第三百七十三話 例大祭 その1
ようやく顔の腫れも引き、あすにも近衛官舎を出ようかとその顔を剃り鏡を眺めてみたところ、アゴ下に剃り残しが一本にょろりと伸びていた。片付けた剃刀を今さら当てる気にもなれず抜こうにも滑って捕らえられずにいたところを「失礼いたしますマスター」と、呆れたようなその声も終わらぬうちピーターに引き抜かれた。
病人ですら飽き飽きする六日のカンヅメに付き合わされて郎党衆もいい加減遠慮が無くなっている。来客もついに見舞いの体裁を取り繕おうとすらしなくなり、当然のごとく「打ち合わせに来ました」と言い抜けて上がり込むありさま……いや、特に中流貴族と言われる人々はこのタイミングを計っていたものらしい。上流連中とバッティングしては肩が凝る。見劣りしない「良いもの」を土産に持って行くようでは懐が痛む。
刑部権大輔どのなども土産代わりに防疫政策の報告書やらを持ち込みひとくさり論じた後、「それではこれにて」とさっそく腰を浮かせたものだったが……そこは「まあもう少し」とお茶など出して引き止めた。
前の客人と次の客人と互いの話が機密に属するものならば、そこは配慮をするところ。しかしことによっては「構わない/むしろ多くの人に聞いてもらいたい」と、そんな話柄もあるわけで。
その旨あらかじめこちらに伝えていた次の客人アロン・スミスとの付き合いも長い。したがってこれまた遠慮無く口を開いたものだった。
「我があるじ(イーサン)が来たる祭礼の事務を仕切り回していることはご存じかと」
トワ系の例大祭、一族あげての大イベントである。
今年は疫病退散また豊作祈願、王長子殿下に慶事ありということで、さらに賑やかに執り行われると決まっていた。
その事務を任されるのは栄誉でもあり負担でもあり、なるほどそれはイーサンが側近アロンとしても力が入るところであろう。さてそれでは何を求められるかと傾けた耳に、しかし聞き慣れぬ話が流れ込んできた。
「さきに行われた春の除目、あるじは故なく昇進を見送られました。我ら郎党も痛恨の念にたえません。次こそは、祭礼を期に行われる臨時の除目ですが、その機会はぜひにと……むろん、職務に精励のゆえをもっての昇進を目指すものです。つきましては皆さまのお仕事について、我らでお手伝いできそうな件など伺えればと」
聞いているうち刑部どのの顔色がみるみる険悪となった、正直見たことが無いほどに。この点彼は典型的な中流貴族、面倒な大物を相手取る際には角を隠して角立てずという柄であるはずが……ついにはあからさまにアロンから目を背けあまつさえこちらを睨みつける始末。そのまま腕を伸ばして笏をアロンの鼻先に叩きつけたこと自体が乱暴だが、直後放たれた言葉に至っては明らか横暴の域に達していた。
「カレワラ党の諸君、何をためらうか! 中隊長どののご下命に従いこの痴れ者を叩きのめせ」
確かにアロンの言に違和感を覚えてはいたけれど、小心者の刑部どのにして他人さまの下命を捏造するとあれば、何か意図をお持ちに違いないわけで。
しょうことなしにハンドサインで「ほどほどに」と伝えれば、そこは我が忠勇なる郎党諸君である。ためらうことなくアロンに詰め寄っていた。刑部どのに肘打ちのひとつもかましがてら。
その刑部どの自らも立ち上がる。当家郎党の足払いにもめげず歩みを進め扉を開き、近衛の官舎じゅう音にも聞けとライブ配信をおっぱじめた。
「よろしいですか中隊長どの、自分の責任ではないところで昇進が滞る、どころか退職を迫られる。我ら官僚にとってそれは通常運航、いわゆる『あるある』なんですよ」
上流貴族ではない彼ら、純然たる官僚の話だが。
そのキャリアパスはループ式の登山道に似ている。
足を踏み入れた順(年次の順)に上へ上へと回りながら昇っていく。うまいことステップ踏んだ者が少し先に出ることもある。
時々山のてっぺんで落石が起きる。起きてしまえば……それまでの席次、並び順は関係ない。落ちてくるラインの上に偶然立っていた者が「脱落」である。
彼が何か悪事を働いたわけではない。しくじりがあったわけでもない。ちょうどその時その職場に足を留めていただけのこと。
加えておよそ落石というもの、往々にしてその原因は山巓の一石……小さな崩れに過ぎないもので。
それこそ誰のせいとも言いがたけれど省庁のヘマとみなされてしまう事件であったりするもので。
そんな時は問題のレベルに応じ、責任者当事者と目される人物が辞任(あるいは勇退)すれば事は済む。
そのはずが、時として省庁の側でも小さなメンツを言い立てる。「自分たちのヘマでないものを失態と認めては後の仕事に差し支えるではないか」と。
そして省内の圧力に負けた当事者が勇退を躊躇する、あるいはその空気を利して椅子にしがみつく――つまり辞めるはずだった「上」が辞めない――ならば、後任大本命と目されていた人物はどうなるか。
「泣くしかありません。我ら官僚にとってそれは当たり前、受け入れなくてどうします」
それこそ泣きそうな声で叫んでいた、五十を過ぎた大のおとなが。
「大本命をどうしても後任に据えたいならば、前任者が辞めるのです。考えようによっては小さなメンツ、捨て去っても良いんですよ。実力派の後任の下、粛々と実務を回せば取り戻せる」
そう綺麗にいくものか、前任と後任大本命とどうしたってそこに綱引きが生ずるはず……と思った俺はどうやら少々ド腐れ、もとい毒されていたものか。刑部どのの声はあくまでも厳しく力強く、まさに襟を正さずにはいられぬものがあった。
「だが責任者を辞めさせず後任人事も通そうとするのはいけません。かならずどちらかです。ふたつを得ようと欲張るべきではないのです。なぜとおっしゃる? 良い結果になった先例がないからですよ。役人にとってはそれで十分」
ふたつを得ようと思えば政治の介入を招く。つまり必ず「騒ぎ」になる。
そして政治家に借りを作り、省庁のメンツはこんどこそ丸潰れ。
「いま論じているのは律令(組織法)の問題ではありません、くれぐれも。所属に迷惑をかけぬという組織人としての心構え、また個人の出処進退について申し上げている……もう少し俗に言うならば、役所の権益を守るためにどうあるべきかという話なんですよ。そこで『約束』を破ったら『その後』、お分かりでしょう? 天下り先の格から、貴族であれば子孫の引きにまで響いてしまう」
やっぱり綺麗なだけで収まるわけがないのである……が、ともかく。
かつて刑部省でも事件が起きた。
詳細はまた別に述べるが、右京職・ヘクマチアル家の暗躍によって刑部少輔(収監担当)がいわれなき非難を受けた。難癖としか言いようのない世論に刑部省は役所を挙げて反発、「少輔の責任を問うてなるものか、絶対に左遷させない(縦への昇進ポイントがたまるまで横に動かさない、留任させる)」と意地になり、結果人事にひずみが生じ。
「地位年齢とも退官にほど遠かったのは幸いでした。しがみついて再起を期すことができた……いえ、給料泥棒に成り下がっていたんです、ご存じのように。それでも私は騒ぐことだけはしなかった。猟官であれ保身であれ、そこには守るべき何ものかがある」
王国における省庁のメンツとは、そのままトップたる宮さまのメンツでもある。
だから当時の刑部どのは自らが泣いた、婿君の名に傷を入れまいと。
刑部少輔への昇進間違いなしと言われたところで頓挫し、左馬助にくすぶって。
おかげで彼に出会えたことは、どうやら俺にとっても幸いであったものか。
「これがデクスター伯爵閣下ならば何も申しません。尚書になる、閣僚を目指す。その段階で勝負に出られると言うのであれば。それは政治の話ですから」
むしろ慣例を蹴飛ばすぐらいのほうが政治力あり、剛腕と目される。
伯爵個人にとどまらずデクスター家の威光を思い知らせることもできよう。
「しかし男爵閣下は21歳、将来はいざ知らずまだまだ役人、私よりも……いえ私とさして変わらぬ地位にありながら、その程度の足踏みで人事に不服を抱き後から覆そうとは何ごとです。それは通りません。通してはいけないんですよ。ご本人のためにも、役所のためにも」
――私もトワの端くれ、デクスター家に不快を抱きたくはないのですがねえ――
吐き捨てて、まだ腹に据えかねているか笏を折ろうと両端に手をかけて。
たわみはするがこれは腕力が及ばぬらしいと悟って首を傾げていた。ならば諦めるかと思いきや、やにわに膝を持ち上げ叩き付け。
だがようやく折れたその音がめしゃっとどうにも湿気ている。真っ二つにもならず笏の表にささくれだけ作って投げ捨てたのを……笑顔を浮かべた若党が拾い上げ袂にしまいこんでいた。
「どうやら私の『復帰戦』は決まったようですね刑部どの」
勢族相手に啖呵切ったあるじを見上げる若党と、今さら冷や汗かきだしたご本人と。
見比べてしまえば答えは出たも同然で。
「蔵人所でデクスター伯爵閣下にどやされてきます」
非はアロンにあるけれど、頭下げるわけにもいかない伯爵閣下。
非はないけれど、雅院派の刑部どのを庇わぬわけにもいかない俺。
要は出来レースである、復活記念にお手ごろの。
アロン・スミス:イーサンの秘書、計数に長けた中流貴族。暗殺術の心得を持つ




