第四百十話 教本に載ることもなく その3
光に目を射られた。
現れては消えまた現れる光の線、光芒とでも称すべきか。
吸い寄せられる己が目を確かめたくて傍らを振り返った。
「まこと鶺鴒は道を告ぐ。ええ、敵が突破を図るとしたらあの『線』でしょう」
すでに鶺鴒子なのだろう、「疵」の名を許した男から見た俺は。
ともあれ確認は取れた、信頼と共に。
ひた押しが奏功すれば対抗手段は限られる。
総攻撃で前がかりになるタイミングに合わせての――陣の連携、その緊密に隙が生まれる瞬間を見計らっての――カウンター、敵に残された勝機など他に思い当たらない。
なればこそ敵の後陣もここまで動こうとしなかった。
妄動を控え機を窺う、「厄介な兵気」とはよく言ったものだ。
「『要は縦』との仰せですが将軍。現況、それだけでは」
ああ、また光った。
線が俺の目に飛び込んで来る。
……アベルの言うことも確かだが、ここはどう記すべきだろう。
そう、あれは岩波の少年三国志だったか。
「八門の陣」……嘘臭いと鼻で笑った俺はやっぱり子供だった。
問題はその存否には無いのだ。そこに記された一面の真実だ。筆に寄せる想像力だ。
いまの俺には分かる。多少なり積んだ経験のぶん視野が広くなったから。
陣は縦に押すものだ、他の方向には弱い。
だから八門であれ魚鱗であれ「ここから衝けば陣は崩れる」、そうした道は確実に存在する。
問題はそれが知識によらぬこと。「生門から攻めれば勝てます、『書物に書いてあるとおり』」とはいかない。さすがにそこまで甘くない。
その道筋は突如生まれる。
戦況の変化にしたがい陣の移動にともなって。
時に理の当然として、時に全くの偶然により。
俺はその道筋に――この戦場で、いまこの時生まれたそれに――目を射られていた。
敵が飛び出してくるとしたらあの「線」あの「光芒」を措いて他にない。
一時方向、右翼バルベルク隊と二陣リーモン隊その接合部。
エミールもコクイ・フルートも戦巧者だ、隙間など作らない。開けば即座に埋めてしまう。
つまり現実には生じようもないはずのその隙間が、しかし認識の上では確かに存在していた。
光でも当たったかのようにきらめいては目に飛び込む。
「まさに備えを要する。先ほど来の献言、全て的確だアベル。続けてくれ」
「『陣は縦に押し、横に斬る』でしたか、どうしても気になって」
陣は縦に押せ、原則中の原則だ。だが例外のない原則もまた世上存在しない。
アベルは持てる知識を総動員し、的確に取捨選択し、眼前の現実に適用していた。
悪くない、いや立派なものだ。
だがそのアベルにしてなお見えぬものか、あの光芒は。
「『陣は縦に押せ。斬るならば横に真っ直ぐ』だ」
格言のニュアンスが告げる厳しい現実を俺は改めて実感していた。
……目に映る光芒の道はなるほど「横に真っ直ぐ」で。
「横」、描写としては不正確だろう。敵陣から突撃をかける以上どう考えても「縦」あるいは「斜め」なのだから。
だが認識としてはたしかに「横」を向いていた。
「真っ直ぐ」、物理的には不可能だろう。こちらの陣を突破する以上は抵抗を受け曲折せざるを得ないのだから。
だが認識としてはたしかに「真っ直ぐ」だった。迷わず衝かねば開かぬ道と映っていた。
「鶺鴒閣下に申し上げたきことあり」
「その、何が違うのです?」
かぶせられた疵が堪え切れず怒鳴り散らした。
「眼前のアレが見えぬなら口を挟むな、長袖の小童が」
……なるほど見えぬ者には斬りようも無い光芒だ。
まさしく「斬る『ならば』」。万人に許されたものではない。
「アレが視える器局をお持ちなら、なぜせめて第三陣を本営とせぬのです」
歴戦の戦巧者はみな同じことを言う。
ウマイヤ公爵の前では我慢も遠慮もしたものが、現場に出れば血が昇る。腹が立つ。
「私も長袖扱いか?……いや許せ、逆ねじ軽口は王国貴族の悪癖だ」
第三陣、それは文官出身中隊長の――それこそイーサンのための――指揮所だから。
「陣は縦に押すもの、『斬らせぬ』対応を取るべきものでありましょう。自ら禦ぐ『能』をお持ちでありながら……」
守備型の布陣を取るにせよ、攻めの姿勢を。積極防衛を。全軍の指揮を取るならば第二陣においてすべきだ。陣を斬らせず押し切れるはずだ。あなたは私が認めた鶺鴒子爵なのだから……疵の主張は痛いほどに理解できる。
「控えよ『疵』。将軍閣下の断は下っている。動かずにいた敵後陣がエドワード・キュビの類なら何とする」
だが最初から最後まで、俺の意図はほぼそこにある。
スゥツは完全に理解してくれたらしい。喜ばしいことだが……現状では火に油。
「我らニコラス、エドワード卿はもとよりキュビ本軍にも破られるものではない。鶺鴒におかれても同じはず」
見えぬ者には斬りようが無い。
だがそれは、見える者その全てに斬れることを意味しない。
認めたくないが目を逸らすわけにもいかない事実だ。
「『疵』、卿はあの線を斬れるか? あの経路を通ってニコラス、バルベルク、リーモンの陣を、その応戦を反撃を斬り抜けることができるか?」
横に真っ直ぐ、言うほど簡単ではない。むしろ至難の技だ。
「いまの私にはできない。浮かんでは消える線が――突破口が、敵に残されたわずかな勝ち筋が――見えるだけだ」
だがそれを成し遂げる異才が世には存在する。
戦場が見えるヤツなんかいるわけない、土埃のなかを目の前の敵とやり合ってただけだろう?……時おり聞こえるそうした論調に俺は賛同できない。
誰だって見たことが聞いたことがあるはずだ。
発掘前から出土資料が「見える」学者がいる。
何千と並ぶ子供の書初めから一枚を瞬時に選ぶ書家がいる。
初対面に握手を求めるや「ああ、やっぱり。肩こりおつらいでしょう。腰診てもらうと良いですよ」と言い放つ柔道家がいる。
電話帳よりぶ厚く見える英文契約書をパラパラめくるや「えぐっ。ここだけ検討しといて」とアソシエイトに言い残しキャバクラへ繰り出す弁護士がいる。
タイトルを総なめにする棋士がいる、ホームラン王がいる……どの世界にも、選りすぐりの職業人専門家が集まる中にも、傑出した異才は存在する。
「やれる敵と決まったわけではない。だがあの線を当然のごとく斬り裂く者もある」
軍人稼業は一敗地に塗れれば文字通りの死。
この場にあるのはその全員が勝ち残り生き残り続けた者だ。
見える者斬れる者がいないだなんて、そんなはずがない。
事実、俺は……
「いかな敵にてもあれ、陣を斬り破られるなどあってはならぬことです。それは恥、いや敗亡です」
そうだな、疵。でも認めてるじゃないか。
恥よりも敗北は重い。
「陣を斬られる、なるほど不細工この上ない。敗亡の危機だ。だが負けではない」
今回の戦術は、いや戦略か、言ってみれば「プランB」の発想に過ぎないのだ。
しかし簡単に見えるその発想が俺たちにはあまりに重い。
才により能によって勝ち残り生き残り続けてきた軍人がプランBを持ち出さざるを得ない時点で――つまり前線の重陣を突破し本営に迫る天才に遭遇した時点で――覚悟すべきは敗亡、死だ。
だがそれでも。
「世の中には異才がある、事実だ。とてもかなわない、事実だ。だが諸君はそれで、それだけのことで負けを認めるのか?」
俺は認めない。認めてたまるか。
「異才を前にして陣は斬られる、当然だ。万全の策も必勝の趨勢も覆る、当然だ。だが知ったことか、勝利こそ我が責務」
目を射る光芒が消えた。
入れ替わるようにして喚声と馬蹄の響きが、干戈の鳴らす金属音が、現実の「圧」が押し寄せる。
「引き受け叩き潰す、それだけのこと」
仮にもエミールだ。王の足ニコラス、リーモンの懐刀コクイ・フルートだ。
異才だろうと無傷の突破はありえない。兵の精力は消耗し馬の行き脚は衰える。
「将軍より本営あて、近衛師団旗ならびに将軍旗掲揚。奏楽」
それでも前線を修羅場を切り裂き駆け抜けた者ならば将軍旗を見て逃げはしない。必ず勝ちを獲りに来る。
ならば誘引し、最強戦力をもって――俺で迎撃する。
「将軍より弓兵あて、一斉射撃。あらん限り浴びせよ」
削り倒す。方向転換の余地も潰す。逃がしはしない。
「報告。敵騎兵、被害を出しながらも隊列を整備。こちらに向き直りました」
先鋒の背を守ることができた。いよいよ全軍が敵にかかれる。
この戦は勝ちと決まった。
「これが最後の戦闘となる。諸君の健闘を……もとい」
クソ不細工な陣を布きながら気取ってみたところで。
体裁など知ったことではない、戦に勝って俺も勝つ。
「まさに好敵、あれが最後の手柄だ。貴様ら存分にしろ」