記憶喪失だと言っていたか。まだ『出会っていない』んだな。だから玲奈なんぞに振り回される。周りとのつながりが、生きる理由になっちまってる。」
この人も、ギュンメル伯と同じことを言うんだな。「まだ出会っていない」か。
「それではいけないとは、何となくは思っているんですけどね。」
「……周囲のために生きるのも、いけないことでもないんだがな。父母妻子のために生きる。先祖伝来の土地を、家を守るために死ぬ。周囲のための人生。その中で命を燃やし、燃え尽きる。……そういう『出会わない』まま終える一生だって悪くないさ。いや、彼らも『出会ってる』のか。生まれた時点で『出会ってた』人生と言うべきだな。そうでなければ、そのために死ぬことなんかできるわけがない。」
分かるような、分からないような話が続く。
「その点記憶喪失なら、『出会ってた』人生にはなりようがないだろう?全てと切り離されちまったんだから。君が詩を書ける、作品を生み出せるのはそのせいさ。『出会って』いて、心が充実しきっているようなうらやましいヤツには、生み出せない。生み出そうって気が起きようが無いんだよ。」
「伯爵閣下?閣下は文学に『出会った』から書けるのでは?」
「どうだろう。いいこと言ったつもりが、自分で分からなくなってきたぞ?これだから男ってのは嫌なんだよなあ。女だったら雰囲気に流されてくれるのに。さて、どうだ?僕の場合は……いや、やっぱり『出会っていない』。どこかに隙間がある。だから書けるんだ。」
「いや待て!」
伯爵が足を止め、虚空を睨んだ。
「ああ、そうか。そうだったのか。そういうことか。」
「閣下?」
「やっぱり伯爵家は、娘というものは、重かったんだな。『出会った』ような気になっちゃったんだ。『出会った』はずなのに、まだ隙間があるような気がする。それが後ろめたくて、家から目を背ける。そのくせして、隙間があることも認めたくないから、書けなくなる。やっぱり僕は弱虫のクズだ。」
立花伯爵が、虚空から俺に、視線を戻した。
「玲奈がデビューしたって聞いて、一人前になったと知って、目が覚めたんだ。これで家に目を向ける必要がなくなる。隙間があるって認めていいんだ。これで書ける。それに感謝しなきゃいけないってことが腹立たしかったんだ。この10年かそこらが、惜しくもあり、憎たらしくもなったんだ。」
「うん、たまには毛が……っと、毛色の違う人とも話しをしなきゃダメだね。」
毛が足りないって言おうとしただろ。このおっさん。
「閣下、その仮定が正しいならば、伯爵家を背負おうとしている玲奈は『出会った』人で、『書けない』ということになるのでは?」
「ヒロ君、君は童貞だね?」
「いきなり何をおっしゃいますか。」
「いや、済まん。まだ13歳だっけ。やけに落ち着いているからうっかりしてた。……女がそんなに繊細なわけがないだろう。女なら書けるよ。書けないとしたら、玲奈の才能の問題に過ぎない。」
女性に対する偏見なような気もするし、確かにそういうところはあるような気もするし。
「記憶喪失の、素人のへたれ軍人に負けてるようじゃねえ。難しいかもしれないなあ。まあ、後から伸びる人もいるけどさ。」
辛辣だなあ。さすがにレイナの父親だけのことはある。
でもどうやら目を覚ましたし、スランプ脱出かな?
「書けそうな気がしてきたぞ~!良し、酒でも飲むか!一杯付き合え!」
前言撤回。ダメだこのおっさん。
「閣下!閣下をお住まいに送り届けなければ、玲奈さんが家に帰れません!」
「そんな小さなことを気にするなよ。それともアレか?やっぱり玲奈が気になってるのか?あの体型だぞ?君、まさかロリコンか?ちょっと引くわ。そもそも男なんてな、身勝手なぐらいの方がもてるんだぞ。」
「閣下、ともかく一旦はお住まいに。三泊四日の滞在が響いています。飲み屋に入って良い臭いではありません。」
「そうだった!君、聞いてくれ。まったく警察ときたら……」
「おう、おっさん。やっと見つけたぞ。どこに隠れてたんだ!」
絵に描いたようなチンピラが3人。
すばやく俺の後ろに隠れる伯爵閣下。
「閣下、何があったのですか?」
「閣下ァ?坊主、笑えない冗談だぜ。そのおっさんはなあ、おれの女をひっさらったんだよ!どう落とし前つけてくれるんだ!」
「閣下?さすがに誘拐は……。」
「違う。恋人に殴られたから匿って欲しいって言われて、家に連れてっただけだって!」
「殴ってようが何だろうが、俺の女だ!人のものに手を出していいわけがないだろうが!」
チンピラくん、殴ってはいたのね。
「こちらは本当に伯爵閣下です。乱暴をしたり脅迫をしたりすれば、大変面倒なことになりますよ。」
「嘘も大概にしろ!伯爵が北ネイト何かにいるわけがねえだろうが!本当なら、余計に金を払ってもらわなきゃならんところだ!」
一理ある。
一理あるけど……。
「女性の側から保護を申し出たとなれば、むしろ問題になるのはあなたの行動ではないかと。」
「ごちゃごちゃうるせえ!」
刃物を抜いてきた。
どんだけだよ、北ネイト。
転生したら『龍が○く』なわけだがそれも悪くないとは……思えない、やっぱり。
「ジロウ、頼む。」
狩猟霊犬のジロウが、先頭の男に噛み付き、引きずり倒す。
指示を出すまでも無く、アリエルがそいつの持っていただんびらを奪う。
霊が見えない人間には、だんびらが空中でふわふわ動いているのだけが見えるわけで。
その時点で、後ろの二人は逃げていた。
「ただのおっさんが、護衛に死霊術師を連れて歩けはしないだろ?本当に伯爵閣下なんだって。これ以上つきまとうようなら、寝てる間に……。」
ちょっと脅してみた。
ジロウに組み敷かれている男の目の前に、アリエルがだんびらを突き立てる。ナイスタイミング。
こういう時、経験豊かなアリエルは本当に頼りになるんだよなあ。
「分かった。もうあいつのことは忘れる。あんたらには絡まない。」
「ジロウ。」
俺のテレパシーに応えて、足を離すジロウ。
男は悲鳴を上げながら逃げていった。
ちらほらと目撃者もいる。
ああなっては、街で「いい顔」はできなくなるはず。
もう刃物を振り回すことも無いだろう。そう思いたい。
「ジロウ、ありがとうな。」
存分にもふる。
「閣下、それでは行きましょう。」
「本当に死霊術師なんだねえ。頼りなく見えるのに。」
この表情には時々出会う。怖がられているのだ。
「玲奈さんからは、『二度目は無い。次に閣下が醜態をさらすようなことがあったら、暗殺するように』と言われています。」
伯爵の顔が歪んだ。
「分かった分かった。もうこの街からは出るよ。でもなあ。並木街は知り合いや爵位持ちが多いから気恥ずかしいんだよなあ。かといってヘンウッドは鼻持ちならないし。並木街で我慢するか。……しかし玲奈には注意しておかなければいかんな。どんなお人好しだってアゴで使っていてはいつか暴発するというのに。君が怒ったらどんな目に合わされるか。お互いにとって不幸だよ。周囲の人のためにも、君はもう少しドスを効かせるべきだね。」
「それは閣下もでしょう?もう少し貴族然としていただかないと。『トラ箱に放り込んでみたら伯爵閣下でした』ではお互いにとって不幸です。」
「違いない!足りないように見えて、君もなかなか言うじゃないか!やっぱり一杯付き合いたまえ。」
ジロウが伯爵の膝に頭をこすりつけた。
「いひゃあ!分かった。家に帰るって!」
伯爵の仮住まいは、小さな部屋だった。
学生寮とあまり変わらない。
こういうところに「住めてしまう」、「それが気にならない」のも問題なんだろうなあ。
気さくなのはいいんだけどさ。
「帰ったよ……。あれ、いない。」
置手紙があった。
「部屋から出るなと言われていましたが、閣下が帰ってこないので、恐ろしくて。何かあったんじゃないか、あの人につかまったんじゃないかと思うと、不安でたまりません。助けに行くべきかもしれないけれど、怖くて……。ごめんなさい。助けていただいたのに、お礼も言わず。私はこの街を出ます。お金を勝手にいただきました。許されないことですが、許していただきたく。ごめんなさい。本当にごめんなさい。」
「悪いことしたなあ。三泊四日の不在じゃあ仕方ないか。引き受けたのに最後まで見ていなかった僕が悪かった。全部持っていけばいいのに。いや、良くはないか。良くはないけど仕方ないだろうに。見ろよ。半分だけ持ってった。大丈夫なのか、あの娘。……並木街だったらさ、こんな困り方してる娘はいないんだよ。ヘンウッドだったら全部持ってくぜ。手紙も残さずに。」
伯爵閣下、しょんぼりと肩を落としていた。
「名残惜しいけど、僕もこの街を出る潮時なのかな。いったん家に帰るよ。悪いね、ヒロ君。一杯奢るべきところなんだけど、何かそんな気分じゃないんだ。」
「お気になさらず。またいつか、お願いいたします。」
「そういう約束って、大抵は果たされないんだけどさ。君とはいつか本当に飲む機会がありそうな気がする。じゃあ、またね。」
さんざんレイナに迷惑をかけ、言いたい放題の悪口雑言、「才能が無い」だのなんだの、辛辣な批評を繰り返していた、治・ド・立花伯爵閣下だが。
しばらく後に、痛烈な仕返しを受けることとなった。
玲奈・ド・ラ・立花嬢の、小説家としてのデビュー作『落魄』によって。
若い頃に一世を風靡した爵位持ちの文人貴族が、才能の枯渇によって落ちぶれ、家にもいられなくなり、場末の飲み屋街を遍歴し、最後は大罪を犯して、収監される。そしてその一生を監獄の中で振り返るという、純文学小説であった。
まあとにかく主人公のクズッぷりが半端なく、「爵位持ちの貴族」をそこまでこき下ろして描く作品はこれまで無かったものだから、衝撃のデビュー作として文壇をにぎわせたのであった。
「ハイソ」な並木街に出入りするようになっていた治・ド・立花伯爵閣下。
しばらくは周囲の視線が窮屈になって、酒の不味い日々が続いたらしい。
やっぱりレイナは、敵に回しちゃいけない。