第三百八十七話 憎悪 その3
報告を聞かされた刑部権大輔どのが茶を噴いた。
「ヘクマチアルの功績……?」
父ムスタファの失脚を「飲み下して」、難治の右京をそれでもまとめ上げたムハマド。
ムハマドと共に挙げた実績を中央政府にまるまる「返還」してみせた孫のユースフ。
15年前の事件が原因で再び左遷されてなお国境のサンバラを守り抜いたターヘル。
挙げればそういうことになる。
「罪過のほうはどう評価するのです」
「彼らの悪事は私もこの目で見ています。しかし国家に対して挙げた功績はそれを大きく上回ると……」
引き換えヘクマチアルの悪事(として数え上げられているもの)、その半ばは私闘の範疇を出ない。
表向き伝える理由としてはそれで十分。
「さらに、かしこくも聖上からお叱りを賜りました」
腐った者――あるいは「不愉快な事態」、アリエルの言葉を借りるならば「美意識に反するもの」――と向き合う姿勢について。
どう言えば良いか……宗教的な意味での「救済」が起きないものか、政治的な意味での「妥協」ができないかと。そう考えて決断を引き延ばす癖が俺にはある、湧き上がる憎悪を自覚してなお。
――今は気に病まずともよい――
――卿は若いのだから――
「『若い頃は飲み下せたものが、かえって許し難くなる』でしたか、権大輔どの」
人ごとに理由こそ違え、「妥協」が許されなくなる……?
年を重ねなければ分からない、そういうこともあるのだろうか。
「いや、そこまでに。……承りました、中隊長どの」
思い当たりがあったものか、あっさり引き下がった姿はなぜか「傲然」と呼ぶにふさわしい趣で。不釣合いとまでは言わないが……迎撃の必要をまるで感じなかったから。
香り高さに比べて信じられぬほど色づきの薄い紅茶に目を落とす。
「なるほど『枠組み』が作られた後でそれを覆すこと、我ら官人には認められませんね」
肩を落とした自嘲の笑みが「凄んだところで鷲鼻閣下とは行かないよな」と告げている。権勢家の権大輔にして――大物ばかりが出てくるせいで見落とされがちだが国政の枢要だ――その達観こそひとつの凄みであろうと、これは告げたところで喜ばれる話ではない。
だから頭を下げる。敬意と親愛を示すために。
「確認させてください。『ユースフとターヘルで争い、最終的に勝ちを収めた側がヘクマチアルの家督を継ぐ。朝堂に列する』、そういうことですね?」
目を上げたところが、今度こそ笑顔に迎えられた。
いつもの予感をもたらす例の笑顔に。
「そしてヒロさんは抗争の監督を命じられている……『争いが果てるまで』」
ええ、それですよと。
少年のような笑顔を崩さぬままで。
「枠組み」はその目的を果たせば消えてなくなる――それまで待って敗者を狩ると、そう決めたがゆえの笑顔。
勝者にせよ朝堂に列したその後ならば、廷臣どうし私闘が禁ぜられるものでもない。賞罰の対象とは国家に対する功罪であると、これは聖上が親しく裁定されたところだ。
「お役に立てませんでした。あずかった資金はお返しします」
目の前には変わらぬ笑顔。
――俺が味方しなければ分の悪い賭けと理解しているがゆえの笑顔。
「以前にも申し上げたでしょう? 対立があるなりに、たとえ収め難くとも、それでも私とヒロさんは『同じ側』に立っている。その証とお考えください」
刑部権大輔の憎悪に付き合えるだけの記憶を、経験を年齢を俺は重ねていない。
だから彼の側から俺の立場に、スタイルに「寄せてきた」。
(これがね、ヒロ。あなたの「建付け」を押し付けたってこと。行政ばかりの話じゃないのよ)
ともあれひと段落と手を伸ばしたお茶はほどよく冷めていて。
乾いた喉を心地良くうるおしていった。
「めでたしめでたし、ですわね。それにしてもギラギラとまばゆいばかりの友情をなぜ私の局で確認なさるものか、伺っても?」
……茶を振舞ってくれた人物にもお礼申し上げる必要はあるわけで。
「聖上の思し召しであるだけでも畏れ多きところ、立花閣下も関与されているとのご教示をくだされたものかと」
偉大なる穏健社会人客観派・刑部権大輔どのの感覚こそが王国政官界ほんらいの常識ではあるけれど。
「ヒロ君はそのテの圧を好まない。『己の欲せざるところ』だけに仕返しを怖がるからね。知らなかったでは通らないよ、宮さまもろとも抱きついておいて」
権柄づくで圧力をかけられることアリエルの美意識から見て不愉快であり、不愉快を覚えたならば貴族たる者必ず反発しなければならぬと言われるがまま……
(ウソつけヒロの性格だぞ)
ともあれ事毎にいちいちいちいち仕返ししてきた実績の持ち主こそカレワラ氏であると、さすがシメイ・ド・オラニエ氏にはお見通しなのであった。
「ならば迷惑料にそのインゴットを受けろと圧をかけはしないでしょうね中隊長どの?」
典侍のお局には慧眼立花の若手がそろい踏み、だが君ひとりに限ってはまだ俺との付き合いが浅いらしい……いま聞かせただろうカタイ、15年前の件。
「俺たち世代が知らぬこととはいえ、君が何を口にしたかという話だ」
いちいちにうるさいらしいからね、ヒロ君とかいう元日本人は。
「刑部の録に辱めを与えたのだから等分の報いを受けろ……ええ、それがろくでなしなりの矜持なんでしょうね!」
どう理屈をつけようがこればかりは間違いなく「上司の圧力」というヤツで。
後の反発は間違いない。
「『負け』を気に病むこたないさカタイ、芸事ならば数段上だ……幸いにして典侍さまの御前、ここで競演に巻き込むならばヒロ君も引っ込みがつくまい」
おっ、やんのか? やっちゃうか?
いま片付けられるんなら喜んで……
「いいかげんにして! あんた達がいると話がまとまらない!」
自らを差し置いて言うものではない、これが立花なのだから。
だがその剣幕にさすが「おとな」の刑部権大輔どのフェードアウトを決め込んだ。
「いや、オサムさん……伯爵閣下の凄みを見せつけられたものだから」
落ち着いたところで言っちゃ悪いが、次世代大丈夫かよと。
とりあえずヘクマチアル抗争の枠組み、関係者の思惑、立花の関わりに聖上のお考え……意識しといても損はなかろうと、それがレイナのお局を借りた理由である。
「また伯父が陛下に茶々を入れでもしたのかい?」
言い方ァ! その通りですけども!
「自分を良く見せようって背伸びするから口が回らなくなるの! 『友だちとおしゃべりする』だけのことでしょうが。ヒロも必要以上にかしこまること無いんだって」
「まああれだ。オサム伯父、引いては我ら立花に向けられた君の敬意を真摯に受け止めるとするならば……立花は最高権力者の孤独を和らげるために存在し、1000年にわたりそのノウハウを蓄積し、子女もそれをさんざんに浴びながら育つ」
親戚一同が集まったところに顔出してみたいような遠慮したいような。
「書類を前にしたトワを、戦場に立った君自身を想像してみたまえ。『それぐらいはやれる』のだろう? 僕らも、もちろんオサム伯父も同じだよ」
それならば「敵わなくて当たり前」……って言ってもらえるだけの結果は出してるつもり、ですけどね? 秋の戦争、大事になってくるよなあ。
「日ごろの行いが悪すぎるから信頼されない。緩みきってるせいだっての」
やっぱり俺も、もっと厳しくいかないといけないのかなあ。
それはそれとて二杯目のお茶を楽しんでいたところ消えたはずの刑部権大輔が再び現れた。大きな影を引き連れ目を輝かせながら。マグナムと権大輔、面識があったっけ?
「お取次ぎいただきありがとうございます、権大輔さま……いま良いか、ヒロ? イーサンが狙撃された。いや、怪我は無い。郎党が身をもって防ぎ止め、犯人は俺が確保した」
大ごとと言えば大ごとだが、「まれによくある話」でもある。
犯人が確保されたならば粛々と……
「ユースフ・ヘクマチアルの郎党、いや家人雑色のたぐいと言うべきか? そこまで調べはついた。だがデクスター家からユースフに抗議したところ『その男とはすでに縁を切っている、当家とは無関係』との返答」
目を輝かすわけである。
自爆してくれるならば刑部権大輔としてもリスクを冒すことはない。
「デクスター党のお使者です。それで帰ってくるような粗忽者とも思えませんが」
どこまでも上機嫌な権大輔、聞きとがめるまでも無い「あたりまえ」を相槌代わりに先を促す。
(ミカエルあたり、悲嘆に身をよじるでしょうけどね)
で、部下に頼らず独りでどうにかしてしまう。そこまでがあいつのテンプレ。
なるほど「見ていて飽きない」男なのだろう。
「ええ、まさに……そうとう粘って引き出した回答だが、『これは兄ターヘルの陰謀に違いない。もし外部から当家の紛争に関わろうと言うならば監督役、カレワラ男爵閣下の許しを得られたい。なお、フィリア・メル子爵閣下との間に交わした個人的な約定もお忘れなく』。どういうことだヒロ」
これからエドワードに会う予定だったが……これはデクスター邸に呼ぶほか仕方ないか。ともあれ。
「通貨偽造の件で借りを作ったんだよ。ヘクマチアル家とトワ系が係争状態に入ってもメル家は介入しないとの約定を結んでいる……だからメル系の近衛兵は一切手出しを封じられる。マグナム、お前もだ。その報告も含めて案内頼む」
「待てよヒロ、それはないぜ」
まあまあと割って入った権大輔、なぜか途中で口をつぐんで身を引いた。
「メルが手出しを禁じられるのはデクスターとヘクマチアルで争いになったとき。つまり『犯人がヘクマチアルの場合に限られる』。枠組みとはそうしたものでしたわね、権大輔さま? ……背景が固まるまではそれで押しちゃえばいいのよマグナム」
男のズルには厳しい……いや、許すにせよひと言指摘せずにはいられない。
立花典侍さまはやはりレイナなのである。