第三百八十六話 魚心水心 その3
奴隷と名乗ろうが現状家中で唯一のお医者さまですもの、直談判を許しもする。
ただこの直談判が難しい。男爵近衛中隊長なる立場でどれぐらい「下」にまで認めてよいものか、毎度悩みのタネだったりする。
「老師ジエイを……そうだな、庭の亭にお通しせよ」
磐森道の建設現場でバイトしていた武芸者が、いまやそういうことになっていた。
一芸に秀で見聞が広い、天真会好みの人材ではあるけれど。出家のきっかけとなったカレワラ家(王の影)にちなんで「似影」とは李老師も悪ふざけが過ぎる。
これも悪ふざけと揶揄してやるべきところだろうか。にこやか……と称するにはまだ険の抜け切らぬ笑顔を浮かべるジエイ師の後ろには毎度お馴染みの若者が控えていた。
謁見を許される宗教家の秘書役ならば「その場にある」ことも許される、理屈は通らなくもないがさすがに少しばかり覚悟が過ぎる。釈明を求めざるを得ない。
「こちら、在家の道を歩むと決意したそうです」
建設・建築事業は天真会とその会員を支える大きな柱である。
しかし後ろの彼はもともとそれで日銭を――いや、結婚した頃から「そのあたり」は変わったか――それにしても「決意」は少々ひっかかる。
「国家の大祭も近づきつつある折柄、聖神教の皆さまに慶祝を……国民もみな共に喜びを待ち望んでおります」
四月の大祭は聖神教と王国の古き契約による行事である。
要するに巨額の寄付が行われる。
そして宗教家は共感性が高い。聖神教に慶事があれば天真会も心にひそやかなる喜びを感じるのだ。
……宗教的中立とはなかなかに厳しいものと知るが、こうした件はそれこそひそやかに済ませれば事足りる。天真会が主役の年中行事も存在するのだから。
「それゆえのお振舞いである。差配は天真会に委ねよと、雅院におかれては」
「近衛中隊長閣下のお力添えもあることと……さきだって感謝を申し上げます」
大祭と言えばもうひとつ。
近衛中隊長は王国政府から聖神教団へ向けた使者の任を仰せつかる。
つまりは世俗側の主役でありしたがって個人的にも教団にはけっこうな寄付をする。
あくまでも使者なるがゆえ、下賜される「お駄賃」で穴埋めできるけれど。
そして繰り返すが聖神教に慶事があれば天真会もひそやかなる喜びを感じるのである。
国家……に準ずる雅院からお振舞いを賜るのだもの。
その使徒たる近衛中隊長についても……なんだ、個人的なところで「ちょっといいとこ見てみたい」と、まあそういう。
だがじっさい王国の人士が近衛府また中隊長に期待しているのも明るさであり華であり力強さであり、悪く言えば空騒ぎに贅沢に虚栄である。
加えて天真会と言えば聖神教とは趣の異なる力を――犯罪組織とのツテを、王国各地の情報を、国外要路との面識を――持っている。ことに目の前の老師ジエイが武者修行で放浪してきたのは西方、近ごろキナ臭いA・I・キュビ家支配域から王都にまたがる一帯と来ては。
出家のくせして明らかに「腕を上げた」ジエイの笑顔を見るにつけても李老師の悪ノリを思わずにはいられず、そこに感じた不愉快を「あるがままに」――彼らの教義にしたがって――押し黙ればようやくこちらから目を逸らし頭を下げた。と思ったらその頭を掻いている。
「こないだまで瘋癲だった私が言葉を飾っても仕方ない。正直、ご領主のおかげで王都の民は餓え死にを免れたんです。『分かってる』連中はみな感謝してますとも。でもだからこそ、一番厳しい端境期のいま、最後まで見捨てないお姿を期待してるんです」
不似合いな虚飾を取り去るや頬から口角からどこまで緩めるのかと。あけすけにもほどがある。
(懐事情が苦しくて道場仲間にメシたかる武芸者の顔だな)
(李老師の匂いがしないぞ)
あーなるほど、飲み屋に腰据えた立花伯爵の顔だこれ。
ゆっるゆるだけど嫌いになれないっていうアレ。
「磐森道の建設工事、再開なりませんか」
だから現場助監督の彼を連れて来たと。
「陳情の趣は承った。しかし道路建設の本格再開は延期、これは決定事項だ」
5年、少なくとも3年待ち、なるへい19世の号令を以て再開するために。秋の戦争に少しでも予算を振り向けたかったということもある。いずれにせよ大々的に公表できるものではないが、確かに説明不足ではあった。
「とは言え天真会を苦しめることは本意でもない……幸い今年は作柄も安定している。最後の備蓄、不測の事態に向けた備えだが、これをこの春から夏にかけて解放する余裕ができた」
酒場を放浪するおじさんのような顔と、王国語でおkと言わんばかりの顔と。
そうでした、虚飾は良くないよね。
(虚飾じゃなくて威厳! 最低限のところはあるんだからね!)
「こちらも言葉を飾るのはやめてやるさ。李老師、天真会との縁も大事にしたいと思っている……だからまずは当座、端境期を乗り切るために。とっぱらいの仕事を用意してある」
とっぱらいと恵体が嫌いな男子はいません!(暴論)
あれー反応薄いなー。ウチの郎党だけがざわめいてるけど……。
(軍人にとっちゃ「とっぱらい=戦功」だからなあ)
(言葉だけでテンション上がっちゃうわけね)
「業務は運送、それも王都を出ずに済む仕事だ。運河また東川に数ヶ所ある港で荷物の積み込みを頼みたい」
安心と信頼の天真会、荷役もまたその十八番。
意欲ある皆さんの参加を願います!……商都に運ぶ軍需物資に間違いがあっては困るのでね。
それにしても反応が薄いなー。
「その、文句言っちゃいけないって分かってはいるんですけど」
後ろの若者がおずおずと……声をあげたつもりだろうが、どの業種でも現場の男は声がでかい。亭の天井にけっこうな自己主張のとどろきを響かせていた。
「建設とかそっちの仕事、ありませんか?」
傍らに馬鞭を振り上げる人影、扇で制止するところかろうじて思いとどまる。
発言を許す自由には義務が伴っている。
「俺たち右京生まれは何も知らずに来たんです。でもこっちでその、最初は言われた通りに動くばかりで飽き飽きしたけど、工期が終わって帰りに眺めたらきっちり道になってて……当たり前だけど道も城壁も堤防も、いや家も畑も誰かが作ったものだったんだって」
アカイウスの手にかかることもなく末席の郎党に蹴倒された若者は許しを得るやまくし立てた。
「でも工事は技術のある親方、人数抱えてる親方から順に話が来るから……いえ、夫婦で暮らすぐらいの仕事には困ってません。ただ……老師もいま言ったじゃないですか。俺たちは飢え死にしなくて済んだって。そのために食い物運んで貯めた貴族がいたからだ。道普請の仕事があるぞって声かけてくれる老師がいたからだ」
青臭い。いや、青臭く聞こえるだけかこれ。
「商人なら高く売るため、貴族なら名を売るため。綺麗ごとじゃない……そこは分かっているようだな」
額に小さな苛立ちが浮かんでいた。
バカにされていると思ったか、口の回らぬ己に腹を立てたか。
「俺たちは作柄が悪いとも何にも知らず、言われたとおりに袋を積んだり降ろしたり。貴族はいい気なもんだって思ってたけど。今だって端境期にとっぱらいの仕事だぞって……飛び上がるほど嬉しいけど、でも何だかなって。勝ち負けじゃないけど……いつか俺も『そっち側』になれねえかなって」
金だ地位だ勝ち負けだ……それもあるけど。
何だかな、それだけじゃなくて。別に仕事に限らなくて……。
再び足蹴を叩き込んだ郎党に手を振ってみせる。
途端に若者から苦しげな声がしかし途切れもせず再び流れだした。
痛みに慣れている。殴られ、蹴られすることに馴染みきって。背を丸めてやり過ごすことを覚えた男……が、見つけたもの。
「人から言われる仕事で食ってけるんだし、無いアタマ使ったってロクなことはないんだ。いろいろ考えて革作りやろうとしたら職人野郎に邪魔されて、これが『仕切る側』の理屈なんだって思い知らされましたよ! だけど初めて右京から出て、磐森でいろいろ見ちまったから……知らないほうが幸せだったんじゃねえかって気持ちもあるんだけど……」
そうだ、アレだアレ。景色の変わる瞬間だ。知っちまったら戻れない。
この先にもまだ何かあるんじゃないかって、気になって気になって。
ならば俺にも思い当たる仕事がある。
「秋に設営の募集がある」
若者が顔を上げた。
「払いは良い。技も身につく。やり遂げれば親方として声のかかる機会も増える……ただし危険だ。命の保障はしない」
目が泳ぐ。逸らした。
止めるなよアカイウス、俺だって何度も、何度も何度もそうしてきた。
迷って、目を逸らして。
「やらせてください、磐森のおやかた」
だよな。やっぱり。




