第三百八十五話 棘 その2
微妙な表情が御簾越しに見えでもしただろうか。
「出仕しておりますからには」の言葉もかすかに衣擦れの音が遠ざかる。
「メル家ではドミナ嬢のサロンを、お前もハサン殿下邸をうまく使っているじゃないか」
いずれも本格的な密談には使いにくいんですけどね。
ここ後宮にせよそれこそ男女関係が錯綜しているだけに、何がどう漏れるか予想できないはず。
「冴えないツラだな。そこはクレシダさんの人徳だろう?」
男女の噂がまるで聞こえてこないことと「何も無い」とは違う。だがなるほど「政局に対する無関心」がこちらの売りではあった。
呼びつけてくれた礼だとアルバの若隠居に誘われてとんぼ返りした後宮、待ち構えていたのは最近聞いた「黄金世代」の面々で。
ならば神経質なところを見せて得することはない。役人というものなぜか「豪傑ぶり」を好むから。
「そうでしたね……それよりその後、お加減は?」
病を理由に中弁を辞してよりひと月、エルンスト・セシル氏には何だその、「張り」と「ツヤ」が戻っているように思われたから。
(力士じゃあるまいし)
(ピンクあなた、男の体を何も知らずによくもまあ)
(バカにならないんだぞ。馬も犬もそうなんだから)
「『障り』を避けただけのこと、問題ない。いまは各地の港を……そう、『検分』しているところだ」
「兵部津ではイモ引いたんだろうエルンスト?」
言葉選びに詰まろうものなら即座に混ぜっ返される、近衛で何度やられたか。三十も半ばを過ぎてまるで進歩が見られぬあたり、「近衛上がり」その経験は王国貴族の連帯に直結しているとしか言いようが無い。教養にかぞえられる節すらある。
……その機会を与えられぬ多数との断絶は時に胸を刺す棘にも変わるけれど。
(下から見上げてた身としてひと言。「黙ってろ」。棘でも何でも成り代わってその鈍感な足裏を貫きたくて仕方ないんだよこっちは!)
「必要に応じ非効率を避けただけのことだ。ここにあるヒロ、またロシウとも協力して港湾行政機能を商都は河州港に集中させている!」
聞き苦しい言い訳だろうが何だろうが投げ出すよりはマシ、「上つ方」も相応の苦労を背負っているのである……が、それにしても苦しいところだ。
「北西の軍港でも宮さまの『攻勢』が厳しいと聞くが」
対A・I・キュビ家を想定する際に要となる施設だ。
前線から見て近すぎも遠すぎもせぬ絶妙な位置にその湾口を開いている。
そういうわけで軍人主導も悪くは無いが、行政官のポストを削って機能不全に陥っても困るのである。
「それも選択と集中だウォルター……わかったよ、『反攻』に備えた戦線の縮小再編成とでも言えば満足か? 東に位置する商港は完全に『固めた』、こちらを行政官主導で回すことにより対応している!」
煽りを受けて商港ではここのところ軍人・警察の肩身が狭い。
ならば治安維持は、むしろこの場合「周囲に向けて威を張る」ためにはどうするのっという話だが。
「それで街中に道場か。古い流派が復興した? 白々しい。正規軍人の立場はどうなる」
なんでも正面には真っ赤な扇が掲げられていて「王都なまりの親切なおじさんたち」がしょっちゅう出入りしているらしい……「古より伝わる家の流儀」とはこういうところに出るもよう。ニコラス党に嫌われるわけだ。
「そもそも商港で軍人が目立ってはその、いろいろと。もちろん他家のご協力も歓迎します」
と言うて、直轄領の治安維持は近場にある貴族の権益もとい社会的義務であるからして。
大手貴族の皆さまが磐森からわずか2日の距離にある商港で張り合うもとい負担を申し出ることはあまりない。協力者の多くは「その意気に感じ、心中に相通ずるものを期する」中小貴族の皆さまあるいは「さらに腕を磨き、他日を望む」三男坊以下の皆さまである。
「そういうところなんだ、兵部卿宮さまは! カレワラが磐森に復帰していなかったらと思うと寒気がする」
こちらとしても南嶺戦役の兵站、海洋進出、A・I・キュビ家への警戒……その全てにおいてセシル家との提携が必要で。雅院派を明言したことまで含めてエルンストとの関係は特に深さを増している。
「水面下でセシル家と兵部卿宮さまの対立が深刻化する中、キュビ家が中務宮さまと対決寸前。いよいよ動き始めたかと冷や冷やものだったぞ」
冷や冷やどころかアルバのご隠居おめめをキラキラさせていた。
何か気の利いた軽口いや毒口を叩きつけてやろうと……調子に乗って良い立場ではないことを忘れていた。
「先ほどのあれは無いな、ヒロ。我らの立場というものがある」
一触即発を止めようとしてためらった「あれ」である。
優遇され近侍を許されるのは王国を、陛下を、そして王室を守護すればこそ。
めったとないお叱りだけにこれは痛切に反省せざるを得ない。
「お前たちも安全地帯から煽るものじゃない。家督を譲り中弁を辞する、早まったのではないか?」
「リーモンの立場は分かるがなウォルター、言わせてもらえば。それが貴族のあり方か? むしろヒロを見習って態度を明確に、こうなんだ、さぱっと行くべきところだろう……なにを他人のふりしてる、お前もだぞカイン」
常日ごろ言われ続けていただけに新鮮ではあるけれど。
やっぱり少しいやらしいぐらいで良いんじゃないか(憤怒)
「怨みを匿してまで仲良く友達ヅラすることはない。不愉快なものは不愉快、憎いものは憎いと示してこその直心。力あるものの責務とすら言えはしないか?」
前兵部少輔・現散位頭のごとく。
いつかやってやるぞこのヤローと叫びあげる、それこそが貴族らしさか……
(やってみろバーカバーカって言い返すヒロはやっぱり貴族なんだな。見直したぞ)
(貴族とはいったい)
(サル山を見てりゃだいたい分かるわよ)
「そのあたりノーフォークはさすがの剛直。クリスチアンがスレイマン殿下に接触したんだって?」
うーんこれは期待の新鋭ですね待て待て待て。
「イーサンに説教されて大喧嘩……何を言われたものか、すぐに降りたが」
「あたりまえだ。ヒロをこするためにスレイマン殿下を担ぐのでは筋が悪すぎる」
そこまで不満を持たれる理由に思い当たりはない……こともないのですが。
いやしかし、遺紺――じゃなかった一件ばかり当たらずと言えども遠からぬところはあるが――遺恨と言うならこれで私もより厳しい案件をいくつか抱えているはずなのです。
「なんだヒロ、知らなかったか?」
「監督不行届だな」
そのにやついた目! プロレスなら最初からそう言えと。
これはどうやらクリスチアンには要求がある。だが秋、春と二度にわたり頭を押さえつけられた俺に「ねだる」ようでは業腹だから……しかしイーサンもイーサンだ、何だって乗っかるんだ。
(イーサンにも主張があるからじゃなくて?)
(クリスチアン以上に「ヒロへのおねだり」が難しい立場か、なるほど)
「話を戻すぞ。改めて伝えるべきことでもなかろうがヒロ、港湾を司る我らセシル家、兵部卿宮さまのなさりようにだけは納得がいかない」
「事あるごとに家、家、家。直心が聞いて呆れる。お前が許せないのはミカエル・シャガールだろうがエルンスト」
蔵人頭への任官直後にひどい恥辱を受けたから。
確かにあれはひどすぎた。「彼の罪は万死に値する」だなんて……言語として成立してない罵倒を浴びせられて。中弁に昇ったと思ったらそのミカエルが少弁に上がってくるのではこれもたまらない。
……と、ほんとうにそこまで深刻な遺恨であったのか。
立て続けに皮肉を投げあう三十男を見るにつけ、何がどこまで本音で韜晦なのだか。
「不快表明を口実に中弁を辞任、うまく逃げたものだ」
「半隠居を決め込んだ男に言われたくはない。鷲鼻閣下が引退すれば禿鷲閣下がスライドする。空いた伯爵位にはさて、誰が就くものかな?」
「出世頭が商都まで逃げてるんだぞ? お歴々はどうあろうがノーダメージ、何なら引退したところで痛くも無い。それに比べて我ら世代……冗談抜きにここは『潜りどころ』だ」
俺やミカエルあたりを矢面に立てて、ですか。
まあね、立場の弱いカレワラ家。ここが「働きどころ」なんでしょう。
「そうやさぐれてくれるなヒロ。どう意地を張ろうがトワの家祭で倒れたことは事実、もはや私も若くないと痛感した……とはいえ、いま大病するわけにもいかない」
案外正直だな……いや、この人とはそれぐらいの付き合いになりつつあるけれど。
「極東でゼロからの港作り、重なる大戦にあって兵站線を維持、帰還するや蔵人頭そして中弁……さすがに休息が必要かエルンスト」
身内、父君が大病したリーモン子爵の声は重かった。
「私の主張、理解してもらえるな。水面下での協力を惜しむつもりはない」
身に深く刺さった棘、兵部卿宮とミカエル・シャガール。
満身創痍のまま片手間で抜ける相手ではない……本気で喧嘩するならば。
「アルバとしては、秋の戦にガラードを連れ出されるのは困る。孫バカ曾孫バカにも困りものだ」
そうじゃない。わかっているくせに。
鷲鼻閣下は「現場を上から、外から動かす」人物を高く評価するから。
どこかで戦場に出る経験は必要だが、「初陣」は留守番であるべきだと。
「ニコラス家からは息子マティアスに兵五千を付ける。余計な気を回すことはない、我ら軍令は弁えている」
脳内でアリエルが吠え猛るのも当然、五千とはカレワラが目一杯に動員したときの数字だから。国許に十分な兵を残し旅先の王都で護衛を残しながらなお五千、最大動員約十万。
辺境伯になる前のニコラスしか知らないアリエルにはどうにも信じたくないらしいが、俺にとって大事なのはそこじゃないのでありまして。
「当家にも振舞いの弁えはあります。不文ゆえ気をもまれるかもしれませんが」
柔道の団体戦じゃあるまいし、主将が三千のところ先鋒が五千ではどっちがボスか分かったものではない。そこに「お前の指示には従わせるから余計な政局仕掛けるんじゃねえぞ」などと言わいでもの追い討ちかけられては黙ったまま引き下がれないのである。
こちとらそこまで卑しくはないつもりです。軍令みたいにわざわざ明文化されないと理解できない人には分からないかも知れませんがねぇ!
「留守のリーモンからも手練を出そう。あと3ヶ月、各自準備を」
いいかげん付き合い長いから顔色見なくとも分かる。
楽しそうですねウォルターさんも。
「その前にまずは大祭だろう。式次第だが……」
そして再び近衛府に取って返す春の宵、夜勤ローテで過ごすのもまた一興……などとうそぶくと後宮のお局さま方からはお叱りの声が飛んで来るけれど。
「クレシダさまのお局で『中二階』の先輩がたに会ってきたんだが。正直、重い。今後はイーサン、君にコンラートやイセンあたりも参加してもらえないかな」
「それはすまなかった。トワ系どうしならばいくらでも連絡手段があるもので、つい」
嫌味どころかジャブにもならない。デクスターならばそれは至極当然の事実で、言ってのけるイーサンの風姿を眺めるにつけやはりここは後宮の要望に譲歩を見せるべきかと思わざるを得ない。
「クリスチアンの件かい? まったく手を焼かされる。ノーフォークも重いからね」
クレシダのお局で聞かされたときには腹も立ったが、改めて本人を目の前にすると許せてしまうような。
クリスチアンの矢面に立たされて……いや、真正面から受け止めて殴り合える男など限られている。
他に誰ができるというんだい? 無言の佇まいにそう問われては一言も無い。
「アルバ家のガラードにチェン家のスゥツ。クリスチアンと年はそう変わらないが年次では4期5期の違いがある」
はっきり年上のイーサンに遅れるのは我慢もできるが、5年先任でありながら形式的には同列……それは確かに不満を述べる理由にはなるか。
ただ待遇に差をつけるにせよその扱いは権中将、近衛中隊長の副官など現状では非公式の立場で。言ってみればくだらない見栄……
(その近衛府に入れなくて腐ってたんだぜ俺は)
(トップが自分の権威を貶めてどうするの!)
「了解、外すならマグヌス・トリシヌスか。もともとクリスチアンの代理として入れたようなものだし。ただなあ……」
「エドワード君が権中将にある現状、問題は無い。近衛府幹部が『そろって戦争を知らない』・『トワ系ばかり』になることを避ける、それが趣旨だろう? 制度開始から二期を務めたのだ、叩き上げが権官に昇る先例としても十分さ」
イーサンの言うことだ、理も通っている。よし、その論旨で押せば……
「その方向でおおかたの合意を――叩き上げの権益については言質まで―ー取り付けてある」
息を呑むほかできることもなく。
「クリスチアンとスレイマン殿下の接近も未然に防いだ」
何を言わせるつもりもない、ね。
「僕個人に格別の才があると自惚れる気は無いがヒロ君、『この道』で我らトワが他に譲ることは無い」
とどめまで刺せ。
メルの総領夫妻に関わったこれが因果か。俺も、イーサンも。
「了解。頼らせてもらうさ」
本気で逆らうだけ無駄、四公爵家にはそれだけの地力がある。
当主に後継……個人の力量につけ、もとる者のひとりすら見当たらない。
「枠」を作られてしまったならばその中で働くのみ。
腹を括ったならば手早く適切な処理を。
そのあたり一番うるさいのは鷲鼻だが、トワ系通有の評価基準でもある。
「ならば、トリシヌスが今期限りで退官するのは予定通りだが……日程を少し早めてもらおう」
王国官僚ことに叩き上げは最後の任期を満期まで務め上げない慣例がある。
辞表を出して自主的に身を退くことになっている。
「権官の不在好ましからざるをもって、秋の除目を待たずクリスチアンを昇任させる。戦争には権中将の名で、近衛府の最高幹部として臨んでもらう」
夕陽の作る濃い陰翳にはどうしたって似合わないあけすけの笑顔がそこにあった。
「助かるよヒロ君。クリスチアンにもそれぐらいのことはできるし、やってもらわないと」
何もしないぐらいなら無茶でも動いて上官に叩かれるほうがずっとマシ。
「やれる」ヤツには必ずどこかからフォローが入る、「浮いてくる」。
大族の正嫡クリスチアンにあってすらそれで勢力を増し地位を向上させていると。
(というかヒロ君がそうしてきたんじゃん)
(そりゃ後輩は真似するわ)
「で、退官させるトリシヌスの『行き先』だがヒロ君。ウマイヤ家、シーリーン閣下が指揮を取るイゼル戦線に部隊長、近衛府代表として送るのはどうか……送ってはもらえないかと」
イーサンにも主張がある、そうだったなアリエル。助言に感謝を。
イゼル州、今のところ縁こそないけれど。その知事には必ず敏腕を以て充てること王国官吏の常識だから。
「なるほど最高の花道だ……知州の叔父君、そこまで厄介なのか?」
天を仰いで動きを止めていたシルエットが息を吐いた。
どうせ割れることだもの。言い直してでも本音に替えてくれたこと……正直なんだその、「好ましく」受け取らせてもらったよ。
「叔父の治績にケチをつける気は無いさ。しかし知州が軍功に色気を出すなど認められて良いはずがない」
個人的な不快、棘を感じていること間違いなし。
しかしそれでも……これは間違いなく国益に沿った方策で。
「軍人として完全に同意する。全てその方向で行こう。それと、こっちも頼みがある。嫌かもしれないがこの秋は商都まで一緒に来てもらう」
必要なことだから。国益……少なくとも今後の近衛府において。
「動員の権限があるところお願いと来たか。こっちの主張を丸呑みしておいて」
苦笑を返された。
俺がイーサンに感じたようには受け取ってもらえなかったらしい。
「君らトワに学んでるつもりだが、まだスマートさが足りないようだ」
兵部津:モデルは神戸
北の軍港:モデルは舞鶴
北の商港:モデルは小浜
イゼル州:モデルは伊勢国
クレシダ:典侍の筆頭、レイナの同僚にあたる
エルンスト・セシル:港湾がらみの行政に詳しいセシル侯爵家の総領息子
アルバの隠居:ガラードの父、鷲鼻の孫
カイン・ニコラス:西海の辺境伯
ウォルター・リーモン:ニコラス、カレワラまたオーウェルなどと並ぶ武門の当主
このあたりの人々がアレックスまたロシウとはほぼ同年代
マグヌス・トリシヌス:50代半ば。(近衛所属としては)叩き上げの名物指揮官




