第三百九十三話 男の子 その2
「停止解除へのお力添え、尚侍さま御前にてお礼を奉るべく参りました」
実のところは大祓を仕切るデュフォー家と連絡取るために伺ったのでありますが。
ヒロが来たからといつものようにエシャ子を出したのはあちらの失態、であったかもしれない。
「敬語、完璧ですよね。私なんかしょっちゅう間違えて笑われるんです……」
案内がてら、あんがい愛嬌あふれる顔がふりかえりざま凍りつく。
鼻梁めがけて伸びる拳、受けて右肘に痺れが走る。
「やめとけエミール……そこの女官、貴様は失せろ」
コンラートが肩から止めていなければ俺が怪我するところであった。
「ヒロも。3人で歩いてる分には俺たちは対等だ。だが外からあいさつ受けたその時は」
中隊長に連れられた小隊長、部下である。
上司を侮辱する者あれば排除、その理屈を正当化できてしまう。
「お前でなければ止めてない……エミールもだ。頼むよ、こっちは25過ぎてんだ。ガキの頃の仕返しとか見てるほうが恥ずかしい」
そのエミールは19歳、ならば7~8年にはなるか。
いわゆる童殿上――成人前から宮中に出仕することだが――で彼が受けた仕打ちは、21世紀チキウの価値観で言えば虐待に近いものがあった。
多くを語ることは無いし聞く気も起きない。だが少なくとも……卑俗な言葉を許してほしい。「キン○マを握り潰される」ような扱いを受けていた、それは間違いないところ。
その言葉を教えてくれたなるへい19世の乳母(五児の母)によれば、「3人目でようやくわかったんですけどね? おち○ちんなんですよ男ん子ってのは」
哲学的な、あまりに哲学的な命題は時としてあまりに形而下の……なんだその、極彩色を帯びずにはいられない。
(動揺が顔に出てるぞ未熟者)
「あらいけない! いえね、立たせるように仕向けなきゃいけないってことで」
しょんぼりしてたら優しく包む……も、あとは煽るか放置でよし。勝手に立ち上がる。
いきってるぐらいが「ちょうど良いあんばい」で、冷や水かけるべきではない。
最悪なのが「握り潰す」……悪意の抑圧は当然のこと善意の過保護に要注意、だそうな。
聞くからに一世の高見、これぞ野の遺賢と深くうなずいた男爵閣下、採用を即断。
「これで坊主どもにもめどが……いえ、出世とかじゃなくて。若君さまのお付きに叱り飛ばしてもらえれば……妹が嫁に行ったもんで、あたし一人じゃ目が届かなくて」
そんなカレワラさん家の育児問題はさておきエミールである。
「握り潰す」のがなぜいけないかと言って、「立てなくなるから」。
それは男において根源的な恐怖であり、なればこそ立ち上がり「男の仕事」に精を出し、そそり立つまでの成果を上げたエミール少年には敬意を払わずいられないのである。
……副作用として、女性なるものへの憎悪が人格の前面に現れようとも。
「後宮の女どもには我慢ならない。『男は権力に弱い』? 断言してやる、弱者を前にした女よりはマシだ。あいつらの残酷ぶりと来たら……まして『愛憎』が絡んでみろ」
非モテ童貞こじらせてるわけではなく、誰よりも早く結婚したエミールは誰よりも円満な夫婦関係を築いている。後宮の女官たちともたびたび浮名を流してはきれいに別れ……
(客観視って言うの? オブジェクトなんでしょうね)
定期的に適切なお相手を選んでは浮名を流し、優美に過ぎる別れを繰り返していた。
女官にしてもけっこうな話で、後腐れなく恋を楽しみ名声まで得ることができる。
ただし女の側から誘いをかけるべきではない。向歯鼻梁を砕かれたくなければ。
エミール・バルベルク、まこと危険な男なのだ。
「先の見えない女が多いことは確かだな。いや、女に限らないが」
のちのち侯爵、どころか5年もすれば男爵……それ以前に15ともなれば歯を叩き折り頭髪を剥ぐぐらいの腕力を備えるに至るのだ、人間という生き物は。
そんなことすら想像できず子供をストレスの捌け口にしては憎しみを買う。「見える」連中は媚を売る。救いを求めようにも出身階層の等しい「七英」は童に関わる地位ではない。それが殿上の難しさ。
不機嫌の度を増す童子の視線に気づいたのは老権掌侍に次席掌侍。当時のエミールとは「同じ高さ」、直接干渉できる立場にあった人々だった。
「保身? 停年間近の私が? ご冗談を口にされるならまずは笑われませ」
「みえすいた媚など売るだけ損ですもの。バヤジットさまのお話し相手にと存じたまで」
恋多き女、男あしらいに長けた人々の挑発にエミールは救われた。
当家乳母の言葉を借りるならば、しょんぼりと再起不能になる前だったことも幸いしたか。
だが少年のバネとなった憎悪を、時に現れる暴威を不快に思う人もある。
「不安定な時期には違いないし、男女の問題だから」と慎ましく見守っていた某伯爵閣下などもついに堪えきれず声を上げた、「乱暴にもほどがある、どうにかしたまえヒロ君」。
名指しを受けた人物だが、伯爵閣下とは感性において相通ずるものがあるとか。付き合いも長ければいかにもマヌケ面で気安く追い使う……もとい、微妙な頼み事を任せるに足る間柄であるらしい。
「我慢ならん、君だってそう思うだろう?」
思いはすれど、俺にも立場がある。ひとに言えない事情もある。
ひょいと首を傾けて隣を見ても、中庸を知るコンラートにしてエミールに呈するは苦笑苦言……とあれば、ここで「女官の肩を持つ」ことは王国の良識に反するらしい。
近衛中隊長の「顔を潰した」のだから小隊長に「顔を潰され」ても文句を言えない。当然の報いと言えなくもない。
エミールが受けてきた仕打ちを思えば、一方的に非難もできない……八つ当たりだとは思うし、この日はついに同僚からも「そこはいいかげん卒業しろ」とたしなめられていたけれど。
もうひとつ、これは近衛中隊長として。脊髄反射の躊躇無き暴力、憎悪に心を染めながら殺さぬ程度に痛めつける冷静さ、人を人とも思わぬ気構え……刀槍時代の軍人であれば好意的に評価せざるを得ないのでありますよ。
じっさい軍を預ければその進退にはソツも粗もない。正味ほかに見当たらないレベルで。
(フィリアちゃんと会ってから磨きがかかったのも……)
(憎悪だろうな、間違いなく。このこと早くに存じ上げていれば)
(そっか。ネヴィルの寄り親だっけ)
(片意地だろうが意地は意地。これで良いんだヒロ、男なら認めてやらねえと)
(でもなんか言い訳がましいぞ、難しい言葉並べて)
ともかく。尚侍の局に勤務するエシャン知州息女の近衛中隊長に対する応接につき、軽侮……は無いと思うけど、さすがに……狎侮の感情を正確に読み取ったバルベルク小隊長、非礼をとがめるべくその顔を潰しにかかり友人ふたりに止められたという次第。
まあそりゃね?
敬語が完璧ってそれ、敬語を間違えちゃいけない地位の人……執事に対する賛辞ですもの、「身分制の社会においては」。
トワ系貴族の前で口にしたら鼻折られたところで残当っちゃあ残当で。
とはいえ問題の根が深い、そのことまざまざと思い知らされた。
頭を抱えていたところで、賢者――なるへい19世が乳母(庶民枠)どの――の存在を思い出し、雑談まぎれに諮問したところが。
「いきりっぷりが目に余る時ですか? 冷や水かけても無駄ですよ。すぐ復活するでしょ、ご領主さまだって」
金言に挟む合いの手は咳払いに限ると知った。
「気を逸らすに限ります。別なことに熱中すればそっちへ一直線、これも覚えがおありかと」
やせ我慢を支えるもの、それは自信だと思う。やはり俺の方針は正しいはず。
なにかしらこう、固い芯となるべきものを……
「ですから、男の子が分からなくなった時は……」
単純に考えるに限る、分かりましたとも!