第三百九十四話 威
「お待ちしておりました使者どの」
広げた腕をそのまま背に回したくなる衝動を抑える。
男の後ろに控える若者……ジェレミア・ガルネッリの視線を意識して。
「議場はあちらに。私もすぐ参ります」
予定通りの嘘。
徽章肩章フル装着の詰襟に着替えるだけでもひと手間で、盛装すれば並居る官吏に道を譲らせる都合から運ぶ歩みも限られる。
ようやくたどりついた議場正面、大扉が完全に開くまで待つ姿のマヌケぶり……は、左に居並ぶふたりが救ってくれた。即時起立し踵を鳴らしている。
右列メル家のふたりが釣られて椅子を立った時点で勝敗は決していた。
なお駄目押しに見慣れた微笑に着席を請う、右腕をその肘に添わせつつ。
左腕は前に回した、男たちの視野を遮るため……のはずもなく、委任状を呈示するため。
上席に腰を下ろす、フィリアと視線を交わしたまま。男たちの誰よりも先に。
つまりメル家のお使者どの、さんざん待たされようやく着席を許されたわけで――禁ずるどころか起立から求めていないけれど――これ以上お待たせするわけにもいかない。
「雅院までのご足労また提案へのご賛同に謝意を表します」
メル家は商売を、円座牧場の預託商法を手仕舞いする。
王国はメル産牛馬また皮革の販路の維持拡大を確約する。
以前も述べたところだが、イーサンが詰めた素案その条件は穏当にして率直。
メル家は実利を得る、当初の目的を果たせる。
ならば飲むしかない、全面降伏することだ。雅院まで足を運んでしまったからには。
「我々にも言い分がある、ヒロさ……」
陪席に居流れる若者が卓を叩く。
うわずっていた使者の視線がようやく定まった。
「王国の流儀も我らと変わらぬようで安心しました。中隊長閣下にもお変わり無く……」
挑発されて肝が据わる、どうやらご同業の通弊らしい。
「……ええ、ヤドカリが貝を変えたところで」
ヤドカリ、ヤドカリねえ。なかなかに痛烈だが他に喩えはないものか、詩歌に填める語としては……いや、率直は軍人の嘉するところでありました。
「ヤドカリを叩きたければ貝を砕かぬことには」
王国の権威に――その傘に俺が隠れていると言うのであれば――楯突くかと。
この日ばかりは安心して、いや喜びをもって挑発を返すこともできた。
「中隊長閣下、雅院におかれては……」
涼しげな声が耳に心地良い。
ええ、両家友好のために乗り出されたのでした。
「訂正いたします、女蔵人さま……同じ貝を背負ったヤドカリも多いのです、お使者どの」
左肩だけすくめる横着はお許しいただきたい、非礼への返事として。
捕捉はフィリアに……困ったふうで苦笑を浮かべる淑女にお任せいたします。
「北方三領にも同様の約定をと、バルベルク・クロイツ両侯爵家から雅院に好条件のお申し出が」
私を含め、王国の威を借りたヤドカリ三兄弟ということでひとつ。
「ですからこうして順番待ちをお願いしたというわけです、メル家の威を借りて」
ソフィアさま……サクティ侯爵閣下のご機嫌を損じては話自体が壊れてしまうからと。
だからと言って議場にエミールとコンラートを連れ込む必要は無いんですけどね。
「ご謙遜も過ぎれば……中隊長閣下のご威光にかかわりましょう」
「メルの威に縋るまでもない話です」
侯爵連から見れば小娘に過ぎないソフィア様、その「威」を借りたところで説得できない。
だから。「交渉に当たる俺の顔を立てろください」と、まあその。
(ヒロの顔じゃなくて近衛中隊長の顔よね)
(けっきょくヤドカリ人生じゃん)
(重き貝を背負うてヤシの木を這い上るがごとし)
(それやドカリじゃなくてヤシガニだぞネヴィル)
……ええ、ご想像どおり照れ隠しなんですけども。
「お待ちください、すると両侯爵家におかれては当家総領よりもヒロさ……カレワラ閣下に重きを」
あ、分かっちゃう? 分かっちゃうかー。損だねジェレミア君。
「方二十里(一辺10km/王宮勤め)を同じくする……要は地の利に過ぎないよジェレミア君」
ウソです。
若輩ながら俺は鶺鴒子(鶺鴒子爵、カレワラ家の美称)の当主である。サクティ侯爵レディ・ソフィアとそれほど違いがあるものでもない、身分において。
「正式な委任状を提出された近衛中隊長閣下である」
「そこから疑われるのでは埒が明かない……ジェレミア、君の見解は?」
エミールはともかくコンラートも巧みなものだ。
ならばと正使に視線を据えたところが、安堵の表情を浮かべた。かたわらを振り返る。
この小物ぶり、ある意味もっとも恐るべき相手だ。追い詰めてはいけない。
謝意に代えて小さく頷いたジェレミアの思惑はしかし、やや異なっていたものか。
まさかの叱声、その厳しさと来たら。
「敗け戦と認識すべきです正使どの」
どちらかと言えば「才子」寄り……そんな認識は改める必要がありそうだ。
「重坂関で不意を打たれた。なお『ヒロ君』の幻影に囚われ、懲りずにその庭・宮廷まで引きずり込まれては」
どうにか落ち着いたところを見やれば、正使どのもなかなかに小癪なツラだった。
均整の取れた、いかにも廻りの良さそうな……外交使節らしき外交使節、ようやく本領発揮のターン。
「威を借りたのは私でしたか、非礼をお詫びいたします近衛中隊長閣下」
認知のゆがみ(?)が消え去れば、そこはメル家の軍人だ。
まずは牽制打、ソフィア様の威を借りて。
ただ逃げては噛みつかれ食い荒される、それが敗け戦だもの。
「ご提案、当初の条件にて全て受けます。なお、細目は……」
間合いを開けたら全力逃走。
条件丸呑みで両翼、侯爵家の介入から身をかわしたところで……視線を上げていた。
「いえ、中隊長閣下のお耳を煩わすべきにもあらず。改めて人を遣わされたく」
敵司令部から離れたところで「末端」を相手にする。
要は引責の殿軍かぁ……クソ粘りに粘るんだよな、メンツをかけて。
それにしてもお使者どのの顔色!
みるみる頬に艶が乗っていく。完全に息吹き返していた。
(おっさんは負け方を知ってるからねえ)
(知らないヤツは勝つ前に死ぬからな……俺じゃ参考にならねえか。ウッドメルとミーディエだよ)
(負け方覚えると勝てなくなるぜ)
だから勝ち続けるしかないと言ってるのだ、少なくとも今しばらくは。
「ええ、ノーフォーク公爵家に話を通しておきます」
メル家「使番」を相手の戦、骨折り手柄は譲りますとも。
クリスチアン本人が出るわけもないけれど。
「なるほど近衛中隊長……かつて征北将軍閣下が通った道でありましたか」
別れ際、細められた使者の目を見るに。
目的は達成できたと見て良さそうだ。
日が高くなる前に交渉は果てた。庭の白さが増してゆく。
だがいいかげん撤収しないと迷惑かかるかなあ……などと思いわずらうべきでもない、さんざん威張り散らした身にあれば。
「総領はヒロさんと私を……少なくとも在京の姉を噛み合わせる予定だったはず」
ソフィア様の悪い癖が出た――と言っては酷か。「遠くにあって全てを仕切る」、鷲鼻アルバならば激賞する資質だもの――ともかく「根っこのところ」で現場に、その心理に疎い。
要するに正使どの本来の役目は「使番」。メル家でも優秀を謳われる男なのだ。
それが「先陣」フィリアから「あなたに任せる」と総指揮権を与えられては。
くらんだ目に「近衛中隊長の威光」を徹底的に見せびらかした。
絵図を描いたフィリアを光芒の裡に隠すべく……相手がソフィアさまでは気休めに過ぎないけれど。
ともあれ、今度ばかりは立場逆転。
「威を借りる」(ふりをした)のはフィリアである。
以上、自らの威を――権威、威光、暴威を――以て淑女を守る。
それは一面、男が女に対して優位を取る振舞いには違いない。21世紀チキウ人から見れば前時代的ではあるけれど。
「どうかな、エミール」
「参考にする、言わなきゃ俺も厳しいんだろう? 説教のお礼に俺からもひとつ」
今ならとげとげしさ30%増量……隣にフィリアさんキャンペーン実施中!
「ヒロ、お前も『こっち側』だ。必要なら女子供にも容赦しない」
エミール君さあ、イラついてても女性の前でクズ男発言はいかんでしょ。
「自身を駒扱いする男が他人を駒にできないとでも? まさに軍人の鑑さ」
皮肉の色が強い、すなわち賛辞であった。
俺がエミールに見ているものをエミールも俺に見ていたと。
「自覚が無い? 追い詰められたことが無いのか。あんがい幸福だったんだな」
認めざるを得ない。俺は環境に恵まれている。
今さらそこに負い目や劣等感を覚えてもいないけれど。
「私たちみなにとっても幸福なことですね」
不必要なまでに社交的な物言い、何度聞いたことか。
「溜め」である、重い一撃を食らわす前の。
「無意識ながら慎重に立ち回っているのでしょう、追い詰められないように。なるほど、軽率に暴発する男性よりはよほど危険です」
エミールを誘ういたずらな視線はさすがに遮らざるを得ない。
いや、フィリアの側からそっと背中に身を寄せてきた。
「ここは中隊長閣下のご威光に甘えます」
これはどうやら嵌められた……いや、この日に限っては必然の結末か。




