第三百六十六話 両面宿儺(リョウメンスクナ) その4
古人曰――聖主采詩以観士風、能居然而弁八方
(聖王は民間の詩を採り上げて国情を把握し、いながらにして天下のことを判別したとされている)
「いまはこれ異格たらんも旧招かれて異客たり。ゆえに両面宿儺の名において国の光をここに告ぐ。いざ観よや」
(私はいまでこそ悪神扱いだが、もとはこちらにひとり招かれた異国の旅人・「客」である。ゆえに「客」にふさわしく(詩賦を用いて)国の美点を告げようではないか。両面宿儺の名において)
蹴蹈朦朧――
(あやふやな足元、踏み越えゆけば)
峭峙嶢岧刻削嶕嶛……巓有巨岩嶄巌而嵾嵳……
(山々は高く聳え、その頂はゴツゴツと入り組み)
スタジオで思い知らされた己の限界、それでも全力で叩き付けるのみ。
床を蹴りつけ跳び上がり、あえて重く落ちる。大地を踏み鳴らす。
紛而去彼幽邃逍遥盤岸――
(乱れた心を充たせぬままにこの幽境を離れ、曲がる岸辺に歩を遊ばせれば)
穿泉洶涌湃澎沢江浩瀁浟浟……然後徐翔太湖徹清……
(源流では水が豊かに湧き上がり、江河に注ぎ滔々と流れゆく。やがて流れは穏やかに太泉の清らかな水面へとつらなり)
鋭く、緩く。多種多様の回転を。
激突しようが構わない。広く、大きく、拍に切れ目を作ることなく。
超紆譎之碧澄踏案衍之惝弘……鷹隼翺翔羅網絡幕……――
(澄んだ水を越え広い原野に至れば、狩猟が行われていた)
射猴猱系麇麎獲彪虎弾鸞鶤。驀六駮追飛生黄熊斃白雉零……
(とらえたものは猿に鹿、鳥に虎に熊に雉)
高く軽く、速く強く。
跳躍を、旋回を。楽を早めよ調を転ぜよ。
追儺会。
仕掛けは「呪」、「ことほぎ」。これをもって成り立たせると決めていた。
洗練の果てに生ずる「間」の文化。
その対極こそが隙間無く埋め尽くす「呪」のうた、「賦」。
土地土地の「よき物」を羅列する。山に山を重ね水に水をかぶせ、花果鳥獣で景色を塗りつぶす。農鉱の産品を並べ韻律に乗せ畳みかける。
さながら田舎の夏祭り、お祖母ちゃんのおもてなし。てんこもりのご馳走を食卓一杯に並べ腹はち切れるまで押し込むがごとき文学。それが賦、ご当地ソング、物づくし。もっとも素朴なお国自慢。
そして、儺戯(仮面劇)。
国家行事が民間へ広まったものとも言われている。
やがて演劇、舞踊、礼楽へと、洗練された身体表現へ流入また発展したとも。
国などとも言えぬ人間の集団がその原型を生んだのは太古の昔。洗練の底にはどこまでも血腥く泥臭い記憶が纏わりついているが――それはしかし、宮中行事においては「ことほぎ」の陰にあるべきもの。
於是轃夫禁苑遇是鴻恩――
(そしてわが王都に至り聖徳に浴したのであった)
邑老力耕牛馬緩行都子靚粧輿輦縦横聖主垂拱臨廷有司正襟列庁……
(村人は農業に励み都の人々は豊かに暮らし、政治は適正に回っている)
奇道――力業で肝を奪い、舞台を埋めて目を眩ませ、無茶なビートで耳を犯す――はもはや通用しない。ごまかしの利かぬ正道を担うべきは近衛舞人、王国の儀式を彩る踊り手だ。
その群舞を、隙無き躍動を利して後列に紛れ込む。
賦、その締めは決まっている。
人間、国を成り立たせるものに向かう賛美。
だがゆめ忘るることなかるべし、追儺に鬼は現れる。
祭事の主が、為政者が、忘れた頃にやって来る。
ことほぎの陰に隠れてあるべきを、なまの人たるしぶとさを。
呪われし鬼が紡ぎし祝い歌、両面宿儺の名において。
さあ、スレイマン殿下あなたも。
国を望むならば受け止めてみよ。
隙間無く言辞が詰め込まれた頌歌・賦を。
王たらんと欲するならばみごと退けてみせろ。
鬼神の面を通して響く、日陰に逐われし者の怨嗟を。
―― こ ち ら を 見 た な ?
一瞥ののち逸らされた視線、その死角から躍り込む。
模造の竹光たろうとも衣を切り裂くぐらいの芸は軍人貴族の嗜みで。
応じて側近、抜いていた。非礼と見て逆上――いや、その沈んだ腰。なるほど、事後楽屋から真剣でも見つかろうものならば――どこまでも売られた喧嘩と気づかされ。
その気なら野暮も禁忌もあるものかと伸ばした刃、危うく返して引き寄せた。
脇にたばさむ率易の礼、伸び来る影に率常の意を示すべく。
割って入る薄紅の旋風は仮装無き鬼神、聖上陛下侍衛その人。
側近の呻きは半身で流す。返した刃、竹光の峰。そのまま地面に突き立てる。
師に呼応した赤毛の舞わす長い脚、防ぎとどめて跳び退る。
飛び入りならば大歓迎。
仮面劇とは共同幻想、紡がれ続ける国史ゆえ。
ぶっつけ本番、不恰好でも構わない。何より大事は合わせ舞うこと。
我ここにキュビを繋ぎ留め得たり!
なにを憚ることも無い。
詩賦の流露れ感の極まるとき、人は手を舞わせ足でリズム取りせずいられない。
くどい演技の阿呆ヅラ、やり込められて阿呆ヅラ、眺めるだけの阿呆ヅラ。なべて阿呆なら踊らにゃ損だ。
イーサンがアルバートと棍を撃ち合わせていた。エミールが高く跳び、イセンは緩やかに旋っていた。
鬼神の乱舞に付き合わず、半ばに減じた拍に乗せる器用さよ。
ああ、ここにクリスチアンがいれば。外に出すのではなかった!
だが見せ場は作った、泡も食わせた。
さあおでましあれ、スレイマン殿下。
台本どおりに退散して差し上げますとも。
振り下ろされた笏、弾き返した。
足りない。それでは退けない。
悪神相手に王長子は迷い無き大上段を、中務宮は一歩と退かず叱咤の呪を、兵部卿宮は得物を両断……一撃の後、みな怒りと笑いを返したのだ。
主役が弱気を晒したまま祭事を、追儺を終えるなど許さない。
ここは後宮、貴人ならばひと手舞わせたまえ。男ならば一足を踏み出したまえ。
片手に残った竹光を摺り上げる。笏が浮く。眼前の腰が伸び胴が開く。
膝を沈めて鳩尾に突き込……むことなく、踵を上げて一旋舞。
沸き起こる喝采、間違いなく俺に向いていた。
さあ殿下。これを奪いたいならば、受けたいとおおせならば、いざ!
紅潮する頬、膨らむ二の腕、背に立ち昇る霊気。気合一声、銅笏の三連撃。
応じて上がる音は鈍く潰れていた。芯を食っていない。気ばかり上せた腕任せでは力が足りない。怖く無い。
思いきや、遅れて続いた霊気に模造剣がへし折れた。衝撃が肘を掠める。
その怒りと笑いが見たかった。俺も、誰も彼もが。
受けられよ、この歓声嬌声こそあなたのものだ。
されば敗者は消えるのみ……怒りの追撃は御免こうむる。
舞台袖の暗がり目掛け、鬼神の夜行が全力疾走。
捌けたところに頃合良く寒冴えの曙光が訪れた。
どうやらスレイマン殿下、まだ「持っている」。厄介な!
「解散! 隊務ある者を除き自由行動の後、明日の朝賀(元旦の行事)に備え宵に集合」
祭は終わり、日常へ。
盛り上げて、見せ場を作り、掻っ攫わせて。
すがすがしき達成感と、すがすがしいほど何も残らぬ無力感と。
仮眠でも決め込むほかに……
「中隊長どのもとい両面宿儺さま宛てに、公爵閣下よりお言伝を預かっております。『当家にても舞を披露されたし。例にならい歓迎する』と」
それははるか昔、開国の英雄王から遡ること幾星霜。
旧都を追われた両面宿儺は東に逃れ、メル家の祖に出会ったと「されている」。
西の文化を彼らに伝え、その最期は……いくつか説もあるけれど。
ともあれメル領における両面宿儺は福の神、歓迎されると聞いていた。
「素朴な民間行事ゆえ」本宗家で大々的に挙行されることは無い、とも。実のところは悪神扱いしている王国への配慮だろうけれど。
このあたりが「ふたつの顔を持つ両面宿儺に俺をなぞらえ追い払う」嫌がらせのキモだったわけで。
「『祭事は精魂果てるまで尽くせ。喧嘩を買うなら首尾良く果……いやその、首尾一貫すべし』との仰せ。『舞人楽人の衆もぜひ。派手に頼む』だとよ!」
俺は良い。マグナムもヒュームも、伝言を持ち来たったアルノルト・ヴァルメルも。だが舞人楽人は……メル家の饗宴にあずかって「スレイマン殿下へのあてこすり」と噂されては。
(否応無く人を巻き込み敵を薙ぎ倒す覚悟。それって道切り開き背に同胞をかばう覚悟と背中合わせの両面よねえ?)
ずしりと響くおネエ言葉の重低音。
まさに言の葉は呪、他人に投げ掛けたものがそのまま己に返ってくる。
実際、俺は近衛府を掌握しつつある。追儺を通じて舞人楽人とも一体感を得た今なら、今だからこそ……。
「ひそやかにメル邸の奥へ這い入るあてが外れましたな、中隊長閣下?」
肩を落とすと言うけれど、ほんとうに「かくん」と落ちるもんだなと。
たまには最後までかっこつけさせてはくれないものか。
だいたい肩で息しながら言うことか? 五十の坂もとうに越えたおっさんが。
あまつ頬を真っ赤に上気させ、目を光らせて……?
ああ、助け舟感謝!
「言ったな将曹、ならば八つ当たりだ。貴様ら全員半休没収、我に続きメル公爵家に突入せよ。これは軍令である!」
「浟」は本来「さんずいに悠」のところ字が見つからなかったので代用しました。




