第三百八十話 爪 その1
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
こころ浮き立つ春、恋の季節である。
「ゆる残業」にあたる近衛兵たちにもその春は等しく訪れる。
「右京は二経三緯の『クレセントムーン』だけど」
「ああ、あのネイルサロン」
爪のお手入れは王国紳士の嗜みである。
切り揃えやすり掛けし、仕上げに天然由来の保護剤を塗る。
その配合がどうだの香料がああだの、そもそもカットの角度に長さがこうだの、こだわり出すと止まらないのが男という生き物で。
そして世の中男と女でできている以上、男産業の界隈に女が進出するのは理の当然。
「パールちゃんいいよね。なかなか予約とれないけど」
スポーツマン将監・カタイ君が口にしたのはネイルスタイリスト(王国のネイルアーティストたちはそう名乗っている)の噂であった。
技術職でもあるし、ことが人体に関わるだけに「双方向の」信頼関係が重視される。ゆえにスタイリストの側から客を断ることもできるとか。
「絶対に連れ出せないしな、だけどそれがまた」
作業はネイルサロンに付設の個室スタジオで行われるのだそうな。
スタイリストが同意すれば出張もしてもらえるが、お手入れに万全を期すならば設備の整ったスタジオがお勧めだと聞いている。
なお出張の場合、もちろん特別料金が発生するとのこと。
(そこまで説明されちゃ何の配慮にもなってないからねヒロ君)
「それに彼女の本業、歌手だろ? 喉は生命線、オプションいくら上乗せしてもダメさ」
(昼間っから何の話をしてんのよ!)
いやピンクさん、近衛府は早暁から正午が定時です。
待機業務の残業なんてバカ話やマージャン(?)しながら、それが王国官僚の生活ですよ。
「そしてそこの新人、海濤の意匠にミモザの香り。この春のお勧めだろ? その顔でよくやるよ」
「堅物だと思ってたけどねえ……怒るなよ褒めてんだ。ようやく同期と話ができる」
メッサが赤くなっていた。
彼に言わせればマジメな理由があるらしい。
修めた型武術はそれこそ爪の先まで「見栄え」を追究する。鍛錬の過程で同門から「クレセントムーン」と「パールさん」の存在を教わったのだと。
「いやいやメッサ君、それでもこだわりすぎだろう」
「スポーツマンのお前が言うなよカタイ」
さきほど爪のお手入れは王国紳士の嗜みと申し上げた。
紳士とはすなわち「不労所得で暮らす人」もしくは「労働契約上の被用者に該当しない人」つまりおおまか「貴族金持ち、大目に見ても自営業」だが、爪の手入れにうるさいのはその中でも特に軍人貴族と称されるヤカラである。
切所で爪が割れては集中が乱れる。無意識のうちに体が痛みを避けようとして隙が生ずる。それは杞憂ではなく寒気を伴う実感だ。したがって爪の手入れを怠ることは決してない(戦場では得物を雑に振り回してるうちに割れたり剥がれたり、後から気づくことの方が多いんですけどね)。
ともかくそうしたわけで軍人貴族、それも実践派ほど爪の手入れにはうるさい。
「ネイルサロン? 俺たちには無用の店だ。人任せにして良いわけがない」と吐き捨てる者すら存在し、大多数もまた「まあね、仕上げはやっぱり自分でないと」。
そして再び「どこまで切るか、爪の形は、保護剤は……」
(じゃあ何のためにネイルサロンまで足運ぶんですかね。男ってほんともう)
幽霊ピンクの言葉が聞こえるわけもないがメッサ君、必死の言い訳を続けていた。
「パールさん」の技術はずば抜けている、不器用な自分(見た目の割りに器用なんだよなあ)がやるよりもずっと上手に整えると。
「ああ分かってる分かってる。だから俺らも通ってんじゃん」
「安心しろメッサ、『出張』してもらえたヤツ誰もいないってさ」
複数の近衛兵から仕上げを任されるのだから、ナンバーワンネイルスタイリスト「パールちゃん」その実力のほどが窺われる。
そしてとある晩春は宵の入り、ドミナ・メル邸にてメル家と会合を持った帰り道のこと。
あだし心に誘われた……わけではなくて、同じ「サロン」の響きにふと思い出し立ち寄ったところが。
「予約されていないんですか? 初めてでいらっしゃるの? ならまずお話を伺います」
お茶やお菓子を……その何だ、「入れる」と言えばよろしいか。
20年ほど前に天真会が「発明」したとされる「クラブ」のシステムは時の流れと共に発展と洗練の度を増しているのであった。
「軍人さんなんですね。それなら私じゃないほうがほんとは良いんですけど」
コーラルと名乗る女性は自らをキャストと称していた。「ご都合しだいで交替しますけど」とも。技術を売りにするスタイリストとは異なる売り、もとい得意分野を持つのだろう。
(なんで言いかえるかなヒロ君)
「ごめんね、期待に添えなくて」
お供にペーター・ヘルマーが――検非違使どころかヘタすれば貴族とも思えぬ締まりの無さを武器に潜入捜査を行う男だが――ついていたのは幸いだった。
何するわけでもないけれど、それ相応の「オプション料金」を払うよう俺にせっつく姿まで堂に入っている。
「パールちゃんのお話が聞きたいんですね? 軍人さんはみんなそれ」
ま、そりゃ見破りますか。客商売ですものね。
「ゴメンね? 仲が微妙だったりする? ノルマとか言われて売上げ成績でギスったり、キャストとスタイリストで微妙になったりとかある?」
余人を介さずペーターとバディを組むのは初めてだったけれど。
正直、見直したとしか言いようが無い。
「お生憎さま。女の派閥とかいがみ合いの話、男のかたは大好物ですよね。でもそういうの無いように気を使うんですー。ギスった職場とかお給料が良くても絶対イヤ、女ってけっこうそういうものなんですよ」
「淑女じゃん」
技術を売る以上は被用者ではない、したがって淑女を紳士の女性版と捉えれば……しかしペーター、あんまりにも見え透いてないか?
「あ、なんかムカつくそういうの。思ってもいらっしゃらないくせに」
口にしながらコーラル女史は笑っていた。
ボールを投げ返してもきたのだから間違いではないらしい。
「とにかくパールちゃんですよね、そろそろ空くだろうから呼んできます……あ、ひとつだけ。あの子も結構話せるんだけど、検非違使だけは嫌いなんですよ。もし……いえ、とにかくそれだけ注意してくださいね」
ペーター・ヘルマーにとっては紛うこと無き名誉である。
「検非違使に見えない」ことこそ彼の売り、技能なのだから。
だが俺は。
「さすがは近衛中隊長ってところですね。うちの大尉とは人品から違う」
まさに「貴族とも思えぬ」その評判に偽り無し。
ティムル・ベンサムの腹心はやはりイロモノいや出色揃いなのであった。
そこに現れたパールちゃんの姿だが、少しばかり想像と違っていた。
こう、凄腕アーティストっぽいビシッとした美人かと思っていたら何だかぽやぽや系。
くりくりと毛先が遊んだショートヘア、どこか猫の類を思わせる
背もずいぶんと小柄なら声も甘くて……そういや歌手と兼業してるとか。
「大人気だと聞いてるけど」
「農繁期ですから。戦の季節になると皆さま足が遠のきます。自分でお手入れしないと気が済まないんでしょうね」
確かな技術に加え、なかなかの洞察力をお持ちのようだ。
中身の辛さと見た目の甘さ、そのギャップが彼女の魅力でもあろうかと。
「そう、軍人と言えばこちらに体が大きくて顔の怖い近衛兵が来ると聞いたんだけど」
ペーター・ヘルマーなる男のこれは演技か、それとも真底ニブいのか。
彼女の賢さなどお構いなしで突撃していた。
「爪は皆さまの生命線でしょう? ご注文に応ずるため、時に秘伝すら教えていただく身ですもの。お客様に関する質問には答えられません」
ここで切ってしまえば敏腕スタイリストで終わるのだが。
「ほかにもいろいろありますし。言わせる気ですの?」
そっちの営業をかわし続けていると聞いていたが、なるほどねえ。
ムダだと知りつつオプションをマシマシに積む男が出るわけだ。
「実はこちら、その男の上司でいらしてね」
笑顔が消えた。目がつり上がる。子猫がそれこそ豹変した。
「予約のお客様がおいでになります。お引取りを」
ペーターが金貨を握らせようとしたところが遅かった、いや悪手だった。
「貴族の皆さまが私どもをどう思っておいでか、いろいろと有意義なな知見を得ることができました。お礼申し上げます」
さっと立ち上がり姿を消すあたりもどこか猫のような……。
ともあれパールちゃん、なかなかの気骨を持つ女性であった。
いつまで残っていてもしかたないのでこちらも部屋を出たけれど。
「ああそうか、検非違使が嫌いだって」
ペーターめやらかしおった。メッサの上司と言ってしまえばそりゃバレる。
でもそのメッサはパールちゃんから出禁食らってないんだよな。なぜ?
「後ろ暗いとこでもあるんですかね」
「自覚しろよ、そもそも嫌われ者だってことを」
嫌われ者と分かっていても訪れざるを得なかったのである。
メッサの入れ込み具合を見てしまっては。
「おっと」
「これは失礼」
すれ違いざま一礼を交わした「予約のお客さま」もやはり貴族だった。
笑顔の陰で伏せた視線をこちらに走らせるあたり、むべなるかなとしか言いようがない。
ネイルサロン「クレセントムーン」、ユースフ・ヘクマチアルの「縄張り」である。
夕闇のなか慣れぬ小路を潜り抜け、朱雀大路の広がりにぶつかってようやく警戒を解く。
緊張がほぐれるにしたがって思い出されたのはユースフの視線、その動き。
走って、止まった先……なるほど、爪はまだ切り時ではないようだ。
メッサ:新任近衛兵、検非違使。悪鬼のごとき容貌の持ち主




