第三百七十三話 例大祭 その5 (R15)
「牛馬ならばしじゅう観察しておりましたが……ええ、痩せ牛と発育が良いの、何が違うか原因を探れぬものかと。しかし人は恐ろしくて」
遠慮がちな声、斜め前から。それにつけても農政家の鑑ですね。
カレワラ家は人材に恵まれております。
「慣れれば同じです。でもああなると衛生上また違う注意が必要で……」
右隣から慣れた声、そういやピンクとの出会いもその、「処理」でしたか。
ウチの子がいかいお世話になりました。
「いかがでしょう、そのあたりに。カレワラ閣下もご気分優れぬごようす」
正面の声……には、ただ一瞥が向けられた。
控えなさいの言葉を待つまでもなくエミリが下を向いている。
「ありがとうございます子爵閣下、しかし一週間の休養で体が鈍ってしまったようです。こうして馬車に揺られていると、じっさい眠くてしかたない」
フィリアの威厳に触れたことが無かったのだろう、俺に続いてフォローに回るキュベーレー嬢――日ごろ投網は打つわ牛追い回すわ、自若たるその影を郎党のほうから避けて通るというのに――の慌てぶりと来た日には、思わず令嬢の地金が出てしまうほどで。
「私も少し疲れました。お世話になっているのをこれ幸い、公の場に出ることをさぼっておりましたから」
そのまま会話が止まった気まずさは車輪の揺れに救われた。
我らが乗り合わせたこの馬車だが、朱雀大路の辻々で馬を止めては何か楽器を吹き鳴らしている。ぼうぼうと響くその音がまた耳に障る。
「これなるはメル公爵家末のご令嬢、病に苦しむ黎民を救わんとする雅院両殿下の代理にあらせられる!」
盛大なるアピールに人々が足を止め拍手を送る――誰が誰やら分かっているか疑問だが――ならば、馬車の中にある我らは会釈を返すのが社会的義務。
窓の外に向け笑顔を作りつつまるで関わりない会話を繰り広げるのもまた通例。
「睡眠時間、いえ余暇を得たいとのお話であれば影武者を立てられてはいかがでしょう。私も屋敷を抜け出し農場を見に行く際など、侍女に頼んだものです」
清く正しき令嬢とはそういうもの、障害にも信念を曲げず身勝手を押し通す。
しかし影武者ねえ……ウチで俺と体格が似てるの誰がいたか、身近な面々は規格外に大きくなければ小柄で細身だし、ならば「身の軽い」若手から選ぶことになるか……などとめぐる思いに重いまぶたを必死で開けば視界の隅で振られる手、何の気なしに目を止めればそっと隠されてしまう。
白い手袋に包まれたその指を透かし覗くつもりもなけれど。
「節くれだっておりますので」
キュベーレー嬢の趣味はガーデニング(ガチ農業と読む)と生き物の世話(同、生態調査)。手袋に指を通そうとしてかさついた肌に引っ掛かるのが情け無いとのおおせであった。
「私の掌もマメだらけです」
武のメル家その直系令嬢が得物を肌身から離すなど、これもまた聞かぬ話。
「何かお言葉があって然るべきではありませんか、カレワラ閣下?」
女子会を開きたいなら最初から馬車への同乗を求めるなと。
だいたい死体の話と言い……いや、話題もさることながらひとに紳士を求めるならば振り方をもう少し考えてくださいよエミリさん、反応に困るでしょうが。
「当カレワラ家もまた武門、好ましく思います」
そのせいでどうしたって言葉選びは窮屈になり、するとどこか好色めいた物言いにも聞こえかねない。されば次の反応を呼び覚ますのもまた当然のなりゆきで。
「ミューラー卿もそれは凛々しい女性であると伺っております。率直なお話を伺いたいもの」
恋バナ好きね、まあ当然か女子だもの。
率直にとの仰せであれば、言葉づかいも改めて。
「ああ、やっぱり掌のマメや指の節は気にしていたよ。『それが千早だから』と言ったんだけど、なかなか」
囁くという言葉を選ばない、男にはそういうところがある。
その指や掌をどう扱ったか、記憶も胸に秘めたがる。
「『稽古の青あざが恥ずかしい』と私にも以前……」
耳年増レベル25とレベル18がきゃっきゃ言ってるけどフィリアさん、その話しちゃいます?
まあ千早とフィリアの関係は格別だもの、許容範囲も分かってるだろうけど。
「『隠そうとするも除けられてあちこち内出血を付けられてござる』と。あれでなかなか千早さんもあざといんですよ?」
何もかもあからさまにされてしまう、あざだけに。いずれこれまた知ってたつもりが「タマネギの君」。
(ほんと死ねば良いのに。なにその調子乗った顔)
んー? そういや千早、フィリア相手でもござる言葉だったかなあって。
(よーし殺す、いや次の同人誌極小サイズで描いてやる)
(落ち着きなさいピンク、ヒロだって分かってるわよ)
(そうそう、腫れの引かない顔で何を言おうが決まらないってな)
「まあ! いえ、私たちにとっては貴重な情報をありがとうございます」
頬を赤く染めたキュベーレーがしかし礼を述べるにもそれなりの理由がある。
王室の後宮あるいは貴族の奥における「女の争い」その諜報材料という意味も無くはないが、より切実な問題として……男の中には(女も同じか)危険な「癖」――殴打に刃物、はては頸部圧迫やら――を持つ者がいる。情報共有は女性が身を守るために必要なのだ、誰もが千早ではないのだから。
「そんな話、これ以上続けるわけには……ご降車願います男爵閣、きゃあ!」
騎乗随伴に替え同乗を願ったのはメル家の主従、話を振ったのもフィリアだ。
これは通せぬ申し出で、ならば遮るために身を起こす。
左手に柄頭を滑らせ喉に突きつける。固めた右拳、耳を掠めて壁を打つ。
馬車がかすかに揺れた、ような気がした。
壁ドンのせいか……いや、痺れだ。前腕は厳しい、正直なところ。
フィリアの左裏拳からエミリの頬を守る、その目的は果たしたけれど。
「謝罪させます。膝をつきなさいエミリ」
きょうのフィリアは少しおかしい……いや、ここまで来るとさすがにね?
「ご存じでしょう子爵閣下?」
芝居に出てくる貴族そのまま、皮肉な笑顔を作りつつ。
「そうでした、ヒロさんの流儀。『侍女ごときにその資格なし』」
「あ、ヴェロニカさんの……その、あれを断ったって、そういう……」
繰り返す、繰り返す。王国に生きる男の「癖」はすべて筒抜け心せよ。
かつて指を傷めた際の「あれ」、そういうことにさせてもらった。
実のところその理由はまるで逆のところにある、けれど。
表の、公的な、仕事上……そうしたところで厳然と身分の上下がある相手に「奉仕させる」こと、どうにも卑陋猥褻なものを感じた、やり切れない思いをした。
(分からなくはない)
(そうねネヴィル、「プレイ」って言うぐらいだもの。だけど)
(どっちにしろヴェロニカさんは断れない、その事実は変わらないじゃん!)
(難しいんだぞ。ヒロは違う世界で育ったんだし男は繊細だから、その)
(ヴァガンに言葉を選ばせるかよ。思った以上にこじらせてる)
退出を命ぜられたエミリが騎馬で駆け去ったのは致し方ないところとして。
「まもなく到着ですか、私も先乗りして準備を整えてまいります」
キュベーレー嬢、真っ赤な顔で下を向きあわてて身支度始めたけれど。
ああそうか、「侍女の奉仕を受ける趣味は無い」って、そういう……。
「まさに到着間近、時間が足りないさ……どつくなフィリア冗談だ……子爵閣下の名誉のため言い添えておく、我らの間にそういう話は無いよ」
フィリアの「圧」に慣れたものか、いや威厳も何もあった話ではない。
ともかくキュベーレーもようやく日ごろの笑顔を取り戻していた。
「今のところそのようですね。はっきり承ったところで準備に向かいます。ごゆっくり……いえもちろん、積もるお話など」
鞍上へと身を移す後ろ姿にゾンビ映画を思い出す。
こんなところにいられるか! ……あれ名台詞だったんだなって。
「さすがにお見通しですか、クロイツ侯爵家の要人ともあれば」
遠ざかるサイドサドルの華やかさ……下の句七七が難しい。
「それにしても攻め過ぎだよフィリア。話の趣は?」
「そう離れてもいないのです。筆頭掌侍またミッテラン夫人から、私のところへ回って来ました……と言えば?」
王后陛下また雅院妃殿下の「ご内意」ということになる――陛下や殿下がそこまで気を回されるものかは微妙だが――そういうことに「なってしまう」。
だから男も女も側近の座を争う、己が解釈胸先三寸で権勢を振るうべく。
「やはり難しいものですか?」
昼日中男どうし言い合い殴り合いするだけでも骨なのに、プライベートな時間までややこしくされるなど想像するだにもう、勘弁してくれと。
いつまで言っていられるか、それこそ難しい話だが。
「今しばらくは断るさ。『毒がいまだ体内に残っておりますゆえ』……ムラサキエボシソウの根は忌み嫌われているからね、このとおり顔が醜く腫れ上がる」
「その毒を吸い出せとエミリに命じてしまった……さすがに酷ですね」
言葉にそぐわず頬にはどこか悪戯な微笑が浮かんでいて。
いつもより少しばかり魅力的に思えたのは――馬車を降りるや迎えの人々が思わず表情を変えたのを見るにつけ――気のせいばかりでもないようだ。




