第四百三十二話 銃後の人々 その1
ゆったり進む車窓から顔を覗かせる同窓の友人はしかし、景色を観てはいなかった。
時おり後ろを振り返る不安げな目が馬上のこちらに向き直る。
「迷惑かけてるとは思う。だけど他に適当な人も思いつかなくて」
分かっていてその無理難題に付き合った理由だが、ある種の罪滅ぼし……と、言えないこともない。イーサンと伯爵令嬢を同じ戦場に派遣したのは俺だ。
「早く結婚しすぎたかしら、そういうとこも含めて。もう少し男の人を見てからにしたほうが良かったかな」
どう答えれば良いものか。
女が求めるのは解決ではなく共感だとか、少しばかり乱暴な分析もあるけれど。
「この道をイーサンと来たの、いつだったかな。葉桜が咲いてたから春か、3年前の」
夫の名を強調するあたり、さすがに言葉が過ぎたと自覚したものか。
「ごちそうさまと申し上げておきます、夫人」
慣れた呼び名に赤くなる、それぐらいにはまだ新婚か。
ならばさっさと帰れば良いものを。
「そう、ちょうどここだった! ふたりで降りて、そこの……」
照れ隠しに慌てるあまりの度忘れを継いでおく、海棠と。
ようやくまなざしに驚き……素直な色が帰って来た。
「イーサンが自慢げに話してたからね、いい景色だったって」
小さなウソを混ぜた、解決よりも共感を得るために。
「妙な植生ですわね、どなたかが手を入れたとしか」
東川のほとりに佇む観光名所だもの。
それは射線に制限も施そうというものだが、だから解決はいらないんですってば。
「きょうのところは侍女仕事願います」
キュベーレー・クロイツ嬢――当てつけじみたデートの提案その受け手・名宛人をお願いしたのである――に頭を下げるのも何度目やら。
やはり受けるべきではなかったかと、その思いは馬車を止めてのちさらに濃さを増した。
「夫が彼女と何をしていたかご存じですか、男爵閣下」
戦場では何をしたの……その問いが許されるのは子供だけのはず。
じっさい大人あいてなら答えようはある。
「偽り無く申し上げて存じません、夫人……しかし」
びくりと肩を震わせていた。
だったら聞かなければ良い。こんな外出しなければ良い。
「一線は越えていないと思いますよ、戦場勘に過ぎませんが」
夫婦というものどこか相似たところがある、ような。
昔の友人と外出するだけで目に怯えを浮かべる夫人を見るにつけてもそう思えてならない。
「ずるいお言葉ですね、威光並び無き将軍閣下にそう言われては否定できない」
期待どおりの回答をありがとうございます、男爵夫人。
最初から気を揉まないことですよ。
「仮に何かあったところで。あちらは自ら家を立てる身、その覚悟に偽り無しと見ています」
「ええ。火遊びでしょうね、お互いに。略奪婚という話にはならない」
自ら口にすることで落ち着いてくれるはず、だった。
しかしきつい言葉を口にしてしまうようでは。
「だから安心しろなんて言わないでしょうね? なんでこんな思いしないといけないの? 私しっかり留守番してたよ? アサヒの家からも人を出して、いろいろ用立てて。あっちゃいけないことだけど怪我とか捕虜になるとか、いろいろ心配して……」
理屈はいいから共感しとけ……伯爵令嬢の悪口でも並べて……素直に従いたくはないものだが、やはりセオリーだったか。
「『生きて帰って来ただけ良いじゃない』とか言われたけど、私たちのクラスで戦死する人なんている? ただの正論マウントだよね」
「自分でも分かってる、いまの私が面倒くさいことぐらい。だけどあんまりじゃない?」
「ごめん、こんなこと言われても困るよね。でもイーサンには言えなくて! 顔見たらもう、腹立って腹立って」
こうなっては押し黙るほか男にできることはない。
それでも何か言わないと、ますます……
(トモエも浮気すれば気が済むんじゃない、とか?)
黙れ逝かすぞこの幽霊……いや本当に黙れ。
「馬は放ったな? 女性は馬車の陰に。侍衛は盾構え、半円陣を組み土手下まで退け。ピーターは刑部卿宮さまに受け入れの打診、ハーヴェイは建設現場に応援三十を要請」
そして三通九条の矢をやり過ごしてのち上がり込んだ宮さま邸では平身低頭のほかできることもなく。
「急な雨宿りをお許しいただいたことお礼申し上げます。後片付けも全て済みましたこと、併せて報告いたします」
「中隊長、いやほかならぬ君が言うことだ。心配はしていない」
「ではお優しき宮さまに代わり、私から」
しっかり者で通っている北の方さまにも正直に答えるほかないのであった。
「順に申し上げます。私と夫人の間には何事もなく、この件はデクスター男爵のしわざでもありません。詳細は控えますが、宮さまには一切のご迷惑がかからぬことにも確信があります」
「めったとない外出に重なるなど時雨にしても都合が過ぎる、つまり由縁は内にあり……なるほど当家に難は及びませんわね。ならば私にもできることがあるようです」
第二夫人に任せていたトモエを掻い抱くように連れて来たのはそれからすぐのことで。
「うらやましく思います」
意図は知らず、激烈な一撃ではあった。
人妻相手に遠慮せざるを得ない男の身ではとても踏み出しようが無い。
「私と宮さまは母子のごとき年の差で、宮さまとそちら(第二夫人・刑部権大輔の娘)がまた、まるで父娘。これでは悋気も諍いも起きようがありませぬもの」
これまたある種の正論マウントには違いない、けれど。
じっさいこれだけ年長ならば無意味とはとても言えないわけで。
「同じ時を過ごし、肩を並べて歩めばこそでしょう? すれ違うことも身をかわすこともなく、何かあれば真っ直ぐ向かいあい、見つめあい、話しあう」
(そして至近距離で罵りあいひっかきあい物を投げあう)
(雅語よ雅語、そういうことにしときゃ丸く収まるの!)
彼ら彼女たちは幽霊である。
その言葉にも霊性……霊気が乗っているのであれば、言霊信仰もあながちウソとは言い切れない。
つまり「至近距離でのあれこれ」が現実化するのもやむを得ないのである。
「宮さまにまで迷惑かけて! トモエ、君は何をしているんだ!」
妻の危急に駆けつけた夫の勇姿からはそっと目を逸らしておく。
後ろめたいからではなく、あまりに勇ましきその姿を映すことなど無きように。
タイはゆがんでるわ腰からシャツが覗いてるわ、らしくないにもほどがある。
「ヒロ君もヒロ君だ。男が女の愚痴を聞く、その心に覚え無しとは言うまいね」
おお、後ろに見えるはアロン・スミス君。久しぶりだね。
相変わらずの忠臣ぶりは聞こえているよ、わざわざ見なくともわかるさ。
だから捧げ持ったその白い手袋、しまっといてはもらえないかな。
「いやらしいこと言わないでよイーサン、だいたい元はあなたが……」
犬も食わない……ああジロウ、ミケに覆いかぶさっとけ見せ物じゃないんでね。
しかしどうするよこれ、うまいこと逃げ……退出するはずのタイミングで。
「ふ、ふえ、ぶえええええ」
これはありがたい、いえ申し訳ありません隣室の若君。
幼児のお昼寝を妨げるなどもってのほかの大罪、深くお詫びのうえただちに退出いたします。
ほらイーサンもトモエも、打ちひしがれてる場合か! できないわけじゃないって李老師のお墨付きもあるんだから!
「お仕事にお交際、若い方々もお忙しいとは存じますが」
「ようやく都に帰って来たのだ、ご夫婦でゆったり話し合ってみては」
ベテラン夫妻に促されるままデクスター男爵夫妻を同じ馬車に放り込み、ようやく太い息を吐く。
頭をよぎった懸案はいったん捨て置くことにした。犯人も動機も知ったことではないのである。
 




