第三百七十二話 まんまる その3
「それじゃあお大事に」
軽々と腰を浮かせたオサムさんが扉をくぐりがてら振り返った。
「『笑えぬ振舞いだけ慎んでくれれば』、まこと佳き言を聞きしもの」
やられた。
起き抜け病み上がりのふわふわした頭で応対できるはずもなかったのだ。
「お待ちください閣下、これは当カレワラ家の問題」
口走るアカイウスにも反応できずかろうじて声を張り上げるばかり。
「非礼をお許しください、善処すること誓います」
恥じることでもない。ノーフォーク伯爵すら口答えせず引き下がる相手だ。
立花伯爵の言葉には権威がある。従うことが求められる。それが王国貴族のお約束なのだから。
「分明ならざるところ多く、体調も厳しいだろうとは思う。それでも信じているよヒロ君」
その笑顔はいつだってトラ箱を出た時と変わるところはなくて。
その意味が変わるのは、俺の側が同じではいられないからで。
頭の奥、「芯」に痛みを覚えて寝台に倒れたところで休息は得られなかった。
こちらを覗き込むなんとも愉快げなその笑顔、ご満足いただけたならばどうか解放してください。
「見舞い客は皆さまお帰りです、中隊長どのも意識を取り戻され大事無いご様子。我らも帰りましょう、さあ」
そうそう、お付きの侍女どのもこう言っておいでですし。
「看護を言いつけたお医者さまに叱られますよエミリ。雅院には宿下がりの許可を得てありますし、インテグラ姉からも詳細なレポートを求められているところ」
背を見せようと寝返りを打つ前に肩を押さえられた。それはまあこの程度でダウンすることを許すご家風で無いことは承知の上……ならばいっそと引き寄せるべく腕を伸ばせばその「勘所」を物差しで強かに打たれる始末。悪かったから梃子の原理で顔を叩くのは勘弁してください。ほんとうに痛いのであります。
「赤み強く痛覚あり、直径約30cm……昨晩の経過報告に描かれた似顔絵のおよそ三分の二、順調のようですね」
カルテに似顔絵を描き入れるわけがない。
ヒマに飽かせて落書きする幽霊がいたのである。
「通常の倍に膨れる代わりに治りの速さは4倍。むしろ代謝の異常まで疑われる、と……参考になるのでしょうかこれ? 精霊のたぐいに魅入られた人間は何でもありとはいえ」
身をやつして紛れ込んだ姫君の看護で健康は回復するのでしょうか?
いえ、何でもありなんですよね分かっておりますとも。
「フィリアさま! 未婚の令嬢が近衛府いえ、あえて申し上げます。餓狼の巣窟にとどまるものではありません」
既婚ならば良いのだろうかなどと疲れた頭で反芻しつつ、「心配はご無用です」などと紳士ぶる。先ほどの行いのせいで説得力無いことは自覚しているが。
いえね、女性の4人や5人が安全に過ごせるひと部屋ぐらいは提供できます。なぜって何千万人、億にも至ろうかという人口を抱える経済大国の近衛府、その寮ですよ? 極東におけるフィリアの私室ではないけれど、中隊長部屋自体がンLDKという単位なんです。
「何をいまさら。エミリさんこそご主君が治療いえ『介助』を受ける様子を食い入るように見ておいででありながら」
アカイウスめ鼻で笑っていたけれど。
毒物の治療とは、要するに体外への排出を促すほかにないわけで。つまり大事となるは水分摂取、半死半生でも水を流し込むわけで。入れたものは出るわけで。ちょっと待て。
「ふざけたことを言わないでください! 何を見ていたと……」
被害者はむしろ俺である。
顔の膨張、そのインパクトが強すぎるとですね、他のところが相対的に小ぶりに見えやしないかと。絶対的な問題ではなくてですね、あくまでも相対的な問題に過ぎぬところではありますが。
(死ねばいいのに)
(そう言えるんだから良かったぞ)
「ご安心を、マスター。私がお世話いたしました。そもそも皆さまが到着されたのは今日の午前、お目覚めの直前です」
それはそれでどこか情け無い……ま、いいか。
主君と侍衛、また従僕。軍旅の先で連れショ、もとい風情を共にもすれば平時鍛錬の後は肩を並べて湯船に浸かる仲でもある。
何考えてるかお見通しのはずだが、こんな時だもの。あえて触れずにおく優しさはフィリアも持っていてくれた。
「見たところ命には別状無いようで安心しました」
きょう一日、ここまで真摯な見舞いの言葉をついぞ聞かなかった。
どいつもこいつも「死に損ない」だの「仕事に穴開けるな」だのこちらを責めるばかり。
「ならば早々にお帰りになっても良かったのでは」
一転エミリさんは塩対応、それは職務上そうあるべきところではありましょう。
しかし令嬢の真摯な思いにも想像を巡らされてみてはいかがかと。
「貴顕詰め掛ける中を帳の内から白昼堂々顔出して、ですか?」
いや、フィリアさんもかくれんぼを楽しんでおいでだったご様子。
「エドワードさんには気配でばれてしまいましたけど」って、あの赤毛め思い返すだに腹が立つ。「ちゃんと」してるに決まっているではないか。衆人環視の中でふざけたまねなど……。
「で、これからどうするのです?」
はい、分かっております。
無駄話は軍人の忌むところ、余事は本陣を陥落させて後に片付けるべし。
「子爵閣下、ことはカレワラ家の問題です」
ふたたびのアカイウス。
立花伯爵には釘を刺されてしまったけれど、これは何度でも主張が必要なところ……って、メル家の発想は立花と真っ向対立するからなあ……。
「ひとつ、罪を将曹のみに留める。ふたつ、黒幕まで糾弾する。みっつ、黒幕を『設定する』でしたか?……控えなさいアカイウス、これは指図ではありません。当然の趨勢を確認したまで」
フィリアにして、黒幕を捏造するところまでは思いつかなかった……いや、どうだろう。無意識のうちに選択肢から排除していたものか。メル家の発想とはそういうものであるように思う。
「何を迷っているのです?」
フィリアの口から言わせてはまたアカイウスの目が尖る。
今回ばかりは郎党衆の機嫌を損ねるわけにいかない。
「ひとつめの方針では家臣の不満を押さえられない……いや、心配かけた一同に顔向けできない。みっつめの方針も、濡れ衣では気が咎める」
聞きながら物差しをぺちぺちと掌中にもてあそんでおいでであった。
ご令嬢にここまで心を許されるとは名誉の極み、ではあるけれど。
……自分の直観にウソをつくんじゃない、か。
善人ぶりたいわけではないが、冷えが身にこたえることも事実だ。時しも弥生、病み上がり。
「無理な設定は粗が出る。陰謀には根回しが必要で、今の俺にはその体力と根気が無い」
少し頭を動かすたび芯に痛みが走る。熱がぶり返したか。
「しかしふたつめの方針では……将曹と関係者の過去を暴くことになる」
女神サマの予言どおり、おもしろくならざるを得ない。
そう言い抜けるのも半ばは嘘だが……。
鬢に触れる指の感触に顔を上げた。小さな頷きにゆれる目と視線を交わす。
この嘘は自己欺瞞ではない、互いに分かっている。
直観とも言えない予感はあった。
黒幕が内匠頭であったなら……その寄親・中務宮さまと対立せざるを得ない。
「すぐ決めることでもないさ。この顔じゃ表を歩けないし」
覚悟さえ決まってしまえばどうとでもなる。
そう思わなくてはやっていられない。
「泊まっていくんだろう? ここは総領侯爵閣下も未踏の地、いまだその侵略を免れている」
エミリと来たらもう、地団駄まで踏み出した。
からかうと楽しくて仕方無いが、度が過ぎては恨まれる。
「ああエミリ、安心したまえ。この顔で夜這いなんざ絵にならぬにもほどがある……子爵閣下のお許しを得られるはずもない」
「ええ、お誘いありがとうございます中隊長閣下。ならばお礼にお見舞いらしく、食事は私が作ります。病院食なら得意なことご存じでしょう?」
宣言に違うことなくメシマズ(薄味)の本領を遺憾なく発揮してくださった。
つくづく毒殺未遂など二度とゴメンである。
夜半の月は円満には遠かったけれど、灯火に助けられる夜更かしも悪くはない。
つれづれを眺めるにつけ寄せる肩、紙一重の慎みを保ちつつ。
「ここは歴代中隊長が執務室、メル家の人々も愛用されていたんだ」
セザール参上って、彫り込むに事欠いてあのおっさんさあ!
他にもみなさんいろいろやっている……というか歴代中隊長、必ず何か一筆残している。
家系ごとに近場のエリアを占拠し、おおよそ年代順で。
「姉の痕跡は無いと?」
女性の名が無いわけではない。
歴代中隊長どのもそこはまあ、小隊長たちの鈍感力に助けられていた。
「ならば私も題銘と日付を」
愛せよ、隣人であれば。
フィリアの個人銘、それは存在の証明にして主張である。
鎌倉武士の名乗りと同じ、父君とも発想において異なるところは無い。
「公達の聖域にあまり出しゃばるものでもないでしょう?」
(そういえば女の書き込みはみんな控えめだな)
(貴族のお姫さま、ふだん猛獣みたいなのにどうしてだ?)
(なるほどヴァガンは真理を突く……まさに野獣だよ)
(マーキングした、その事実こそが大事なんですね分かります)
「一番古いのは……ああ、500年ほど前ですか」
王国の進出をメル家が撃退した、いや当時の成長限界点だったと言うべきか。
いずれにせよ敗戦をきっかけに王都で政変が起き、近衛府の官舎も焼け落ちた。
「ヒロさんの書き込みは?」
インディーズ軍人貴族勢の「縄張り」、壁の一角。
書き込みが下から伸びていた、ある一ヶ所で止まるまで。
壁の半ば、何とも目をひく位置取りに、これまた何ともほどよい大きさの白い円が描かれていた。
近づけばそれはひとつの書き込みと周囲のサインに縁取られた余白と知れて。
80年ほど前の日付にはじまり、以後15の署名が放射状になされていた。
立花伯爵の、明らか酔いに任せた筆跡があった。
就任直後の日付と共に記された「アレクサンドル」、文字は鋭く尖っていた。
ウォルターさんがほどよく隙間を埋めていた。
眉毛にも似た太い墨痕、マックス親子の書き込みだった。
「ニコラス」その書体は義務を果たしたと言わんばかりに謹直であった。
「笑えぬ振舞いだけは慎まなくちゃいけない、か」
王国貴族のあり方とはなんだろう。
おのおの王を扶翼し、時に一丸となって対立し。そうして国を守り一族を繋ぎ。
「王国の高徳に感謝を、諸卿の芳情に報恩を。これよりはまた伸展を祈念して」
円を閉じよう、まんまるに。
エミリ:シャープ家三女。クレアの妹、ソフィアに近い。現在はフィリア付き
セザール:メル公爵の名




