第三百八十七話 憎悪 その1
「この夏は徹底的に右京を掃除する。雅院の慶事またお振舞い、大祭に備えて」
外征前に内憂を排除しておくためにも……と、これは未公開情報だが。
「近衛兵の諸君も積極的に民情の視察を行われたい」
「喜べお前ら、遊び回り喧嘩して勝って来いとの仰せだ! ……そういうことならヒロ、話がある。明日空けとけ」
歓声を誘っておいて物騒なことをささやくその呼吸を窺うかぎりエドワードは絶好調。
いっぽうで中間管理職たる将監が遅刻では締まらぬことこの上ない、それも顔を腫らして入って来るのでは。
「先んじて遊び回った結果がこれだもの。みんなも気をつけてくれ」
爆笑を誘うあたり権威を茶化してこその道化ではあるけれど。
さておき求めざるを得ない報告書……をまじめに書くわけないのが立花である。
「右京は二経五緯のバーです。数名の男に絡まれました」
口頭報告はいちおう特例である。
にもかかわらずカタイ・ド・バンペイユ君の顔は不満げであった。
事件と聞いて首突っ込んだ猟犬ベンサムをうるさがったか、俺を煙たがったものか……いずれにせよ。
「ウソついてるなあれは」
確信に足る理由はあるが、直接的な証拠がない。
それでも口に出すことでひらめきが生ずる……こともあるが、今回は失敗だった。
教えなきゃ噛み付くと言わんばかり、ティムルのツラの暑苦しさと来た日には。
「襲撃者の人数、集団の規模……そのあたりだよ。私も今日は飲みに出る」
「納得できるまでお相伴に預かりたいもの……いえ失礼しました」
ドミナ・メル嬢のサロンだと伝えたところがぶんぶん顔を振り立てる。
彼のお散歩コースではないらしい。
「ドミナさんの不審の目すら懐かしく思われます。あの時は秋も末、寒くなる一方で」
気後れしていた男も今や挨拶代わりに皮肉を叩くようになった――などと偉そうなことを言ってみたくもなる。「ええ、今は涼しそうですわね」と返されて色を失うあたりなど窺うにつけ。
何せ刑部権大輔と来たら前回同様、ふところから金のインゴットを3本取り出してきたものであった。
「刑部の下僚から、近衛府のバンペイユさんを袋叩きにしてしまったと報告が。お詫びに上がりました」
肩肘張る間柄では無くなったから素直に首を傾げておく。
正直、分からない。情報を掴むその早さ……は、「掌握している」ということだから良いとして。
金額が大きすぎる。だいたい金でカタつけようという発想では立花も近衛府もヘソ曲げたくなる。そのあたり知っているはずなのだが。
「治安維持のため、録が4人で出ていたとのこと」
大人数とは思っていたが想像以上だった。
貴族が4人ということは一行の人数は最低でも8人、下働きに荒くれ者を多く抱える刑部の役人ならばおそらく20人を超える。
「動機を酌量してほしい、あわせて軍府の不名誉を思えば……金で収めてくれて良かろうと言われる?」
道化だろうと軍人である。喧嘩で負けるとかっこわるいのである。
「バンペイユさんとは彼らも承知しておりました。だからあの程度で」
立花と知って怪我負わせてる時点でダメなのである、普通ならば。
「そもそもの原因からバンペイユさんの挑発なんです。『ヘクマチアルが消えたとたんに縄張り荒しかい?』などと……言ってはならないことを」
道化の才は立花一流の批判精神がなせる業か、はたカタイなりに職務に忠実たらんとするものか。ともかく刑部のお役人、痛いところを突かれて激昂したと。
「若い者は必ず押さえます。が、近衛府におかれてもどうかご理解を」
切迫した表情、大げさな言葉。「おとならしからぬ」その態度に思い出した。
「刑部省ではヘクマチアル家に恨みを抱いていると聞いていますが」
深く頷いていた。よくぞ聞いてくれたと言わんばかり。
「あれは15年前でしたか」
民部省の少輔が何者かに襲撃され重傷を負うという事件が起きた。
幸いにして犯人は検非違使庁により早期に確保された。
「犯人が……いえ、容疑者・被疑者と言うべきでしょうか……無位無官であったゆえ、弾正台に回さず一般の裁判にかけたところで」
犯人と目される人物がもうひとり確保され、裁判に連れて来られたのだそうな。
右京職すなわちヘクマチアル家によって。
「どちらの証言にもそれらしさがありました。しかし犯人が単独犯であることは明白だったのです。検非違使庁は『どちらも有罪で何が悪い、なんなら片方消してしまえ』などと騒ぎ立て……」
顔を覆いたくなった。近衛府の下部組織であるだけに。
その色を薄める努力はしているものの、検非違使庁とはとにかく強硬。まして京職、ヘクマチアルと張り合わざるを得なかった15年前の事情を思えば。
「今となれば彼らの気持ちも分かりますが、粗暴なその言動がトワ系また法曹系を激怒させました。そのせいもあってか、容疑不十分で双方無罪ということに」
そして無罪ならば釈放である。
獄中にあった当初の容疑者もそこは解放されて然るべきところ。
「しかしどう考えてもこれはヘクマチアル家の隠蔽工作。検非違使庁が追加捜査で動かぬ証拠を発見するまではと、省を挙げての引き伸ばしが行われました」
が、必死の抵抗も虚しく釈放せざるを得なくなった。
解放された真犯人(と思しき男)はすぐに消された。
第二の容疑者について完璧なアリバイが後から提出された。
……みえすいた流れだが文句のつけようは無い。
「結果論ですが、『刑部省が真犯人を逃がした』ということに」
そしていつだか触れたが役人の人生とはループ式の登山道のごときもの。回り順の立ち位置が落石地点に当たってしまえば過失が無くとも脱落なのだ。
この件であれば直撃を受けるのは収監担当・囚獄正だが、当時その任にあったのが目の前の刑部権大輔で。
「『大した失態でもない』と、これは省を挙げて責任逃れ、いえ、開き直るべき案件でした。おかげで私も退職せずに済みましたが、しばらくは冷や飯食いというわけです。それでもどうにか左馬助まで這い上がり……おかげで今があるというわけです」
駒牽で手柄を挙げた、右馬助の俺に出会ったおかげで。
濁されたところで双方気恥ずかしさは拭えない。
「ともあれメンツをつぶされた刑部省のヘクマチアルに対する恨みは深い。いま勢いが弱ったところで仕返しに励んでいると」
末端の郎党……とも言えないような下働きを追い立て蹴散らし。
一方的に責める気にもなれない。敵の弱きところを撃つ、軍人の作戦行動だって似たようなものだ。
「いえ、申し上げましたように右京の治安維持活動です。地に足つけた民生の現場を知るものこそ刑部省であると、これは我らの自負するところ」
じっさい救荒に防疫にと大車輪で立ち働いたのは刑部省であった。
現金な物言いだが、その「果実」を得て然るべき立場にあることも確かなところで。
しかしそれにしても、インゴットは分からない。
カタイへの謝罪にしては高すぎるし野暮ったい。
縄張り宣言の対価だとすれば――そんなもの必要とは言い難いが――不足も甚だしい。
傾げた首を戻したところで気がついた。
刑部権大輔の視線は真剣、いやむしろ険悪なもので。
まさか、ヘクマチアル紛争への参加?
審判役(場外乱闘防止役)としては絶対に容認できない想像だったが、半ば当たっていた。
「ターヘルとユースフ、いずれかは卿の家格で復帰するという噂……『上つ方』では合意済みなのですよね? 私も宮さまから早くに聞かされ、不承不承ながら飲み込むつもりでおりました」
語尾がもう、ね。
インゴットの本数その意味にも得心がいった。政治工作の費用ね?
「しかし昨今の動きを見るに、『下』に知れたら押さえきれる自信がありません」
そういう言い方は少しばかり卑怯ではなかろうか。
好人物だと、いや――そこまで甘く見てはいなかったな――俺たちの間にはもう少しなんだ、「相互理解」のようなものがあると思っていた。
「ここのところ省全体として自信をつけられた、そういうことではありませんか? 私はもちろん、大輔どのの手にも負えない。ハイレベルで殴り合っていただかなければ」
あなたの自己肥大だ、いまの俺たちには分不相応ですよ……良く言えば謙虚、悪く言えば卑屈あるいは小市民的なところのあった人に、聡明堅実な年長者に、そんなことを言いたくはなかったから。
「ええ、始終頭をよぎりますよ。私なんかが口出しできることじゃない、口出しして良いものじゃない」
少し安心した。
この感覚を失っている人であったら、正直付き合いきれないから。
「しかしですね、あの時受けた屈辱。感じた義憤。若いときには飲み下せたものが今になって、物が見えるようになって、動きが取れるようになって、かえって許し難くなったんです」
平衡感覚を持っている人物が自問自答のうえで踏み込もうとしている……それいちばんダメなやつ!
「結論は動かしようがない、いえ動きようがない。それでも何か……大したことはできないとも思いますが、何か……そうですね、『聞いてきます』。それ以上のことは」
「事件を知らない若者、ヘクマチアルの横暴を体感したことのないヒロさん。だからこそ『仕切り』を委ねることができる……そういうこともあるのかもしれませんね」
最後は笑顔を見せて、恫喝も懇願もすることなく。
お忙しいとは存じますがって、それも少しばかり卑怯ですよ。




