第四百二十三話 金貨500枚 その2
「そうへこむなよクリスチアン、補給に出先がどれだけ助けられたか。ウォルターさんも……」
袖を引かれて振り返ればイセンが首を振っていた。鼻の小じわがやめておけと告げている。なるほど慰められたところで傷ついたプライドが癒えることもない。
「そもそもがクリスチアンの仕事じゃないだろ?」
内蔵寮は小さな官庁だがそれでも助(少輔クラス)は十人から存在する。その中にあってクリスチアンの担当はその何だ、「宝物庫」とでも言うべきか……ともかく問題の起きたいわゆる「金蔵」とは毛色が違っている。コンラートの口ぶりにも現れた王国の良識とかいうアレに鑑みるならば、ナマの金貨という無個性にして何より下世話なシロモノを大族ノーフォークの若君に扱わせるはずもないのであった。
「余計な気を回さないでくれ。当事者ゆえ追及に関われない、ならば諸兄に任せる。それだけだ」
言い捨てて視線を外していた。艶めくその首筋に動揺は浮いていない。
少し前なら悪あがきするようなところもあったものだが、それこそ意地をかけて。
「なら僕が請けるさクリスチアン……それとヒロ君、暫定だけどこれ決算書。将軍任命から商都での解散まで」
有無を言わせるつもりはない、そのことだけはよく分かった。
さらりと流したがるのは論理の組み立てに困ったときと決まっているのだから。
「すこし休んだが良いんじゃないかな。恩賜の邸宅にも手を入れたいだろう?」
手柄を立てた、それも本分本領で。恩賞を得た、それも破格の。ならば譲ってくれても良いところと、言わで語らぬイーサンの頬もずいぶんと痩せている。
「金貨だが、どうも王宮外へは出ていないんじゃないかと……いや悪い、任せるさ」
ひとりにかかずらわる間にも机に積まれた書類の山が消えていく。
出征組留守番組を問わず適当につまみ上げるや去って行く小隊長たちの背に思う、なんだろうこの……事務から開放されてうれしいはずが……寂寥とでも言うのだろうか。
「悪くない景色ですよ中隊長どの」
年齢と職位の差から来る圧を感ずまいと意地張りがちなクリスチアンには珍しく改まった言葉づかいだった、その敬礼は斜に向いていたけれど。中隊長執務席の背に立てかけた師団旗を見つめている。
「獅子の紋章を前にして恥の上塗りというわけにも」
「背にする日も近いさ貴官ならば」
接してきた中隊長もこれぐらいの気取りは口にしていた、ような。
「いいかげん演出に頼りすぎだヒロ、暑苦しい」
それでも去り際ふたたび目を留めるあたり規整にうるさいノーフォーク家若君のお眼鏡にもかなったらしい。
肩を並べて退室がてらに振り返れば、戦塵に多少の褪せを見せつつも師団旗の金糸銀繍は変わらずやわらかな輝きを放っていた。
やはり悪くない。他行の隙を突いてこの椅子に座ってみたがる輩が増えると思えば。
そして歩み出せばどこまでも続く蒼穹、その下にある王宮も方を象って広い。
東西10km南北15kmともなれば移動もひと苦労だが鞍上アタマを冷やせる利点もある、他行先が近衛の対極とあればなおのこと。
「ご威光盛んなるに以前に変わらぬ細心やかさ、さすが立花典侍さまのお目は確かと申しあげるばかり」
古き世だ、男も女もそこで器を測られる。鼻白んではいられない。
「こちらに寄らずはいられない相変わらずの小心、お笑いください」
寄らずにいられぬ素敵なお局と世辞を返すわけにもいかなかった、この日に限っては。態度で示すまでもない尤物相手だからこそ態度で示す必要もある……ってこれもうわかんねえな。
「あまり大ごとにされてはロードリクさまのご評判にも関わりましょうものを」
背筋を少しばかりくつろげた次席掌侍どのの挨拶が――やはりそのお話ですのね、ぐらいのところだが――いつものようにめんどうで。
「アシャー家を叩けるならば喜んでという方々も多い、困ったものです」
申し向ければ、まあこぼれんばかり満開の笑顔が――態度で示す、その見本として事典に載せたくなるほどの――返って来た。
まさしく協力を求めに参りました。だいたい叩くつもりなら話し合いになど来ませんて。
(そりゃ殺すなら鞘は鳴らさんわな)
(後宮の理屈はまた別なのよこれが)
「王子殿下のご本意ではないこと、近衛中隊長にも任ぜられる方であれば」
担ぎ手の期待に知らぬふりで乗ってこその貴人ですよねわかります。
でも嫌なら言えばその方向で調整してくれるんですけどね。
「征北大将軍殿下は凱旋を差し控えられました、あるじとして振舞うことを許された新都においてすらなお。恐れながらご英慮との囁き、しばしば耳にするところです」
以前にも触れたが王国における凱旋とは「軍を解散せずに都入りすること」である。よほどの大戦でよほどの大勝利を収めない限り認められない……ふつうは遠慮するものなのだ。
近年の戦を例に取れば、小心と評判の建威将軍など遠く商都の地で解散式を執り行い鶺鴒湖でも躍起になって兵を散らしていたそうな。
にもかかわらず国王陛下のお膝元で、許しも得ずに凱旋じみたパレードをやらかした王子サマがいたのである。手勢二千と事情に疎い若手五百を募り、迎えの人士がやはり三千からの大盛況。
何のために兵を散らしたかと、誰の責任になると思ってんのかと。
幸いにして陛下のご機嫌うるわしく――将軍閣下に邸宅下賜の綸言があった以上「風向き」は定まったのである――口うるさい廷臣連中もその口を拭ったけれど。
ですからここは厳しい顔せざるを得ないわけです、薄い顔ながらも。
そうすると相手もカチンと来るわけです。
「雅院におかれては各所へのご配慮が過ぎるかと、これはもっぱらの噂」
みんなそう言ってますよと来た。王子を担ぐ連中の卑劣さと来たらこれだ。
(でもさっき「しばしば耳に」ってヒロ君も)
(心に間仕切りを作るって大事なことよピンク)
そうだアリエル、大事なのはそこじゃない。
アスラーン殿下はメル家に逆らえない弱腰であると……言葉の綾か本気の勘違いか、正すべきか誤解させとくのが良いか……躊躇の沈黙と能弁と、いずれが金であるものやら。
「はた将軍位におわしたために王子殿下のお立場へのご理解が、あるいは」
征北大将軍を擦る体で建威将軍をディスるのやめーや。
雑号将軍ふぜいが王子サマと張り合おうとか、凱旋できなかった僻みだとか、そういうことじゃないんですって。どうしてこう後宮ってのは……もとい、後宮を「相手に回すと」ズレるかなあ。
「ええ、将軍位にあると軍監職への理解も及び難いもの。ウマイヤ閣下からはよくお叱りを受けました」
スレイマン殿下には差し置いてはならぬ「上役」がおいでであったはず。
加えて東部イゼル戦線の主将がご息女シーリーン将軍ですよ? こちらも凱旋どころか王都に帰還してすらいないんです……いや、それはそれで難ありだけどお子さんもそろそろだろうし多少はね?
「ひとえに雅院の肩を持つわけではなく、むしろ『軍部が関わってはならぬこと』につき厳正なるお考えをお持ちの方です。今回の件もその観点からお腹立ちと」
アスラーン殿下のお舅さん(ふたりめ)ではあるが、過剰に肩入れするとは思えない。むしろメル家の容喙に対する抑止力をもって任じているふうがある。
ただねえ……とにかくうるさいんだわ、あのかんしゃく玉。王室の現役では最年長だし軍部の支持は厚いしで、爆発されると無視できない。
つまるとこ筋さえ通しておけば仕事のしやすい方なんだから、頼みますよ。
(面従腹背ってそういう意味なんだな、わかったぞ)
(役人の共通スキルってこうして生えてくるんだねえ)
幽霊諸君にはなにか誤解があるようだが、ともかく。
「貴重な情報ですわね。後宮奥深くにあっては耳にする折すら……」
どうやらご理解いただけたもよう……ってなんだアリエルうるさいな、後にしてくれ。
(ヒロの談話を後宮語に翻訳するとこうなるの。「ウマイヤ閣下は雅院の味方ではない。ならばスレイマン殿下の味方に引き込む余地あり」……)
それは誤訳だ、いや曲解にもほどがある。
(いいから聞きなさい! まだ続きがあるの!……「って、ヒロが言ってた。発言の責任はヒロにある」だからね?)
ことほどさように軍部と後宮は「遠い」。なかなか情報が入ってこない以上に、そもそも互いの「理屈」についてどうにも理解が及ばない。特に王妃殿下閥はその何だ、寝技しかお持ちでないものだから。
「ウマイヤ閣下は中立。軍部の介入また利用には拒否感が強い、ここは詫びを入れるべきところ……そうおっしゃいますのね?」
だが次席掌侍さまはほんとうに、ほんとうに分かるお方なのであった。
「これはそちら部内のお話、ならば『紳士にお任せすれば間違いが無い』そうした類のお話であるやのように……喜んで承ります」
しかもほんとうに、ほんとうに話が早い。
バカ意地っ張りの近衛のバカ共に見せてやりたいわ。
(ヒロくんも相当アレになって来てるけどね)
(心に間仕切り、OK?)
「では……雅院よりスレイマン殿下あて宴のお招きが、明日にも届こうかと」
兄貴が弟を労ってやる、そういう図式にならざるを得ないけれど。
やらかしたんだからそこは我慢してくださいとしか言いようがない。
「『ぜひにもご出席たまわりたきもの』との仰せを内々に賜り、かくはまかりこしました」
大仰に袖を広げ頭を下げたその瞬間、なぜか脳裡に鬼キャンが駆け巡ったけれど。
なんどでも言う。いと尊き王国に平和の続く限り、幸いなる近衛中隊長の務めとは使い走りに収まるのだと。
「私どもとしては『前建威将軍閣下のご欠席があるならば』と申し上げます」
あ、そうか。俺まで出ては中務党や兵部党に嵌められかねない。
宴席回りというかそのあたりの理路はさすがの後宮、さすがの王妃殿下閥。
「やはりこちらに伺ったのは正解でした」
「改むるに憚り無きそのお身軽さ、ヒロさんが羨ましく」
陛下親任の建威将軍も近衛中隊長も叩くわけにはいかないがヒロ・カレワラ氏なら擦り放題なのである。というかじっさいまだまだ脇が甘い。
「私も身重き方々の難しさ、改めて思い知りました」
勢力家は子分が多い。清濁も玉石も月からスッポンまで丸呑みするから太れるのだ。
これが掌侍どのひとりならスレイマン殿下に凱旋ムーブさせるようなヘマはしない。
「とてもとても。皆さまをお招きしようにも欲する所に応ずるあたわず……わたくしどもの弱みですわね、どこまでいっても」
お金持ちでお色気過多の王妃殿下閥だが、それだけではどうにも。
「哀れな板ばさみを救うと思ってお味方くださることは……」
それとこれとは別である。
敵味方、後宮では重い意味を持つらしいし。
「掌侍さまが王妃殿下への忠節を思い、かくは参上した次第です」
次席掌侍どのにはどこか同じ匂いを感じるのである。
そうして同情が先に立ってしまうと、これがどうも。
(立つものも立たんってか、やかましい)
(事実そういうものなんだ、お嬢さん)
(ネヴィル、お前……繊細だったんだなその顔で)
「どこまでいっても色気の無い話になりそうですわね」
それでもパツイチやることやったほうがお互い理解が早い、話が進む、ものでもあろうか。
……と、そうした心の動き(に伴う体の動き)に対して女性はとても敏感である――などと言ってはいろいろな方面からお叱りを受けそうな気もするが――少なくとも次席掌侍さまはたいへんに敏感である。
「同情が実を結ぶことはない、泣きを見るばかり。中隊長閣下もご存じのところかと」
ざんねん! こうかんどが たりない!
ともあれ古き世だ、この程度のやり取りで鼻白んでもいられない。
「これは……なるほど、なればこそ安心して打ち明け話もできようもの」
厚化しょ……もとい、ともあれ口元に痙攣が走るさまが目に入った。
すこしばかりご機嫌を損ねたらしい、これが退出のしおか。




